恋愛は自己責任
先日、NHKの番組「チコちゃんに叱られる」を見ていたら、こんな疑問があった。
キャンプでカレーを作るのはなぜ?
以下ネタバレになるが、バッファを取るためにちょっと話を変える。
釜石大観音仲見世リノベーションプロジェクトでは、釜石大観音の「えんむすび」のご利益にフォーカスして、イベントを行っている。
2016年に開催した「えんむすびまつり」では、誰でも参加できるフォークダンスの時間を設定した。
日本ではフォークダンスは子どもの時しかしないが、そもそもフォークダンスは恋愛を誘導するために考え出されたものではないかと考えたからだ。
映画、サウンド・オブ・ミュージックでは、ヒロインのマリアがトラップ大佐とフォークダンスを踊り、それをきっかけとして、恋が始まる。
フィクションではあるが、少なくとも映画を作った脚本家か監督は、フォークダンスには恋愛感情を生む効果があると考えているのだろう。
さて、チコちゃんの話に戻る。
キャンプ料理としてはカレーを作るのが定番だが、それはなぜかというと、戦後の国策だったらしい。
GHQが男女平等の推進と、男女の仲を深め、健全な夫婦とするため指導を行い、文部省が学校の行事などに盛り込んだためだったのだ。
カレーを男女で一緒に作ると、作業分担の意識や、コミュニケーションが生まれ、健全な男女交際が始まる。
そして、ゆくゆくは健全な夫婦となるだろう、というような思想があったのだ。
さらにGHQはキャンプにおいてフォークダンスなども推奨していた。
確かに小学生の時、キャンプでカレーを作ったり、運動会でフォークダンスをしたりした。
GHQや文部省の目論見通り、僕も好きな女の子とフォークダンスで手がつなげるかということに一喜一憂したものだ。
初恋の記憶と結びついている人は、きっと少なくないだろう。
ただ、小学生(しかも低学年だったような気がする)には男女交際や、ましてや結婚には早すぎるので、最初の思想からずれているような気がしないでもない。
アメリカの青春映画を見ていると、アメリカの青少年にとってダンスパーティーが一つの大きな「試練」であることがよくわかる。
主人公たちは誰を誘うか悩んだり、片思いの相手が他の誰かと踊ると聞いて、心をかきみだされたりする。
正直、日本にそんな風習がなくてよかったと思うが、一方で思春期にはこれぐらいの試練が必要だったのかもしれないと思う。
恋愛のプロセスは楽しいばかりでなく、場合によっては人生最大の苦しみを味わうタイミングでもある。
思春期に半強制的に好きな異性をダンスに誘ったり、誘われたりする機会をもうけることで、恋愛のプロセスに慣れさせる目的があるのだと思う。
アメリカにおけるダンスパーティーは、言ってみれば重要な社会インフラなのだ。
同様にしてキャンプのシーンも、アメリカの恋愛やドラマ系の映画にはよく出てくる。
GHQは本国で行っていることをよいこととして、日本にもすすめたのだろう。
近年、日本では少子高齢化が進んでおり、原因の一つとして未婚率の高さが問題とされる。
信頼できるデータかどうかはわからないが、ネットでざっと調べてみると、現在恋人がいない男女は60~70%おり、一生恋人が出来ないと推測される女性は2割以上、男性は3割以上もいるということだ。
こうしたことが少子高齢化の直接的な原因の一つであることは、疑いようがないだろう。
これらのデータを押し上げているのは、現在40代から50代にさしかかる世代、言い換えると団塊ジュニア、つまり僕らの年代あたりが最初かもしれない。
僕の親の年代…といことはつまり団塊の世代であるが、お見合い結婚が多かった。
団塊ジュニアは、団塊の世代から順調に生まれ、次の団塊を作ったというわけだ。
ところが、団塊ジュニアの次の世代には、団塊はできなかった。
僕が若いころにはお見合い結婚が忌避され、周りの友だちなども絶対「恋愛結婚」したいと言っていた。
親や周りの年長者にすすめられて結婚するのなんてまっぴらごめんだ、自由に恋愛がしたいのだと。
その結果がこれである。
僕自身もその自由恋愛に苦戦し、大学生の時、彼女は出来たものの、就職してから別れてしまい、それ以来、なかなか恋人も出来なかった。
ようやく結婚できたのは40代の後半になってからだ。
そんな風にして苦労したので、日本の恋愛事情にはいろいろ思うところがあるのだ。
戦後はGHQからの圧力で国策として、男女が結びつくしかけを作っていたのだけど、それがなぜか小学校の催しになってしまい、当初のもくろみは雲散霧消。
そして、現在では特に何もない。
では民間の自助努力があったかというと、見合い結婚の経験しかない親世代には、自由恋愛に関するノウハウがなく、伝授しようもない。
家族より、個人の意思を尊重するという価値観の転換も、恋愛に関してはマイナスに働いた。
その結果、自ら自由恋愛を選び、失敗した人が多かったのだ。
親もそのような風潮に押され、子どもたちにお見合いを勧めたり、結婚しろとしつこく言ったりできなくなっていた。
個人主義の社会に向かうと同時に、最近「自己責任論」が優位になってきている問題も指摘される。
そんな中で、恋愛もやはり自己責任という社会になっている側面もある。
自己責任社会が産むのは、強者と弱者の格差だ。
恋愛は全ての人の関心ごとであり、人生における最重要課題の一つだ。
そんな重要なものなのに、国や社会全体としてなんの支援も仕組みもなく自己責任と放り出され、年長者からのアドバイスも期待できない。
中学や高校では恋愛の仕方を教えるどころか、異性との交遊は禁止だ。
若いうちに慣れておかないと、年を取るにつれて、初めて恋人を作るのがだんだん難しくなる。
恋人がいない男女が増えたのは、考えれば考えるほど当然の結果だ。
最近でこそ、自治体が街コンやえんむすびイベントなどをするようになったが、まだまだノウハウが備わっていない。
そろそろ、若者の健全な恋愛を促進するための、新たな国策を打ち出さなければいけないのではないか。
また年長者である僕らも、知恵を絞ったり、なんらかのアクションをしたりする必要があるかもしれない。
少子高齢化はかなり前から予測されており、自分たちに跳ね返ってくる問題だ。
いつまでもぼーっとしていてはダメなのではないか。