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真夏の美術館にて自由を考える

最近、いろいろなはじめてに挑戦している。

その一つが、美術館での監視員のアルバイトだ。

美術館と私

私はこれまであまり美術館や博物館に行ったことがない。

小学生や中学生のときに遠足で行った程度で、自ら進んで何かの展示を見に行った記憶があまりない。

「美術館=難しい場所、博識な人が行く場所」というイメージがあって、なかなか行こうと思えなかった。

というより、自分にとって"必要のないもの"と思っていた。

ただ、ここ1年は縁遠かったそれらの場所に自ら通うようになっていた。

不思議な感覚

先日、美術館の監視員のアルバイトをさせてもらった。

また一つ、初めての経験になった。

仕事の内容は、展示物とお客様の安全を守ること。

カッコよく言ってみたが、要するに、展示品に損傷がないように、お客を監視する仕事だ。

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美術館というと、ショーケースに囲われた展示物があり、作品の解説があるものが私のイメージだったが、今回は違った。

私の持ち場にある展示物には一切の説明書きがない。

言葉による説明(解説)がない展示物。

ただ、その「展示室11」という空間に入ると、展示室の外とは違う雰囲気なことは確かだった。

むしろ、解説があって、ショーケースに入った展示物よりも、何か感じるものがある、そんな芸術のように感じた。

人間観察の2日間

開館時間の10時になった。

静かだった展示室11にわっと人が押し寄せてきた。

小さなからだでよちよち歩く子どもから、仲睦まじく歩く老夫婦まで、いろいろな人がいた。

コロナで家に籠っていたからか、こんなにたくさんの人を見るのはいつぶりだろうと思った。

そして、展示室11の片隅という、ただの一方向から人を眺め続ける。

こんなふうに人を見るのもまた珍しいことだった。

何人かの観覧者から声をかけられた。

「これは、どういう作品ですか」

先ほど言ったように、解説がないこの作品。この質問が来るのも納得できる。

ただ、開館前にある監視員の方にこう言われていた。

「どういう作品ですか」と聞かれた場合は、パンフレットに書いてあることだけ伝えて、あとは「感じてください」というように言われています。個人の見解を言うことはタブーなので。

この言葉を思い出し、私はそう伝えた。

するとほとんど人は少し困ったように苦笑いをしていた。

ときには、「あなたは何か感じれたの?」と言われた。

美術館の監視員のアルバイトはなかなか面白い

そう思った。

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私はほかの展示室のことを知らなかったのだが、どうやら私がいた展示室11は他の部屋とは様子が違うらしい。

しばらくすると、10分ほど前に展示室11にいた人がまた戻ってきた。

そしてまた作品(というか、展示室11という空間自体が作品なのかもしれないが)を眺めている。

正面から、横から、斜めから、しゃがんで、座して、遠くから、近くから。

観覧客の一人ひとりがおそらく何かを感じている。

「何も感じない」という感じ方もあるかもしれない。

カップルは作品を指差しながら何か話している。

黒いワンピースが儚く揺れる女性は腰をかがめて、キャンバスをずっと見つめている。

チェックのシャツを来た長身で白髪のおじいさんは、メガネを掛け替えて、目を凝らしている。

黒縁のメガネをかけたきれいな猫背の男性は、椅子に座って遠くの壁を眺めていた。

お客様が何を感じているのか本当は聞いてみたかったけど、それはできなかった。

感じるを意識化へ

人間は普段、ほぼ無意識に近い「考える」という意識的な行為を頻繁にしている。

ただ、美術館に入ると、その「考える」という行為は酷いほどに拒まれるように思う。

「感じる」ことができないと作品を観賞することが許されないように感じるからだ。

ただ、「考える」が全面的に拒まれているわけではないとも思う。

「感じ」た後に、何を思うか。

このときに「考える」という行為に自然と移っているように思う。

「感じてください」と言われると、少し困ったように苦笑いをしていたのは、そういうところから来る表情なのかなと思った。

本来、無意識的な行為である「感じる」を意図的に起こすのだから無理もない。

自分との対話、芸術家との壁打ち

「あなたは何か感じれたの?」

観覧客は何気なく言った言葉なのかもしれないが、私にはすぐに忘れられる言葉ではなかった。

解説のない作品。

だとすると、その作者と対話する唯一のコミュニケーションツールはこの作品でしかない。

跳ね返ってそれは、自分との対話であるように思う。

自分が目の前の作品から何を感じるのか。

「感じたもの」自体は作品を見ているあなた自身の知覚によるもの。

"自分の知覚"を意識した瞬間、それは自分との対話の始まりだと思う。

そして、いつのまにかそれが、作者との壁打ちになっているように思う。

作品は何も話してくれない。

見ている人の感覚に対して反応してくれるわけでもない。

ただ、作品に込められている(はずの)「想い」を観覧者が感じることから、作者と壁打ちをすることができると思う。

なぜ、この作者はこれを作ったのか、そのとき作者は何を感じていたのか、それから何を考えていたのか、なぜこの色なのか、この形なのか...。

そして、翻ってそれは結局、自分との対話になる。

感じることを放棄したとき、人は自分との対話を放棄したことになるのではないか。

自分が何を感じ、考え、体はどう反応するのかということに対して目を背けたことになるのではないか。

自由

不自由があるからこそ、自由がある

芸術との触れ合いはまさに自由と不自由の両方を感じられると思う。

何を感じ、どう考え、それがどう行動に現れたか。

"誰かが決めた答え"がないという点で、芸術は自由だ。

ただ、不自由があるとすれば、今の自分では感じられない感覚があることだろう。

そこに不自由さを感じたとき、人の行動は変わるのかもしれない。

だとすれば、不自由は誰かに決められたものではなく、自分で自由にできるところに気づいていないことで、不自由だと感じているだけなのかもしれない。

潜在的な自由を顕在化することで、不自由は小さくなっていくのかもしれない。

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