樋口師匠たるや
祖父母の家、微睡から覚めたところでふとこの記事を書くに至った。禄に考えもなくマトマリなんてものもないがその雑感を書き散らしていこうと思う。書いていて私のうつを軽減するには『樋口師匠』を心に住まわせる必要があると、考えたからであろう。
はじめに
手元に四畳半神話大系がなく、その他タイムマシンブルース、見聞録、夜は短しもなく、アニメを見直すというのも何だかめんどくさいため多少の間違いについてはこの際目を瞑ってほしい。というのも本稿において大切にしたいのは私の印象と雑感だからである。自己推察に樋口師匠という人物を重ね合わせ、快適に住んでいただこうという目論見である。そのため、何か間違いがあるかもしれない。解釈違い、事実の相違、見解の相違。たくさん出てくるが少しのところは目を瞑り、致命的な部分に関しては指摘して欲しい。個人の零細ノートにそんなコメントも来ないと思うが。
樋口師匠は何年生なのか
樋口師匠は大学の八回生であり、同級生で博士課程に在籍する城ヶ崎先輩や、現在は歯科衛生士をしている羽貫さんや猫らーめんの店主と同級生だと明確に描写されているところは少ないが、そういう事になっている。高校大学をストレートで行っているとするならば城ヶ崎先輩と同じく大学院の博士課程に在籍する26歳という事になるが気になるのがこの台詞である
『ドイツ語の再履修だと言ったら……(以下忘却)』
このシーンは私個人の中でもかなり好きなシーンで続いて
『留年するのは向こうじゃあるまいし』
という言葉にも随分と救われるものがある。閑話休題。樋口師匠がどの学部に所属しているかは明示されていないが文学部であると仮定した場合、文学部の履修要項によると外国語科目16単位が必修科目となっている(英独仏含めてそれぞれ8単位以上)。そのため、まず樋口師匠が学部生であることは間違いない。
『久しぶりに大学に……』
という台詞を大学4回生による必要単位取得数の少なさからくるものなのか単に大学に行ってないところから来るものなのか、という問題に関しては8年大学にいるという点において前者である可能性が高い。また、そう考えるにはもひとつ理由がある。『四畳半王国見聞録』だったか『新釈:走れメロス』だったかに、シラバスのどこから見つけたか分からない言語(確かラテン語)に関する講義を受けている詭弁論部の学生がいたからである(芹名だったかな)。樋口師匠の興味は広い。
フェラーリ、京都サンガ、亀の子束子、海底二万里etc……。おそらく興味のあること以外講義を取らないというスタンスを取っているのだと思われる。そのため主人公が3回生時点で
年齢:26歳
学部:不明、文学部と仮定
学年:4年生
在籍期間:8年
という考察が立てられる。一方で夜は短し〜、の中では『こんな紙にインクが染みたものが〜』的な発言もしていたためそもそも文学に興味がない、もしくは文学部でない可能性も大いにあるが、学部選びなんて多くの高校生にとって行きたい大学が先行するばかりで学部なぞ得意分野との相性の問題に近いからその辺は深く考察する必要は無いであろう。これは言い過ぎかな、すみません。
師匠の持つ感覚はどこから
語学が堪能なわけでもないのに留学生と仲が良かったり、自らを師匠として弟子を取ったり、鴨川デルタで弾き語ったり、李白氏の太鼓持ちをしたり、海底二万里を読み耽ったり、自虐的代理戦争に身を費やしたり、韋駄天コタツで鍋を食らったり
『そろそろ私も世界に乗り出す日が来たようだ』
『可能性という言葉を無限定に使ってはいけない……』
『今、ここにいる君以外、他の何者にもなれない自分を認めなくてはいけない』
『薔薇色キャンパスライフなど存在せんのだ。なぜなら世の中は薔薇色ではない。実に雑多な色をしているからねぇ』
上記は全て四畳半神話体系、しかも鴨川デルタで主人公に語りかけるシーンからだけの抜粋であることは深く侘びたいが、しかし師匠を最も表す言葉でもあろう。自由、達観、前向き、実際的。様々に形容できよう。
私は生活に関して他者に振り回されることなく自分を軸として生きる人々を『実際的に生きる人』と表す事がある。テクナットハーンのマインドフルネスの思想に近い生き方をする人々に意味は近い。端的に言えば”自分の人生を、自分の価値観で生きる人”という意味だと書きながら思ったり思わなかったり。それを単純に表す言葉としての”実際的”である。
