文字を持たなかった明治―吉太郎57 学校は役に立つ?

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしいと思っていたが、二夫は高等小学校へ、さらには地域で「高等農林」と呼ばれる農芸学校へ進むことになった。一連の流れは、無学で自分の土地を広げることにしか興味がない吉太郎にとっては、意に沿わないことだった。 
 
 二夫の進学先は、吉太郎たちが住む小さい町を含む地域全体では、中学校の次に「立派な」進学先でもあった(当時、離島を含む鹿児島県全体で、中学校は10数校しかない)。先々大学進学、そして官吏や大会社への就職という道を描き、それだけの学力があり、かつ家庭にそれを支えられるだけの経済力がある少年ならば、中学校へ進んだかもしれない。

 しかし、農山漁村においては多くの子供たちが尋常小学校を出た早々働き始めた時代、高等小学校へ進む子供も多かったわけではなく、さらに上の学校へ進学する子供は限られた。何より、10代後半の子供にまで学費を払い続ける経済力はない家庭が多かった。一組の夫婦に授かる子供数が、10人はざらにいた時代でもある。

 その点、二夫は当時極めて珍しい一人っ子だった。学費を出してやることは吉太郎夫婦には難しくはなかったはずだが、何回も触れているとおり、晩婚の吉太郎は二夫に早く仕事を覚えてほしかったし、土地を買う以外のことにお金を出すことにも納得がいかないままだった。

 農芸学校に通い始めた二夫は、高等小学校より多岐にわたりかつはるかに難しい授業も、最新の農業技術の習得も、そして学友との交流も楽しくてしかたがなかったと思われる。町内の生徒だけだった高等小学校までと違い、広い地域からある意味選ばれた生徒が集まっていたからだ。

 彼らには、経済条件や家庭環境が許せば、ゆくゆく大学進学や官吏への道を考えてもおかしくない学力を有している者も含まれた。ただ、農家の長男だったり、それを補佐する役割を期待されて、農業を学びに来ていた。

 ちなみに、同じ農家の息子でも、相続する田畑が期待できない三男、四男以下となると、よそに働きに出る場合が多かったが、成績優秀なら士官学校に進み上級の軍人を目指すという選択肢もあった。二夫の場合、田畑を継ぐ以外の選択肢はなかったことが人生を決定づけた。

「ちゃん、学校で こげなふに 習(な)るたど」(父さん、学校でこんな風に習ったよ)
学校が休みの日、あるいは繁忙期であれば早朝や夕方も、父子がいっしょに田畑に出れば、二夫は実習で覚えた作業や技術を、吉太郎に再現して見せた。

「俺(おい)だ、こげんしたこちゃ なかったどんね」(俺たちはこんなふうにしたことはなかったけどな)
吉太郎はぼそりと呟いた。自分たちより上の世代が続けてきたことが否定されたような気がする反面、息子が新しい技術や方法を吸収し、現場で還元してくれる様子は頼もしくもあった。

「ほら、見っみやんせ。やっぱい 高等農林に行かせて、よかったどがな」(ほら、見てごらんなさいよ。やっぱり高等農林に行かせて、よかったでしょう)
妻のハルは少し得意げだった。そもそもすべての学費も、文房具や実習費などの学校に関わる出費は相変わらずすべてハルがやりくりしているのだった。

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