最近のミヨ子さん 持ち物整理(1)押入れ
鹿児島の農村で昭和5(1930)年に生まれたミヨ子さん(母)の近況の続きである。(前項「手持ち無沙汰」はこちら)
昨年末から入院していたミヨ子さんの容態が2月早々に急変、わたしは鹿児島へと向かった。ミヨ子さんは一時より安定したものの点滴だけで命をつないでいる(面会①、面会②)。病院規定で面会の間隔を1週間以上空けなければならず、手持無沙汰なわたしはミヨ子さんの持ち物を整理することにした。
同居先の息子のカズアキさん(兄)の家で、もとは納戸として用意したらしき小さな和室をミヨ子さんはあてがわれていた。簡素なベッドが置かれ、1間分の押入れの中にしまわれたものがミヨ子さんの持ち物のほぼすべてだ。
(取り壊すまえの、元いた)家に長年大事にしまってあり、持ってきたかったものがたくさんあったが、とても持って来られなかった、ここにあるものだけでもお嫁さん(義姉)から「もう少し減らして」と言われている――。同居後の何年か、まだ認知機能の低下が始まる前、ミヨ子さんはわたしにそっと愚痴っていた。
それらのモノの整理にわたしはとりかかったのだ。前項でも触れたが、それは遺品整理に近いものでもあった。だからこそお嫁さんは「二三四ちゃん(わたし)が見て」と言ってくれたのだし、仕分けが済めば、わたしが要らないと告げたモノたちは早晩処分される運命にあるとも言えた。つまり、わたしにとっても、これらのモノたちを目にするのはおそらく最後の機会になる、ということでもあった。
観音開きタイプの押入れの扉を開ける。元気だったころのミヨ子さんは、扉を開き、押入れの上下を仕切る棚板の手前に両手を置いて支えにし、脚踏み運動をする姿がしばしば見られた。よく着るものやデイサービスに持って行くかばんは取りやすいところにあり、手元に置いておきたい大事なものはその奥にあった。やがてデイサービスの支度もお嫁さん任せになり、ここ数年はいわゆる整理整頓がほとんどできなくなっていったのだが。
押入れの中のモノは、ミヨ子さんの半年ほどの施設(グループホーム)暮らしの間に生気を失ってしまったように見えた。施設に持って行った少しの衣類は、今回の入院後、お嫁さんが施設から引き上げたときの状態でトートバッグに入っていた。それらのどれもが、自分たちのこの先の運命を知っているかのように冷たくなって押し黙っている。
わたしはまず下段の衣装箱に収められたものを確認した。ふだん着のズボン、下着、靴下……。譲られても使いようがないと思えるものばかりだ。戸袋の中の大きな箱類はなにかのお返しでもらったらしきもので、中にはブランドものの毛布もあった。上等だからと家から持ってきたのだろう。ミヨ子さん自身が使う機会はあったのだろうか。
戦争を経験したミヨ子さんはありとあらゆるモノを大事にした。同世代の、ことに地方の人には共通する性向だろうが、ミヨ子さんの場合幼い頃も貧しく、結婚後もお金の苦労をし続けたから、身の回りのモノへの愛着は強かった。「これはとっておこう」と選んだときのミヨ子さんの心情を思うと切なくなる。