オーラのようなもの
釜石をアートで飾るために活動している「ゼロスポット」というグループが、町の中でアート作品を設置する場所を探していた。
釜石の市街地で、設置する予定だった、古い商業ビルのオーナーに断られたということで、釜石大観音仲見世の商店街の中で、出来るところはないかと相談を受けた。
僕は、やや利己的に見られてしまう恐れはあるが、一方で途中で断られたりすることがなく、自由に使ってもらえるという点では彼女らにもメリットがあるだろうということで、co-ba kamaishi marudaiの外壁を提案した。
向こうもそのつもりだったのか、利害は一致し、そこを対象として、作品募集が行われた。
審査は一般公募と、三人の審査員によって行われた。
その一人が建物のオーナーである僕だった。
僕にそれを語る資格があるかどうかはともかくとして、僕なりに自分の仕事の中で、またデザインコンペに出展したりはするなかで、それを考えることはある。
また、ある時から建築の仕事にも、アートの素養が必要だと思うようになり、美術展覧会や、アートイベントに見学に行くこともあって、最初はわけがわからなかったアートの世界も、自分なりに楽しめるようになった気もする。
必然的に、自分なりの評価軸のようなものが出来上がってきているということだろう。
今回は、それがどのようなものであるかについて、書くことにする。
アートやデザインプロダクトを見て、半ば無意識にではあるが、どういう点から好き嫌いを判断しているのかということだ。
最近、マーケティング手法によるものと、アート作品とは、基本的に違うものだということだと感じるようになってきた。
マーケティングについても、語るほどの知識を持っていないので、あくまでも表面的なものになるが、そもそもマーケティングによるプロダクトや作品は、作る本人ではなく、外部から与えられる要素に依存すると言えるのではないだろうか。
多くの人の好みや、流行、市場、経済、政府の方針などの社会状況、また関連会社、ライバル会社の動向による外的要因を条件としながら、プロダクトその他の作品、商品を作っていく方法ではないかと思う。
一方、アートは内面の探求から産まれるものではないかと思う。
子どもの頃の体験、いわゆる原体験であったり、性的なものを含む欲求や、抑圧からの解放などを表現しているものが多い気がする。
以前、美術系の学校に通っていたという友だちから聞いた話なのだけど、美術の先生が言うには、抽象芸術というのはつきつめていくと、男女どちらかの性器になってしまうのだそうだ。
シャガールは結婚式の絵ばかり描いているが(詳しい人が見たら怒るかもしれないが、僕は展覧会でそう感じた)、シャガールにとっては、それほどまでに結婚が嬉しかったのだろうと思われ、社会の要請に従って、あれほど執拗に結婚の絵を描いたわけではないだろう
現代アートと呼ばれるものに関して言えば、現代社会への警告であったりすることもあるが、いずれにしても社会の要請にこたえるようなものでなく、内面から産まれるものをテーマにしているのではないだろうか。
そして、これを書くとマーケティング批判のようになってしまうのだが、マーケティング的アプローチによる成果物は、アート的アプローチによるそれと比べて、取っつきやすく、その一方で、忘れやすい傾向があるように思うのだ。
アートの話とは少しずれるかもしれないが、僕が映画の良しあしを判断するときに、いつまでも覚えているということを基準にしている。
それらは、必ずしも見た後にいい気分だったものばかりではなく、重い気分になってしまったものもある。
意味がわからなくて、釈然としない顔をして帰ったものもある。
ただ、1年もしたら、見たことすら忘れている映画が多い中で、10年、20年経っても忘れないというのは、きっといい映画だったからなのだろうと思うのだ。
まるで、何度も本棚から取り出して読み返す本のように、ことあるごとに思い出したり、突然「あれはこういうことだったのか!」と思い出したりする映画こそ、価値のある映画なのではないだろうか。
アートやデザインプロダクトに関しても同じことで、見てすぐに良いと感じるものも、そうでないものもある。
長い目で見て、判断しないとわからないと思う。
しかし、場合によっては、すぐに判断しなければいけないこともある。
例えば、今回の審査のような場合だ。
アートやデザインを考える時に、オカルトに走ってはいけないと、何かの本で読んだことがあるが、僕の判断の仕方はオカルトなのである。
