増やした分は減らす
釜石のイオンに昼食に行くと、フードコートでも、個別の店でも、名前と電話番号を書かされる。
ほぼ毎日、昼食は釜石イオンのいずれかの店で食べるので、毎日もれなく書かされる。
ある時は、フードコートでとんかつ定食を注文するときに書かされ、とんかつ定食を食べた後に、コーヒーを飲もうとドトールに行ってもまた書かされた。
言うまでもなく新型コロナ感染拡大防止の対策なのだが、この数か月、岩手県では感染者はゼロである。
近隣の県もゼロか、数人程度、さらに東京でも2ケタ以下である。
一体感染者が出る可能性に比して、この膨大な手間は見合うのか。
第5波がおさまった時点で、間もなくこの手間はなくなるだろうと思ったが、数カ月たった今も、飲食店の店員はルーティーンを頑なに実行している。
さらにいうと、このデータを取ったからといって、一体何の役に立つのか不明である。
もし店員に感染者が出たら、紙を書いた客全員に電話して、PCR検査を受けさせ、自宅待機をさせるとでもいうのだろうか。
これまでの感染拡大の傾向を見ていると、そこまでの徹底した隔離政策を実行できているとは考えにくい。
さらにいうと、食品売り場で買い物をしても何も書かなくてもいいが、この格差はなんなのか。
紙に名前と電話番号を書くぐらい、ささいなことと言ってしまえばそれまでだが、このことはあくまでも一例に過ぎない。
コロナ対策に関して言えば、テレビでは手の消毒についてあまり言わなくなった今も、店の出入り口には消毒液が置かれ、ほとんどの人は消毒している。
コロナは空気から(あるいはエアロゾル状になった飛沫)から感染するということが、だんだんとわかってきた。
三密が感染が起こりやすい原因であると伝えられてから久しい。
感染拡大が始まった当初、テレビが報じていた、手についたウィルスがものにうつり、それを触った他の誰かの手にうつって、最終的に口にはいるという、長大な感染経路は想定しがたいものとなった。
手の消毒は効果がないことはないだろうが、コロナウィルスを保有している人が、一時手を消毒したとしても、その直後に手を口にあてて咳でもしようものなら、あっという間に手はウィルスだらけになる。
つまりほとんど無駄なことなのだが、手を消毒する人は別に詳しく感染のメカニズムを考察しているわけではなく、もはや習慣化しているだけのように見える。
三密に気を付けるだけでよくて、手の消毒はやめてもいいのではないだろうか。
それでも手の消毒はやめず、やることは増える一方だ。
日本人は万事このような行動パターンなのである。
たとえばマイナンバーカードである。
内閣府のふれこみでは、本人確認書類として使えるとか、コンビニで住民票が取れるとか、便利になると言う。
しかし、僕が感じているのは「手間が一つ増えた」ということだけだ。
本人確認書類は自動車の運転免許証で事足りていた。
今年、住民票の移動をしたのだが、住所を移動するのはなかなか大変なのである。
僕の場合、住民票を移すだけでなく、運転免許証、一級建築士の免許証、宅建士の免許証などを書き換える必要があり、なかなか大変なのである。
住民票を移すのは元々それほど手間がかかることではなかったが、マイナンバーが出来たことで、そちらの書き換えも必要になった。
その上、書替えのために預からせてほしいと言われ、何時間か待つか、翌日に取りに行かなくてはならなくなった。
単に手間が増えるだけで、便利になることなど何もないのである。
市民一人一人にとってはちょっとしたことかもしれないが、行政側の手間も考えると、全体でかなり膨大になっていることが予想される。
断っておくが、僕はマイナンバーの理念そのものは、現代の世の中にあっていると思っている。
戸籍は家とか家族をベースに、国民を把握するシステムであるのに対し、近年は家族という形態がなくなるか、薄まりつつある。
個人を把握するスタイルのマイナンバーが時代にあった必要なシステムであるのはわかる。
しかし、それを実装しようとすると、どうしても手間を増やしてしまうのが日本の行政なのだ。
増える手間は仕方がない。
ただ、古いシステムを廃止するなどして、少なくとも差し引きゼロに近づける必要があると思う。
増える一方ということになると、(理論上)いずれ行政の手続きが、生活の大部分まで侵食していくことになる。
働いたり、家事をしたりする時間を削ってまで、行政の手続きに追われることになるかもしれない。
税金は際限なく増え、公務員の人数が一般市民の数を超えてしまうかもしれない。
なんのために生きているのかわからなくなる。
公務員ばかりがいけないのかというと、そうは思わない。
来場者の名前を書かせる民間企業の例からわかる通り、日本人全部がそういう性質なのだ。
システムをバージョンアップした時に、必要なくなったプロセスを削除しないと無駄な演算処理がどんどん増えてしまう。
日本の時間当たりの生産性は、先進国の中ではかなり低くなっていると言われている。
労働時間はながく、給料は安い。
無駄なことばかりしているのだから当然のことである。
昨年、河野大臣が行政手続きの印鑑廃止を決めた。
かなり剛腕をふるったように見える出来事であったが、こうしたことが一般的に行われる必要がある。
余談だが、我々建築士にとっては、単に印鑑を押す必要がなくなっただけのことが、仕事の省力化に大きく影響した。
もしかすると、日本の職業の中で一番助かった職業かもしれない。
発端は今や一般の人の記憶からは遠ざかりつあるかもしれないが、今を去ること16年ほど前、耐震偽装事件という建築界のものにとっては忘れらない大スキャンダルがあった。
細かい説明は省くが、それ以来、確認申請の図面1枚1枚に印鑑をいくつも押さなくてはならなくなった。
何十枚から大きなものだと何百枚もある図面全部に、何人分もの印鑑を押さなくてはならなくなった。
それも、1部だけではなく、場合によっては6部とか作ることになる。
仮に50枚の図面に4つずつ印鑑を押し、それを6部つくると、なんと1200回も印鑑を押すことになるのである。
これは大げさでなく本当の話なのである。
それが今では全く必要なくなった。
減った時間もバカにならない。
官民ともあらゆる業務において、このような見直しが必要となってきているのだ。
増やした分減らす。
これからの日本では、これを鉄則とすべきだろう。