200色の「すき」のパレット
マイナス20℃の冬、いつものようにTwitterを眺めていると、とあるツイートが目に飛び込んできた。
中村森さん、という方のツイート。初めて目にする方だった。
しかし、一瞬にして自分のこれまでがぶわぁっと蘇ってくるような。今まで時々考えつつ、でも人に話すことでもないなと自分の中にしまっていたものに、そっとあたたかくランプの光が当てられたような。思わずスクロールできずに見つめながら考え込んだ。
なお中村森さんご自身が後日このツイートの背景をエッセイにしたためておられ、そちらも大切に何度も読み返したくなるような一編です。有料ですが届くべき方に届いてほしい。ツイートで興味を持たれた方がいましたらぜひ。
思えば、子どもの頃から人生のたいていの時間に「すきな人」がいる。
※漢字の好きよりひらがなのすきの方が、なんとなく私っぽいなと思えてすきなのです。故に以下、私自身の「すき」はひらがな表記。
すきな人が絶えない人生、と言うとなんだか浮き名を流し続ける華やかな人間だと思われそうだ。読んでくれている中に友人がいたら「えっ私たちにそんな話しないじゃん!いつも何もないって言うじゃん!」とお怒りではなかろうか。
実際のところ、私に恋人がいたのは人生で一度きり2年ほどのものだし、友人たちに嘘をついているわけでもない。
幼少期から20代の初めくらいまで自分の「すき」はもれなく世の中で言う「好き」つまり恋愛的な好きなのだと思っていた。
誰かをすきなその時、その人がとてもまぶしくて、笑うとうれしくて、特別で、大切で、それは間違いなかったから。
大人になってから、もしかしたら私の「すきな人」は必ずしも世の中の多くで語られる「好きな人」と同義ではないのかもしれない、と考え始めた。
好きなタイプ、という問いがよくわからない。かっこいいから、かわいいから恋愛関係になりたいというのもよくわからない。すきになった人たちのことはとても素敵ですべてが美しいなと思うが、そこに至るまでには時間がかかる。
どうやら性別というものにあまりこだわりがない。自分も他人も。性別前提で自分を見られることにももやもやしてしまう。そして私の「すき」はその人に会うことお話ができることが幸せで、スキンシップはあまり必要としないようだ。
(このあたりに関してはノンバイナリー、デミロマンティック、アセクシュアルといった概念を徐々に知って救われたり腑に落ちたりしていくのだが、それはまたの機会のお話)
私のすきな人は同級生や友人であったり、先輩や後輩であったり、恩師や自分よりずっと大人な人であったり、仕事仲間であったり、あるいはアイドルやアーティストであったりもする。性別もさまざま。
こう思い出すだけで両手の指に収まらない。まるでとんだ移り気な人間のようだ。
いろんな人と出会って、すきになって。そしてやがて人生が離れ離れになっていくタイミングもたくさんあった。
すきになった人と人生が分かれ道になって離れる時、お別れ前は本当に寂しく辛く、この人が私の生活にこれからいないなんてどうしたらよいのだろう、と途方に暮れる。
お別れの時にできることなんて自分にはひとつきりで、出会ってくれたことへの感謝と、彼らがいかに私の人生に光をくれたかと、彼らの未来の幸せをどれだけ願っているかを、ペンをとってしたためる。口に出しては言えない、そしてはっきりと「すき」という語になどできない「すき」を便箋に託してそっと渡す。
じゃあお元気で、と別れた後はこっそりほろりと涙がこぼれたりもする。
それなのに、やがて彼らのいない生活が始まると、すべて綺麗な思い出になって昇華されていく。一緒に過ごせた時間があってよかったな、自分は幸運だったな、と時々思い出す。どこかで健やかで幸せでいてくれたらそれでいい。
熱しやすく冷めやすいんだな、とか、その程度の気持ちなんだな、とか思っていたが、そもそも「すき」の概念が世の多くで語られているものと違ったのかもしれない。
