名前のない労役
リノベーションの世界では、いくつか先駆者からの教えがあるのだけど、その中に、地域に受け入れてもらうには祭りに参加せよというものがある。
一言一句そのまま覚えているわけではないので、意訳になるが、排他的であることが多い、地方の地域に、すんなり入り込むには、祭りを手伝うのが一番早道だということだ。
なぜそうなのかはよくわからないのだけど、確かに自分自身も成功体験のようなものがある。
地元の尾崎神社の祭りを手伝ったら、地域での活動が好意的に受け止められるようになった。
1つには、人手が慢性的に不足しているため、猫の手も借りたい現状があるだろう。
どこの祭りも、少子高齢化と、若い人材の流出のために、存続の危機なのだ。
祭りの必要性というのは、「ハレトケ」という言葉で説明されることがある。
ケというのは日常のことで、ハレというのは特別な日のこと。
日常の中に、時々、特別な日があることで、人間は精神の安定を保てると言う通説だ。
このハレに当たるのが、昔は盆踊りや、収穫の時の祭り、その他の年中行事であったわけだ。
したがって祭りは、村人の情緒を安定させるために重要なものであり、絶やしてはいけない伝統の炎なのだ。
もう1つの理由としては、ハレの時のほうが、地域の人の心にもヨソモノを受け入れやすいマインドがありそうだ。
そんな風に思っていたのだけど、最近、別の理由からも、祭りを手伝う有効性を感じるようになった。
現代の世の中で、地方の昔ながらのコミュニティに所属しない人の日々の生活には、食べる、寝るなど、生命維持のためにすることの時間以外には、ほとんど三つの要素しかない。
それは、仕事、家事、余暇(趣味や旅行などを含む)の三つだ。
ある程度の都会で、アパートぐらしなどをしていれば、1日の生活の時間は、だいたい、どれかに分類できるのではないだろうか。
もしかすると、1か月の生活の時間も、分類出来てしまうかもしれない。
まず、この中に、祭りというものはない。
祭りは意外に準備なども必要で、伝統芸能であれば、練習も必要だ。
これは当然、仕事ではないし、趣味というにも、ちょっと違う感じがする。
好きでやっている人ばかりでなく、義務として動く人もいないと成立しないものだろう。
都会暮らしだと、この概念にあたる労役はなく、そもそも適当な名前がないと思うのだ。
言ってみれば、コミュニティを維持するための自治活動だ。
ボランティアに近い感じがするが、間接的に自分のためでもあるし、半ば義務的でもある。
こういうことは、実は地方だと今でもないわけではない。
たとえば自治会の草取りとか、側溝の掃除とか、ゴミ捨て場の見張りなんてのもある。
消防団も、それにあたるかもしれない。
昔はそういうのがもっとあったのだろう。
住宅建築に関して言えば、壁の土を塗る時、近所の人が手伝いに来てくれたという話は、ちょっと年長の人だと今でも口にしたりする。
現代では公共サービスが充実して、地域の自治活動に労力を使うことがなくなったかもしれない。
また、住宅の土壁を塗るような仕事は、建てる人が工事業者に金を払うことで、全て解決する。
現代人はなんでも金で解決すればいいという、合理主義、個人主義意識が強い。
ところが、田舎に行けば行くほど、まだまだ、助け合いの意識が残っていたりする。
祭りに参加すべしという格言は、それをも含んでいるのではなかったかと思うのだ。
例えばリノベーションまちづくりをするには、パブリックマインドを持った不動産オーナーや、プレイヤーを探すべしという格言もある。
初めて聞くと、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になってしまう人もいるだろう。
具体的には土地の一部や、建物の一部を、地域の人であったり、通行人に開放するというようなことだ。
現代人の意識では、自分の敷地は自分のもので、知らない人が入ってきたら、排除するのが当たり前、公共施設や公園は自治体が作るのが当たりまえという人が多いだろう。
公共という概念も個人が持つものではなく、自治体や、公務員が担うもので、一般人は一切考える必要はないと思っている人もいる。
だから、パブリックマインドを持てなどと言われると、中には怒る人もいるかもしれない。
そのために高い税金を払っているんだから、役所がやるべきだと。
しかし、リノベーションまちづくりは、現代の一般常識に疑問を投げかけ、昔のことで良かったことは復刻させるものだ。
それは、不動産や建物というハードだけではなく、ソフトにも及ぶ。
自分の町は自分で作るという意識をもたないと、地方の地域は生き残っていけない時代がやってきたのだ。
僕は昔の同級生の友だちなどに、自分の普段やっていることの説明をするとき、いつもうまく説明ができない。
リノベーションまちづくりの活動の多くは、無報酬であり仕事ではない。
だからといって、遊びや趣味というのも、違う気がする。
パブリックマインドを理解しない人には、極めて説明が難しい。
地方創生がうたわれるようになってから、村八分という概念がよみがえってきた。
村八分と言うのは、単に仲間外れのことだと思っていたが、元々の意味は、通常コミュニティからうけられるサービスのうち、8割が受けられなくなるというようなことらしい。
原因はいろいろあるだろうが、祭りや地域の保全活動に参加しない住民が、地域住民同士が自律的に提供しあうサービスを受けられないのは、必然的なことだ。
移住政策にしたがって、都会から地方に移住し、村八分にあった(具体的にはゴミ捨て場が利用できないことなど)という話をネットで見かけるが、案外、そうしたことが原因なのではないだろうか。
僕の今住んでいる東北だと、雪かきという、なかなかつらい労役があるのだけど、これもその一つだ。
除雪車は大きな道路は除雪するが、小さい集落に至るまでの道路は除雪してくれなかったりする。
すると集落のみんなで力を合わせて、道路(時には公道を)を除雪しないと、誰も車で集落から出られない事態が発生する。
この雪かきを手伝わないと、他の住民からの印象が悪くなるおそれがある。
都会から来たリモートワーカーが昼に起きて、何も知らずにその恩恵にあずかり、車で出かけることを繰り返せば、それは村八分の原因となるかもしれない。
雪かきや草取りは、いわばネガティブな労役であるが、祭りや盆踊りなどのイベントはポジティブな労役だ。
祭りに参加せよというアドバイスは、こういう適当な名前のない労役を全部ひっくるめて、便宜的に祭りと言っているのではないかなと、最近思う。
関係あるかどうかわからないが、昔は政治のことをまつりごとと呼んでいた。
そして、こうしたことがさかんな地域こそ、今後生き残っていく可能性のある地域なのではないだろうか。
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