文字を持たなかった明治―吉太郎107 時代の変遷
(「祖父と孫②運動会」より続く)
明治13(1880)年鹿児島の農村に、6人きょうだいの五男として生まれた吉太郎(祖父)の物語である。
昭和35(1960)年生れの初孫の男児と、ふたつ下の孫娘もそれぞれ成長し小学校へ進んだ昭和40年代前半、吉太郎の一人息子で跡取りの二夫(つぎお。父)は働き盛りだ。昭和20年代終わりに吉太郎や妻のハル(祖母)、結婚したばかりの嫁のミヨ子(母)も加わって、苦労して開墾したミカン山〈303〉にはミカンがたくさん実っていたが、ミカン産地が広がるいっぽうで需要は頭打ちになり、新たにスイカの栽培を始めるなど、経営の多角化にも積極的に取り組んでいた。
二夫は地域の壮年グループの一角を占めてもいた。勤めに出ながらの兼業農家が増える中、専業の二夫は頼りにされてもいた。世話好きの二夫のところには、地域や学校、農協などさまざまな役員が打診され、そのほとんどを引き受けてもいた。
跡取りがそんなふうに頼りにされ、少なくとも表面上は家業も順調に回っており、その次の世代の後継者――まだ小学生の上の孫だが――も「確保」でき、吉太郎にはこの先への心配はないような気がしていた。
心配しようにも世の中はどんどん変化し、農業にも新しい技術ややりかた、ことに農機具などの機械が入ってきて、江戸時代からのノウハウ――という単語は当時なかったが――を受け継いだ吉太郎の経験や何十年もかけて培った知恵は、もうあまり役立たないようにも感じていた。
二夫は吉太郎のやりかたを「古い」と断じることはなかったが、農機具や新しい農業資材を使って農作業をするとき、吉太郎は畦に座って煙管でタバコをふかしながらその様子を眺めるしかなかった。一方で、孫たちは両親をよく手伝って、新しい資材ややりかたにもなんなく馴染んでいくように見えた。新しい農機具を買うと上の孫はすぐに興味を示し、自分で操作してみたがった。
仕事の面ばかりではない。家の中にも新しい電化製品が少しずつ増えていった。「電気」といえば居間にひとつ裸電球が下がっている、というのが吉太郎が長年慣れた風景だったが、どの部屋にも蛍光灯が下がり、子供たちは宿題をするときさらに卓上の蛍光灯を点けた。「目が悪くならないように」と嫁のミヨ子は言ったが、吉太郎にすれば、電気を使うだけお金が出ていく。もう少し節約のしようがあるようにも思えた。
だが、テレビはおもしろいと思った。昭和34(1959)年の皇太子ご成婚のときにテレビが一気に普及したとよく言われるが、吉太郎たちがテレビを買ったのはもう少しあとだった。それでも集落の中では早いほうで、人気番組の時間には近所の人が見にくることもあった。
吉太郎が好きなのは、相撲とプロレスだ。相撲はラジオしかない頃から好んで聞いていたが、ラジオで聞いて想像していた土俵や国技館、力士の様子とはまったく違っていて、目で見るとより楽しく興奮した。それに歌番組で美空ひばりが出ると、ハルが「じさん、ひばりじゃっど」(おじいさん、ひばりですよ)と大声で呼んでくれた。(「昭和45年」へ続く)
〈303〉ミカン山の開墾の苦労については、ミヨ子の半生を綴った「文字を持たなかった昭和」の「三十八 開墾1、三十九 開墾2」で、吉太郎やハルの労働や生活に対する感覚も含め述べている。