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つぶやき 屋久島栗生地区の墓地

 今回も屋久島の話題である。

 島南部の小さな集落・栗生(くりお)にある叔母宅に泊まらせてもらったことは、前項「屋久島に流れ着いた媽祖娘娘」で述べた。

 多くの来島者にとって、ここは大川(おおこ)の滝ぐらいしか見どころがないかもしれず、車を走らせていても、南端に近い尾ノ間(おのあいだ)から先、交通量はがくんと減る。

 しかし、屋久島の歴史において栗生はかなり早くに開け、重要な役割を果たしてきたらしいことを、今回初めて認識した。

 史跡というほど整備されたものはあまりないのだが、海側にある墓地は独特だ。江戸時代に造られたようで、古い墓石には文政、寛永、安政といった享年が刻まれている。

 その多くは、薩摩半島南部の指宿周辺で切り出され積み出された、山川石だという。白っぽい、表面がザラザラした石だ。

 墓地は叔母の散策コースらしく、「安政の大獄って社会の時間に習ったな、随分古くからあるお墓なんだ」などと思いながら、墓石のひとつひとつを、ただしチラ見しつつ通り過ぎるのだと言う。

 なぜチラ見かというと、墓地をゆっくり歩いていては、集落の人たちから奇異な目で見られる可能性があるかららしい。その辺りは地方あるあるかもしれない。

 わたしとツレは、庶民が苗字を得たのは明治以降だから、ここの古いお墓に葬られた人たちはある程度の社会的地位があったのではないか、山川から運んだ石を使うこと自体裕福だったはずだ、といきなり熱弁し始め、叔母はやや当惑していた。

 そう、多産多死の時代、人の死は珍しくなく、命は重くなかった。今のようにどの家でも墓を持つようになるのは戦後だろう。

 それより何百年も前に、この南海の島でちゃんとした葬送と埋葬が行われていたとは。どんな人々が暮らしていたのか、興味は尽きない。

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