余談だが実際的に生きている人の例として挙げたいのがオードリーの若林氏である。先日彼のエッセイ『ナナメの夕暮れ』を読んだ。彼は幼少期から他人の視線に対しての適切な行動をしていた。太宰治の『人間失格』における主人公の道化的な振る舞いに近い。しかし根底には社会に対する疑問があり、問いを繰り返し行動し、自分を見直し、そして生きていく。そんな人間であった。一見、社会に振り回されているようにも思えるが始まりは自分であり、つまるところ出発点は己で社会は対話の相手なのである。閑話休題。
アニメの何話かで城ヶ崎先輩が入学したての学生証を確認できる。はっきり言って仕舞えば”芋”っぽい大学生に他ならない。みそぎ、で王様的な振る舞いをしている城ヶ崎先輩とは随分印象が変わる。城ヶ崎先輩は大学で過ごす中で段々と”垢抜け”て行ったのだろう。これを読む大学生(だった人ももちろん含む)も心当たりがあるだろう。余談になるが”垢抜け”という言葉は令和の大学生にとっては一種の呪いのように機能している。TikTok然りインスタ然り、中高生が整形外科にやって来たり”ゆあてゃ”になりたい若い女性の増加然り、他者と自分を比べる機会が増え、他者の幸せ、コンテンツの豊富さに触れる事によるコスパ・タイパの気風然り、”自分が如何に価値を享受しているか”、”如何に自分が劣っていないか”を意識して行動するようになった。ものすごく簡単に言えば下らない美的感覚が極端化して蔓延している。
それだけ実際的に生きる人間が少なくなっているのである。
話を戻そう。樋口師匠の性格はどこからやって来たのだろうか。いくつか視座があるように思う。
まず一つ目が、元からそんな性格であった。という何とも何ともな説である。よって、割愛。
次に諦念論である。詰まるところ燃え尽き症候群による社会認識に対する鈍化である。私も大学生であり、とある私大(京都大学ほど密度が濃く学問に明るい生徒がいる訳でもないが)で偶にそういう人を見かける。誰も共通しているのが何かに対する極端な執着と集中力である。それは文学であったり、データであったり、幸せという概念であったり様々である。それに執着し、集中している人々は俗世を捨てたいわば樋口師匠的な人間である場合が多い。入学と同時に見切りをつけて、学生として生きる事を最大限発揮することに人生を傾けたのではないかと考えられる。それ以外は些事なのである。
私は
ここで私の話に移る。心底興味がないとは思うがそういう趣旨の記事なのでご了承いただきたい。私は今、自分を見失っている。人生の軸は他者であるし、生きるということそれ自体について疑問を抱いている(端的に言えばそういう事であるが、書くと消されそうなので)。怠惰で、おおよそ努力もせず、しかしそこそこ優秀ではあるので無勉強で国家公務員一般職試験の筆記試験を通ったりする(別記事に詳細有り)。最近では就職やら年収やら大学院進学やら、生々しい話がそこら中から聞こえてくる。不安で気分が悪い。自分が不安定で、現実認識がふわふわしてメンタルも弱く、軸はいつも他者にある。
心の中に
だから住まわせたいのだ。樋口師匠を。楽観的な私の人生のために、師匠を心に置きたいのである。この辺が限界かもしれない。方法論もないし、考えることも難しいし、メタ認知や客観視は役に立たない。ただけれども、こうして文章に起こす事によって私は何か少しだけ心の中に樋口師匠を再現できたような気がする。インターネットという非物質的物質に言葉を残すことで、その欠片。いや種と言うべきか、そうしたものを埋められたのかもしれない。後は水をやるだけだ。きっとそうで、詰まるところ世俗を捨てて集中をする他ないのだろう。
最後に
随分と目は覚めた。食卓のカツオを狙いにくる猫を見ているうちに夢と現実の境はなくなり、今は現実に他ならない。微睡のうちに残せて良かった。でなければこの記事はできなかったのだから。ここまで読んでくれた読者諸賢には感謝しかない。何が言いたいか分からない日記に近い記事となったが、何かしら私は残せたと信じたい。