大学時代に教わったペルシア語の詩の一節にこのようなものがある。
教わった時、なんて美しい文なんだろうとしばらく呆然としてしまった。今でも人生の中で出会った中で最も美しい言葉だと思っているし、この文に出会えただけでもペルシア語を専攻した意味があったとさえ感じる。
ペルシア語の詩には恋愛を題材としたものが多く、授業でいくつもの情熱的な恋愛詩を教わったが、私にとって最もしっくりとくる「すき」はこの一節だった。
健やかであってほしいと願うことが、私にとっての「すき」の最上級のひとつなのかもしれない。
私の「すき」は例えばこんな形をしている。
グラウンドでサッカーボールを蹴る姿にわくわくするということ。低学年の子に優しいところを見て誇らしく感じること。活発な子たちのからかいをうまくいなせず困った顔で微笑むあなたを素敵だと思うこと。
あなたの板書を一文字も逃したくなくて見つめていたこと。苦手な数式も美しく思えること。あなたが赤ペンでコメントを書いてくれたノートが捨てられないということ。語られる世界の歴史に千夜一夜物語のようにじっと耳を傾けていたこと。
自分の夢を一緒に信じてくれる人がいるのだと強い気持ちで挑めること。もらった年賀状がずっと手帳の中のお守りになること。
他者を思いやる姿に、誰かのためにがんばる姿に胸を打たれること。あなたのような人であれたらと憧れること。あなたに自分の成長を見てもらいたいと願うこと。
あなたの存在に救われていると思うこと。到底追いつけないまぶしさに目を細めながら背中を追いかけること。尊敬していて大切で、愛しいけれども、この特別さを恋愛感情という珍しくない名前に集約してたまるかと思ってしまうこと。
あなたのように歌を歌えるようになりたいと思い、挑戦すること。あなたを思う心を誰かの音楽に託して口ずさむこと。
ステージに立ってくれてありがとうと思い、もらった光を自分の周りにおすそ分けできる人であろうとすること。あなたの幸せのひとかけらにでもなれればいいなと思い、応援と感謝の気持ちを拙い言葉にすること。
あなたと一緒にいい仕事をしたいと思うこと。あなたに安心して任せてもらえるようにがんばろうと奮起すること。私のぽつりぽつりな言葉に耳を傾けてくれるあなたに心が震えること。あなたに恥ずかしくないようにいつも誠実であろうとすること。
あなたと会った後に見る世界はなんだかいつもより優しいということ。いつもは困ったなと思ってしまうような気難しい方のことをもどこか愛おしく思えてしまうこと。音楽や物語がとても美しくて涙が出そうになること。
あなたと私の人生が交差してくれてありがとう、と思うこと。生きてきてくださってよかった、ありがとう、と思うこと。
全部、全部「すき」だ。たぶん、いわゆる恋愛的な好き、もないわけではない。でもなんだかそれは特別枠ではなさそうだ。私の「すき」はどうやらすべて同じ箱の中に入っている。
冒頭のツイートに戻る。
自分の「すき」については数年ぼんやりと考えていた。だが、この中村森さんのツイートを見た瞬間に、あぁそういう感覚って自分だけじゃなかったんだ、と自分の"ぼんやり"にくっきりと輪郭が生まれた。
そして、ひとつの箱の中に集められた私のたくさんの「すき」がほんわりと色とりどりになった。カラフルに無限に広がるパレットも想像できた。なんだ、特別なひとつを選び出さなくてもいいんだ。
こんな風に誰かの言葉に救われることがあるのだなと思った。中村森さん、ありがとうございます。
すきな人が絶えることがない人生だなんて、この上なく幸せ者じゃないか。
箱の中、あるいはパレットの上のたくさんの色とりどりの「すき」に私のこれまでと今とこれからは彩られ、支えられている。
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