タンホイザーの涙 ヴォルフラムの忠告
戸川の指導は昼過ぎまで続いた。模擬試験結果に記された問題ごとの回答率から桜井の弱点を次々と並べ立てつつ、ひとつひとつの弱点を着実に潰す戦略を丁寧に指導する戸川は真剣そのものであった。自分の研究室門下生から国家試験落第者が出ることを恐れているというよりも、茨の道である研究者を志す桜井をどうにかして手助けしようという心意気を桜井は強く感じた。桜井が研究室選定の際、戸川に師事しようと決めたのは彼女のその熱心な姿勢に惹かれた部分も大いにある。桜井の所属する生物学科では自分自身の研究ばかりで殆ど学生の面倒を見ない教授、顔を見れば何を研究しているか一目瞭然であり、やっぱり学生よりも自身の研究を優先してしまいがちなゴリラ顔の教授など研究室によっては学生が指導を受けることに苦労するような場合もあった。それが戸川も含めた一風変わった研究者たちの集まりであると言われればそれまでであるが、桜井は研究者として邁進したいという意欲があった。そのサポートを快く引き受けてくれたのが戸川なのである。
教授部屋を後にした桜井は荷物を置いた机に戻り、戸川の指導を書き留めたメモをひとつひとつ丁寧に見返した。そしてメモに書かれたキーワードを頼りに頭の中を整理していく。新たにメモのページを開き、これから国家試験に向けた新たなスケジュールを練った。昼食を食べることも忘れて桜井はあらゆる想定をしながら計画を立てた。ざっくりとした長期の予定を立て、週間の目標を立てる。さらに目標達成のため、日毎に何をしなければならないのかを明確にする。朝から何も食べていない空腹感も感じずに桜井は計画を完成させた。もちろん日を追うごとに修正しなければならない部分も出てくるだろう。しかし、その時はまた考えればいい。模擬試験結果を受け取った直後のネガティヴな桜井はもういなかった。一段落してスマートフォンを見てみる。電源を落としたままであった。電源を入れるとメールが30件近く来ていた。またか。桜井はうんざりしていた。母からのメールに決まっている。通知を見なくとも分かる。そんなことを思いつつもメールを開くと案の定、母からの連絡があった。しかし、それよりも多い差出人の名前があった。桜井は眉間に皺を寄せた。光妃からのメールだった。そこには桜井を気遣うメッセージばかりが続いていた。前回会ったのが一週間前。付き合いたての頃、毎日のように会っていたことが遠い昔のようだ。勉強に追われて感覚が鈍っていたが、一週間も桜井と会えないことは光妃にとって寂しいことなんじゃななろうか。メールの返信までしていないのだから。桜井は妙に嫌な予感がして電話をかけようとした。通知を見ると、なんと光妃から電話がきていたのだ。電源を落とすかマナーモードにして鞄に突っ込んでいたために気付くことが出来なかったのだ。桜井は慌てて電話をかける。午後2時を回ろうとしている。この時間ならば光妃は出てくれるはず。しかし、電話はつながらなかった。嫌な予感がさらに強くなってきた。桜井は親友の古舘に電話をかけた。1コールあるかないかで応答があった。「もしもし古舘、お前光妃のことで何か聞いていないか?電話をかけてもつながらなくて…」「馬鹿野郎!!お前、今更何言ってんだよ!」桜井が言い終わらないうちに古舘は吠えた。その瞬間、桜井は今までの光妃への態度を思い返すとともに再び絶望の淵に立たされる気分となった。