日本の建築は死んだ?
ある時を境に、日本の建築は死にはじめているのではないだろうか。
先日、東京に新しくできた建築を見て思ったことだ。
それはそんなに昔ではない。
新国立競技場の設計をコンペで勝ちとった建築家ザハ・ハディドの案が、白紙に戻った時だ。
この出来事にはいくつかの要因がある。
複合的であり、かつ、どれも建築の魅力を失わせる要因だ。
一つ目は日本人のクレーマー体質だ。
なんにでもクレームをつける体質。この体質は日本人には昔からあったのかもしれないが、SNSの台頭によって顕著になった。
さらに、売り手側の短期的なクレーマー対策が、長期的にクレーマーを増長させる方向に作用した。
売り手側のクレーマー対策というのはこうだ…
もしクレーマーが現れたら、まずはよく話を聞く。
クレーマーの言うことは全て正しいと言い、こちらが全て間違っていたと言って謝る。
するとクレーマーは留飲が下がり、毒気を抜かれ、むしろ好意的になる。
…というものだ。
確かにこの対策には効果があった。
しかし、これが10年以上の時を経て、当たり前になると、クレーマーは自分の意見が通ることに快感を覚え、なんにでもクレームをつけることになった。
匿名のSNSでのクレーム投稿には、反撃される危険がなかったことも、それを助長した。
企業や政治家のスキャンダル。
テレビ番組の内容や、芸能人のスキャンダル。
事件などでテレビニュースの主役となった容疑者。
果てはニュースに登場する全ての人物が、クレームの対象となるような事態になってきた。
そんな中、予算が膨れ上がる奇抜なデザインを提案した、ザハ・ハディドもその標的となった。
建築は出来てしまえば文字通り動かしがたいものになるが、計画の段階では極めてもろい。
ちょっとした外圧で壊れてしまう。
デザインが良くないと一部の権力者が言えば、計画がとん挫することもある。
人の感覚は移ろいやすく、デザインは一目見て良しあしがわかるものではない。
ルーブル美術館のガラスのピラミッドなどを設計した建築家、IMペイは言った「よい建築は、50年後に残っていて、なお評価されるもの」と。
つまりIMペイのような建築家でも、50年たたないとわからない。
誤解を恐れずに言うなら、一般の人間が作る前にわかるわけがない。
「細工は流々、仕上を御覧じろ」ということわざがあるが、作っている途中でクレームが入るような環境だと、なかなかいいものは作れない。
二つ目はデザインビルド。
ザハ・ハディドが勝利したコンペでは、設計施工が分離発注となる計画だった。
その計画が白紙になったとき、予算と工期の関係で、設計と施工を一体で発注する、デザインビルドになった。
実は一般の人にとっては、デザインビルドのほうがなじみがある。
例えば住宅を建てる場合、テレビでCMを流しているような大手ハウスメーカーに発注する人は多いだろう。
それがまさにデザインビルドだ。
伝統的な、大工に発注するスタイルも、やはりデザインビルドだ。
なぜ公共工事では、設計と施工を別々に発注していたのか。
簡単に言うと、昔、建築のさまざまなことを決めた大学の先生や国の省庁の役人たちが、そのほうがいいと考えたからだ。
近代化を急ぐ日本が、さまざまなことについてそうしてきたように、おそらく欧米にならったのだろう。
短い文章で、設計と施工を分離発注することの良しあしを説明するのは難しい。
ただ、新国立競技場が出来上がってくる様子をみて、思うところがある。
同施設は、ザハ・ハディドの設計が白紙に戻った後、デザインビルド方式で、建築家の隈研吾、梓設計、大成建設が一体となって建設に取り組むことになった。
隈研吾も、わが国が誇る偉大な建築家だが、大手設計事務所、大手ゼネコンの思惑が交錯する中から生まれた新国立競技場は、果たして偉大な建築として後世に残るだろうか。
50年以上前に建てられた、丹下健三の国立代々木体育館のように。
三つ目は建設費の高騰。
これは建築界にとって少々運が悪かったと思う。
一方は人為的と言えば人為的とも言えるが、一方は災害なのだから仕方がない。
東日本大震災と日本の建築は切っても切れない関係だ。
その災害は、国内の建設需要を一気に跳ね上げた。
復興の工事がさかんになった2013年ごろから、建築の坪単価は上がり始めた。
その上に、さらに2020年の東京オリンピックの開催が決まった。
泣きっ面に蜂…という言い方はおかしいが、復興需要の上に、オリンピック需要を積み重ねたことで、建設業界のキャパシティを超えた。
需要が供給を超えると何が起こるか。
中学生でも知っていると思うが、価格が高騰する。
価格が高騰するとどうなるか。
予算オーバーするということもあるが、作品としての建築への影響という点で考えると、仕上げのグレードを下げたり、デザインの質を下げざるを得ない。
ザハ・ハディドの計画が、予算がオーバーすることになったのは、実はその要因もある。
建築の坪単価は、現在、東日本大震災前と比べて感覚的に1.5倍以上、もしかすると2倍近くになったかもしれない。
そのため最近、新築された建物は、見た目が貧しくなったと感じる。
以上、3つの要因により、日本の建築は魅力を失った。
その一方、建築の舞台は、新築以外の方面に移りつつある。
例えばリノベーション。
リノベーションの有利な点は、既存の建物の魅力を引き出すことができるところにある。
もともと高級な建物をリノベーションすれば、新築で安い建材を使うよりもいいものになる。
また、木材やコンクリートなど、作られてから時間を経ることで、ビンテージとして魅力が増す素材もある。
さらにDIYがさかんになり、建築家や、建築の専門家でない人が作ることで、すそ野が広がり、可能性も広がっている。
この中でも特に、DIYリノベーションなら、前述の3つの要因の影響は受けにくい。
リノベーション界の代表的な建築家と言えば、例えば「建築をあきらめる」と宣言した嶋田洋平がいる。
その他、最近、建築の学生などから注目される分野に「コミュニティデザイン」や「まちづくり」がある。
コミュニティデザインという言葉を広めたのは、山崎亮だろう。
彼を建築家と呼んでいいのかどうかわからないが、建築系の学部の出身であり、最近は建築系の大学の専攻にコミュニティデザインがあるという。
これは、もはや建物を作らない分野だ。
都市計画とも少し違う。
建物を作らないといえば、モバイルハウスを提唱する坂口恭平や、どちらかというとアートの分野で活躍する、石上純也などの若手建築家もいる。
いずれも、従来の建築に見切りをつけ、違う分野を開拓している建築家たちだ。
彼らが見切りをつけるのもよくわかる。
建設費の高騰は、オリンピックが終われば落ち着くかもしれないが、クレーマー体質は、この先落ち着くかどうかわからないし、一旦デザインビルドに傾いた流れは、そう簡単に元に戻らないと思う。
なぜなら発注者からすれば、デザインビルドのほうが楽だからだ。