まちづくりとキルト
釜石大観音仲見世ににぎわいを取り戻すために、4年ほど前から活動している中で、メディアの取材などを受けることもある。
メディアの記者だけに限らないが、時々、質問されることがある。
言い方はそれぞれだが「どんな商店街にしていきたいか」ということだ。
そのたびに「それは出店する人がそれぞれに作っていくものであって、こちらで決めるものではない」というようなことを言ってきた。
最初は「こうしたい」とか「こうなったらいい」と釜石大観音仲見世リノベーションプロジェクトのメンバーで、案を出し合ったりもしたが、それらを自ら作るわけではない。
だから、思った通りにコントロールはできないだろうと思うようになった。
「クリエイターや何かやりたい人が集まってきて、その集積で予期せぬ面白いものが出来るのを期待している」と答えることもある。
しかし、質問した人は、そんな漠然とした答えには、あまり納得できないような顔をしていることが多い。
それがどういうイメージなのか表現するために、いろいろ考えてきたけど、最近になって「これが近いかも」と思いだしたことがある。
今から20年以上前のことだけど、どういう経緯か男の友だちと3人で、映画館で映画を見ようということになった。
たぶんすごくヒマだったのだろう。
映画館に行って、僕が見たいと言ったのが「ドラキュラ」だった。
他の2人は、特に何を見たいという意思もなかったようで、それを見ることになった。
ドラキュラは原作に忠実なものだった。
映画の内容よりも心をつかまれたのは、スクリーンいっぱいに映るミナ・ハーカー役のウィノナ・ライダーの美しさだ。
ジョナサン・ハーカー役はキアヌ・リーブスで、まさに美男美女のキャスティングだった。
しかし、この話にキアヌ・リーブスは関係がない。
ウィノナ・ライダーはシザー・ハンズのヒロイン役などが有名だが、僕が見たのはこの時が初めてだった。
すっかりファンになってしまい、それ以来、彼女の映画をレンタルビデオで借りて見漁った。
その中に「キルトに綴る愛」という映画があった。
内容はほとんど覚えていないので、改めて検索してみた。
卒業研究でキルトのことを調べるために、ある田舎にやってきたヒロインが、キルトを作っている女性たちの若いころの恋愛の物語を聞くというもの。
女性たちのさまざまな(つらい)恋愛経験が、キルトにこめられて、一つの美しい模様となって完成するという内容だった。
アメリカンキルトは、複数の女性が共同で作るもので、パッチワークで一つの布になるらしい。
そのシーンだけがうっすらと記憶に残っていた。
つまり、キルトは一人の人間がデザインを考えるのではなく、複数の人間がそれぞれのパートを作って、一つのものが出来る。
これが、僕の考えるまちづくりに近いものだと、思いだしたのだ。
それぞれの人が、自分の歩んできた人生と、表現したいものを綴って、一つのものを作っていくという。
それは完成するまで、誰も予想できないもので、でも、完成すれば、きっと美しく魅力のあるものになるだろうと思うのだ。
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