三宅重利について
はい、どうにか「鉛の十字2」も無事入稿を終えました
2巻は天草の富岡城代・三宅重利を主人公としています
というわけで前回に引き続き今回は三宅重利について軽く触れます
三宅重利(藤兵衛)1581〜1637
幼名そつ
父は三宅弥平次(明智秀満)で光秀の家臣。
母は明智光秀の娘。荒木村次と離縁したのちの再婚。
ちなみにWikipediaでは弥平次の子を三宅重利(異説あり)としてありますが、細川三尚の書状で藤右衛門(重利の子)のことを「光秀のひ孫」「左馬助(弥平次)の孫」と書いているので、間違いないとみて良いのかな?と思いました
山崎の戦い後、坂本城で両親は亡くなりますが、当時重利はまだ2歳で家臣に預けられ、生き延びます。
その後については「町人・大文字屋の元で育ち鞍馬寺に一年ほどいた」とも、「落ち延びた後すぐ鞍馬寺に預けられた」とも書かれていました(ちなみに創作では後者を採用しています)
ともあれ13歳まで鞍馬寺にいた重利ですが、その後叔母の細川ガラシャの招きで細川に士官します
その頃ガラシャが重利に宛てた手紙が現存しており、内容は
「金五十目を持たせてあげるから必要なときに使ってね。いつかは会おうと思ってるけど、まずは落ち着いて奉公先の主人と面会するようにね。」
ということが書かれてるらしい。
関係ないけど、ガラシャの直筆文字って跳ねまくっててダイナミックですよね、好きです…読めんけど…
この手紙だけでもガラシャが実姉の遺児である重利を大事に思っていたことが伝わりますが、また彼女の遺言においても重利のことに触れてる辺り、最期まで彼を気にかけていたのかなと感じました(残念ながら遺言についての資料は見つけられませんでしたが)
あと時期的にははっきりわからなかったのですが、重利はおそらくガラシャの影響でキリシタンとなり、またこれまた時期がわからないのですが棄教しています
そして細川家を辞したのちに寺沢家に士官して、1621年には富岡城代に。
1629年辺りからキリシタン弾圧を強化したみたいなこと書いてありました。実際島原の乱関連の本を見ていても重利関係だと「弾圧」だとか「簀巻き」だとか不穏なワードが並んでいます。
その苛烈さの裏で実際に彼が何を感じていたのかは、非常に興味深いところではありますが
簀巻き=溺死だから、せめて一瞬で首を落とすなど苦しませない方向でやれば良いと思うのだけど、簀巻きだと時間かかるから、巻いてる途中で信者が「やっぱ棄教します」というのを待っていたのかな…と今ふと思った、どうなんかね…
あと余談ですが、ガラシャの三男・忠利は重利の従兄弟にあたるわけですが、彼も天草領に近い熊本の藩主になっており、島原の乱の頃には二人の関係性が見てとれる記述もあったりしてエモいなと思いました
仲良かったと思いたい
↓あとこの歴史小説を買ったんですよ、ちょっと汚しちゃってるんですけど…
自身の創作に影響させたくなくてまだ読んでないんですけど、これから読みます。
こちらの御本の方が遥かに詳しいはずなので紹介しときますね。
あとこちらも繋げときますね↓
「鉛の十字2」PDF版だけ登録しました。紙の本は一週間後くらいに刷り上がってくると思うのでその頃に登録します