文字を持たなかった明治―吉太郎56 高等農林

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎は、昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしいと思っていた。しかし先生も妻のハル(祖母)も進学を勧め、吉太郎は不承不承高等小学校進学を認めた

 2年近くが経ち二夫の高等小学校卒業が迫る。今度こそ百姓仕事に専念させたいと思っていた矢先、二夫はさらに上の学校へ行きたいと言う。しかもその目的は「家の田んぼや畑でもっと収穫を上げるため」であると言う。

 二夫は続けて言った。
「オレが行きたいのは、高等農林です」

 すでに志望先を知っていたのだろう、ハルは囲炉裏の下座のいつもの位置で、にっこり笑った。

 吉太郎たちが住む町(当時)には、昭和9(1934)年に県立の農芸学校が創立されていた。その後身に当たる現在の県立市来農芸高校の「沿革」によれば、「修業年限:3年,入学資格高等小学校卒業程度」とある。高等小学校に進学た二夫には入学資格がある。試験に受かればという前提だが、二夫の成績から言えばその点の問題はほとんどなかった。

 問題はもちろん、吉太郎の同意が得られるか、である。

 少年の二夫は、これからの農業というか百姓は、昔ながらにコメを植え、カライモ(サツマイモ)を作り、片手間に野菜を植えるだけでは立ちいかないだろうと、少年なりの理想とともに考えていたことだろう。幸い、父親が苦労してくれたおかげで、ある程度の規模の田畑、そして山林もある。

 米英との戦争も始まった、この先食糧の確保は致命的に重要になるはずだ。――ということまで考えていたかどうかはわからない。が、昭和12(1937)年に日中が戦争状態に入って長いうえ、新たな戦争も始まり、食糧生産そして増産、そのための「科学的生産方法」の重要性が一般の農家にも必要だ、と説く人々は、この田舎の農村地帯にも何人かいたとしても不思議ではない。尋常小学校より上の学校に行った二夫は、教師たちが重要政策について語るのを聞いたこともあっただろう。

 その「科学的生産方法」を、農業専門の学校に行けば学べる。それは、ある程度の経営規模を約束された一人息子にとっては、心躍ることであったに違いない。ほんとうはほかにも学びたいことがあったかもしれないが、「その他の道」はどう考えても閉ざされていた。

 ところで、後身の高校の沿革などから見ると、二夫が口にした「高等農林」とは俗称だったと思われる。高等専門学校に当たる鹿児島高等農林学校は現在の国立鹿児島大学農学部の前身であり、尋常小学校卒業後5年制の中学校を経た者に入学資格があった。

 二夫が志望した農芸学校は、中学校卒業資格が必要な高等専門学校ではなかった。が、地元で高等小学校より上の学校に通う子供は多くなかったし、「高等教育を施す機関」という意味で、地域の人々は「高等」と呼んだのかもしれない。

 それに、同じ県立の農業者のための教育機関として、県内の農芸学校と高等農林との間に何らかの協力、補完関係があったかもしれない。そのあたりは、二夫自身の物語を書くときに改めて掘り下げてみたいと思う。

 その農芸学校のひとつが地元にあった。寮に入る必要がないばかりか、徒歩で通学できるという意味でも、二夫自身はもちろん、学費を出すハルにとっても好都合だった。学校の合間に農作業の手伝いをするにも、学校が近いことはありがたかった。

「家の手伝いも、これまでよりもっとできるようになる」
二夫の言葉に、吉太郎はまた渋々折れた。二夫は青年の体つきに少し近づき、農作業の効率も格段によくなりつつもあった。

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