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2015年3月の記事一覧
マネージメントとは自由とは何かを考えることだ。
マネージメントとは管理を考える、と言えるかもしれないが、逆から捉えれば、
マネージメントとは自由とは何かを考えることである。
創造の流れは世界から自分を通って、世界と自分を結び、はじめて創造を可能とす。
私の外なる、そして私の内なる、
世界の、であり、同時に世界から自分を通って、再び世界へ流れる、
自分の、創造の流れ。
それは世界の流れであり、自分自身の内側を流れる流れでもある。
それが神髄だ。
それが創作において、世界と自分を結ぶ。
むしろこれによって初めて創造は可能となる。
ゲーム教育の3つの柱
とすれば、ゲーム教育においても、この3つは柱となろう。
ゲームを語る力、ありきたりの言葉でなく、新しい概念を創造すること、他の分野とゲームをつなげて行くこと。心理学、社会科学、自然科学、芸術言論。。。
ゲームを作る力。ゲームデザイン、アート、エンジニアリング、手法の開発と実験。そして何よりくり返し作ること。半分はエキササイズ。
ゲームを研究する力。ゲームを分析する力、分解する力。ゲームの成り
ゲームの強い言論を。
言論が人をつないでいる。
ある分野で言論が弱まる時、その分野も弱まる。
ゲームの言論が弱まった時期に、もう一度力強い言論を打ち立てられなかったことが、
技術のキャッチアップ云々よりも、基本的なところで効いている。
我々がゲームに対する自由な言論の勢いを取り戻さない限り、
開発者にも、ユーザーにも、新しい道を示すことができないのだ。
脱出ゲームと時代の精神
また我々は脱出ゲームについて十分に考えねばならない。
脱出ゲームはまず閉じ込められる。
閉じ込められることに、何の疑問も抵抗もない。
むしろ、閉じ込められたい。
それは現実からの逃避であり、回避であり、新しい場所へ行くための、
中継地点なのだ。
そして脱出する。脱出する理由はある。閉じ込められているからだ。
しかし、どこへ脱出するのだろう。それは、わからないし、語る必要もない。
な
また私も一つの波であり、 また私も一つの海である。
また私も一つの波であり、
また私も一つの海であるのだ。
私という波は岸辺に寄せて、自らを消滅し、
さらにまた、新しい私という波が生成し、岸辺に打ち寄せる。
人は海から生まれ、そして海であり、
知性は波のようにその上に顕れ、消えて行く。
そして、また生まれる。
無数の調和振動子が自然に同期して行くように、人の無意識も社会の中で同期して行く。
時に人の無意識が何かを探り当てる。だから時に無意識に任せて何かを作り出してみる。無意識は繋がっているとは言わないが、無数の調和振動子が自然に同期して行くように、人の無意識も社会の中で同期して行くのだ。
時代と出会い、対峙せよ。
何者からも自由な者は、何者をも作ることはできない。
我々今とぶつかることで何かを作る。摩擦が我々を時代と擦り合わせる。
然し、より自由なる者は、より高い時代なる者と出会う。その決定的な対立と打撃こそ、時代を進める。
無数の調和振動子のように。。。
時に人の無意識が何かを探り当てる。だから時に無意識に任せて何かを作り出してみる。無意識は繋がっているとは言わないが、無数の調和振動子が自然に同期して行くように、人の無意識も社会の中で同期して行くのだ。