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逃げてもいいという詭弁

最近、ツイッターを見ていると、辛い時は逃げたらいいという発言をよく見かける。

ツイッターのみならず、ヒットソングの歌詞にもある。

NHKの東京オリンピックテーマソングにもなっていた、嵐の「カイト」には

父は言った「逃げていい」と

という歌詞がある。

僕の父親は逃げるということを許さない人だった。

小学生の時、サッカー少年団に入っていて、いじめられたというほどではないが、サッカーが下手で先輩や同級生に馬鹿にされていたので「やめたい」と言って泣いたことがあった。

父は「ダメだ」と言って、とりつくしまもなかった。

後から考えても、逃げてはいけないというのは、おそらく父の哲学だった。

なにも僕の父親に限ったことではない。

たとえば、テレビアニメの新世紀エヴァンゲリオンに「逃げちゃだめだ」と主人公が何度もつぶやくという有名なシーンがある。

30年ぐらい前に流行った、大事MANブラザーズバンドの「それが大事」では

負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じぬくこと

が大事だと歌われている

おなじNHKの(アテネ)オリンピックテーマ―ソング「栄光の架橋/ゆず」には

もう駄目だとすべてが嫌になって逃げだそうとしたときも(あったけど、逃げなかったので栄光にたどり着いた)

という歌詞がある。

むしろ逃げないほうがいいと歌っている曲のほうが、枚挙にいとまがない。

逃げてもいいというのは、こういう歌や論調へのアンチテーゼなのだろう。

確かにブラック企業などに入って、逃げずに働きつづけたために、体や精神を病んでしまう人はいるようだ。

また、昔よりもうつ病になる人が増えているというデータや、肌感覚もある。

そういう人にとっては、逃げたほうがいいに違いない。

逃げないほうがいいというのは、仕事などのストレスから逃げてばかりいると能力や忍耐力が身につかず、貧困に陥る危険性があるからだろう。

実際、仕事をやめて引きこもってしまったら、その後の人生をどうやって描いていけるのか。

自分が困るだけではなく、周囲の人まで困ることになる。

たとえば、テレビのドキュメンタリーで、30代や40代の引きこもりの人の親が苦しむ様子を見ることがある。

大人になれば、誰も助けてはくれないし、助けようとしても難しい。

原則的には逃げたらダメなのだ。

ただし、例外として体や精神を病んでしまう前など、逃げたほうがいい場合があるということだ。

法律にはだいたい原則があって、例外規定がある(これを「ただし書き」という)。

人の行いというものは、だいたいそういう風に規定されるものである。

例外があるからといって、原則を全部否定してしまったら、社会は混乱を招くことになる。

そもそも、逃げていいとか、逃げたらダメだとかいうのは、抽象的な表現である。

ネットで話題になった、13才の中学生による新聞の投書がある。

それには「動物は逃げないと命を守れないから逃げるのが正しいのに、なぜ人間は逃げたらいけないというのか」(要約)と書いてある。

しかし人間だって、命が危ない時は当然逃げるべきで、刃物を持った暴漢が襲ってきているのに、逃げずに戦えとは誰も言わないだろう(少なくとも現代日本人は)。

彼の周囲の人は、勉強や部活や苦手な人との人間関係から逃げてはいけないなどと言っているだけであろう。

逃げないとライオンに食われてしまうアフリカの草食動物とは、前提が全く違う。

つまりこれは、「逃げたらいけない」という言葉の抽象性を逆手に取った詭弁なのだけど、ネットでの取り上げ方を見ると「考えさせられる」とかコメントがついていたりして、気づかない大人も多いようだ。

僕も覚えがあるが、中学生や高校生というのは「屁理屈」を言うものである。

確かに人間にはストレスから逃げようとする性質が、デフォルトとしてあるのだろう。

子どもは勉強なんてしないで、遊んでいたい。

しかし、大人には経験則として、勉強や労務や嫌なことから逃げてばかりいると、大人になってからや、年を取ってから困ることがわかっているので「逃げてはいけない」と、子どもに教えているのだ。

これは動物にはない、人間の知恵というものであろう。

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