すなわち、アート作品、デザインプロダクトから「オーラのようなもの」が出ているかどうかなのだ。
オーラという概念を知ったのは、小学生の時「幻魔大戦」というアニメ映画を見た時だ。
オーラは体から立ち上る、光のようなものだ。
幻魔大戦においては、超能力者である主人公たちが、手を触れずにものを動かしたりする超能力を使う時に、発生している力を、オーラで表現していた。
おそらく本来は目に見えないものを、可視化して表現したものなのだろう。
アート、デザインが、どういうストーリーで生まれたか、どういう思いで作られたかということも目には見えない。
もちろん、説明を受ければ知ることは出来るだろうが、美しさというのものは説明をされなくても成立しなくてはならないはずだ。
これは僕の体験によるものなのだけど、不思議なことに、人間には説明を受けなくても、それを感じる感覚が備わっていると思うのだ。
それを、ごく便宜的に「オーラのようなもの」ととらえている。
人が作ったものの美しさとは、それが出来るまでにどれだけの焦り、苦しみ、怒り、忍耐、労力などが盛り込まれたかによって決まる。
何も思い浮かばなくて自分をののしったり、絞り出すようにして生み出した案を全否定されて机をたたいて悔しがったり、諦めかけたり、なんとか気を取り直して再び挑んだりする過程を経て、それが完成した時の喜びなど、さまざまな感情が盛り込まれているものこそ美しい。
この過程は、様々な映画や物語でも、フィクションとノンフィクションに関わらず、繰り返し繰り返し描かれている。
僕がよく思い出すドラマのセリフがある。
NHK朝の連続テレビ小説の「ちりとてちん」で、塗り箸職人のおじいさんが、孫であるヒロインに言った言葉だ。
磨いて出てくるのは、この塗り重ねたものだけや
一生懸命生きてさえおったら
悩んだことも、落ち込んだことも、きれいな模様になって出てくる
塗り箸の模様は、貝のかけらとか、海のゴミみたいなものを、木地に漆で塗りこんで、それを磨くことで出てくるのだそうだ。
悩みも、海のゴミみたいなものと同様、なんの価値もないように思うけど、綺麗なものを作るためには重要なパーツなのだ。
アートやデザインに限らず、人が人に感動するのはどういう時だろう。
例えばスポーツ観戦の時を考えてみよう。
人が単に技術、能力の高さを求めるだけなら、高校野球を見る必要はない。
プロ野球や、ワールドクラシックベースボールを見ればいい。
陸上競技も、世界一足が速い、世界一高く飛ぶ、男子競技だけを見て、女子競技を見る必要はないだろう。
ボクシングは最強のヘビー級だけ見て、それ以下の階級を見る必要はない。
しかし、高校野球も女子競技、軽量級のボクシングも人気がある。
最近ではパラリンピックも注目されるようになってきた。
それらを見る人は何を見ているのかというと、競技者それぞれが、持てる最高の力を出しているところではないだろうか。
もっというと、苦しい練習や、伸び悩み、スランプや挫折感を乗り越えてきた経緯、ライバルに置いて行かれる焦りなど、それらを乗り越え、舞台に至るまでの目に見えないはずのドラマを、無意識に見ているのではないだろうか。
感動とは、そういうところに生まれる。
あきらかに力の差のあるもの同士が戦って、力のあるほうが余裕で勝ったとしても感動は生まれない。
もっとわかりやすい例を出すと、昔テレビのバラエティ番組で「はじめてのおつかい」というコーナーがあった。
まだ一人で買い物に行ったことのないような、小さい子どもに買い物に行かせて、それをこっそりカメラで撮るというものだ。
小さい子どもが勇気を振り絞ったり、とまどったり、泣いたりしながら、買い物のミッションを達成するところを見て、大人が感動するというもの。
言うまでもないが、大人が買い物に行くだけでは、番組として成立しない。
アートもデザインプロダクトも、同じように作者が苦しみ、全力で取り組んだものこそ、美しく感じられるものなのではないだろうか。
絵がうまい人が簡単に描いたものより、絵の下手な人が四苦八苦して描いたもののほうが美しい。
そして長く印象に残る。
…という風に考えている。
アート作品や、デザインプロダクトを見分ける時には、そうしたことを出来るだけ「感じる」ように、目に見えないオーラのようなものを感じる、感覚器官を使うように試みるのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?