文字を持たなかった明治―吉太郎73 青年リーダー
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。
昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事してほしかったのに、高等小学校から農芸学校へと進み、卒業も近かった昭和19(1944)年、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊した。吉太郎夫婦は跡継ぎの安否がわからないまま終戦を迎えたが、二夫は幸い復員し、一家はもとの親子三人の暮らしに戻った。
戦後の食糧難の時代、吉太郎たちは農作業に精を出したが、晩婚の吉太郎は昭和25(1950)年には70歳になり、二夫には嫁をもらい跡取りとしての基盤を固めてもらう時期が来ていた。
とは言っても、ふだんから人付き合いがそう良いとは言えない吉太郎は、知り合いを訪ねて縁談を相談するタイプではなかった。相変わらず昼間は働くだけ働き、晩ご飯どきに少しの「ダレやめ」(晩酌)を楽しんで酔いが回れば眠る、という生活の繰り返しだった。
二夫は二夫で、周囲の青年たちと集うことが楽しみだった。地域には同じ年ごろの青年が何人もいて、出征したが復員してきた者や年齢の関係で徴兵に至らなかった者など、命拾いした者どうし、なにかと言えば集まってときに焼酎を酌み交わした。地方の農村のこと、酒を提供するような料理屋など皆無だったが、集落の集会所に青年どうしが集まり、大きなやかんごと焼酎の燗をつけて回し飲みするだけで楽しかった。
そもそも、鹿児島には郷中教育という習わしがある。地域の若者どうし――もちろん、男子だけだが――武芸や学問を切磋琢磨すると同時に、下の世代の少年たちをも教育、指導するというシステムだ。もともとは武家の若者のものだったが、戦後「青年団」という組織活動が全国で広められると、郷中教育の考え方と融合し、青年どうしの団結と下の世代の育成は、それぞれの地域単位で活発に進められるようになった。
そうこうするうちに、農芸学校に復学・卒業しなかったとは言え、そこそこの学業を修めた二夫には、地域の青年リーダーとしての期待が寄せられるようになった。なにかと言うと寄り合いや集会に引っ張り出され、主要な役を任される。二夫にしてみれば、家にいても無口な父親とは共通の話題があまりない。昼間の農作業こそ十二分以上に働いたが、二夫の意識は、外の交友、交際のほうに向いていった。それが地域のため、ひいては家業の農業のためにもなると信じてもいた。
そうやって寄り合いに出れば、焼酎を飲んで帰ってくる。
「あんわろは、寄いじゃっち言うちゃ、焼酎(そつ)を飲んで戻いが。嫁女(よめぞ)をもろわんないかんどね」(あの野郎は、寄り合いだと言っては、焼酎を飲んで帰るな。嫁さんをもらわないといけないな)
吉太郎がハルに呟くことが増えた。
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