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鳥の啼く人生(小説)

   一

「どうして自分はここにいるのだろう?」
 法帆(ノリホ)は中空の暗闇を見つめながら考えた。確かに自分の肉体はここに在る。ここに在るということは、過去という現実の舞台を一歩一歩歩いてきた結果だ。知らぬ間に瞬間移動し、ここに現れたわけではない。船室のベッドは狭い。法帆は一九五センチの長身なので体を丸め膝を折らなければベッドに収まらない。船のエンジン音は四六時中低く苦しげに唸りつづけ、ベッドは小刻みに振動している。船室の他のベッドはインドネシア人の青年たちが死んだように眠りこけている。自分だけは眠れない。肉体は、穴だらけのボロ雑巾のように悲鳴を上げているが、頭はカッカと熱くなって妄想は止まらない。休息時間は四時間しかない。大切なこの時間に早く眠って心身を休めたい。しかし耳の奥には船長と甲板長の怒号がいつまでもつきまとってくる。
「ノッポ、急げ! モタモタするな。馬鹿野郎、何してるんだ!」
 毎日の労働は非情で過酷、嵐のただ中にいるようである。明日も明後日もその後もずっとつづくであろう。逃げ場はない。船の外は黒い大海、渦を巻くブラックホールは一人の人間という小さな存在なんか跡形もなく飲み込んでしまう。
「いっそのこと海へ身を投げようか・・・・」不吉な思いが顔を覗かせる。「いや駄目だ。自分で選んだ道なんだから・・・・」
 抱きしめていた尺八をギュッと固く握りしめた。
「選んだといっても、どうしてマグロ漁船なんて仕事を自分は選んだのだろう。やっぱり、お金のためなのか・・・・。お金か、厄介なものだ」
 法帆がマグロ漁船『第八大黒丸』に乗り込んで二週間が経とうとしていた。和歌山の港で一ヶ月の研修を行い、船は太平洋の南方に向けて出発した。船長は大山という。法帆はネットで偶然このマグロ漁船の会社を見つけ、ふっと応募した。普段は応募をしても梨のつぶて、書類審査で確実に落とされるのだが、なぜかこの会社は書類審査が通り面接となった。最初に顔を合わせた相手が大山だった。
 大山は風貌からして海の男を感じさせた。日に焼けて肌は黒く、頭髪は白髪交じりの角刈り、体は頑健そうな骨太である。
「君が鈴木君か、よく遠くから来てくれたねえ」
 面接で初めて会ったとき、彼は気さくな感じで出迎えた。
「鈴木法帆君ね、法帆か・・・・、いい名前だなあ。しかし君は背が高いね、カマキリみたいだな。いや、違う、何だったっけ、ナナフシだ。虫でいるだろ、ナナフシ。あの細長い虫みたいだな、ハハハハ。体重は? えっ、たったの六十二キロ。そんなに背が高いのに俺より軽いのか。風が吹いたら飛んでいっちゃうぞ。男なら鍛えなくっちゃ。船に乗れば勝手に鍛えられるけどさ、ハハハハ」
 明るく冗談の通じる人に見えた。しかし、いざ採用となったら、人が変わったように厳しくなり、そして怒りっぽくなり、ときには暴力的になった。呼び名も、ありふれた名字の「鈴木君」から、下の名前の「ノリホ」になり、すぐに「ノッポ」となった。法帆は長身であることが人知れないコンプレックスだったので「ノッポ」と呼ばれたくなかったが、小学生の頃からずっとこの仇名だったので、やはり収まるところに収まったかと思った。
「時間厳守、遅れたら皆んなが迷惑するんだ。わかるだろ。一秒でも遅れたら殴られるだけじゃ済まんぞ。連帯責任だからな。返事は?」
「はい」
「声が小さい」
「はいっ!」
 現場の看板作業員は全員がインドネシア人だった。彼らは生まれが貧しく、故郷に家を建てるという夢があり、みな忠実、真面目でよく働いた。日本人の乗組員は「長」のつく役職の者だけである。みな表の顔と裏の顔を使い分けて振る舞い、小賢しく、抜け目なく、勤勉で、威張っていた。仕事のできない法帆は、そんな上の者にいびられ、怒鳴られ、しまいには呆れられた。逆にインドネシア人たちは心根がやさしく、仕事で失敗を繰り返す法帆をかばってくれ、辛抱強く面倒をみてくれた。
 度重なる暴力、分刻みのスケジュール、プライバシーのなさ、体が悲鳴をあげる労働――、研修を終え海に出れば少しは楽になるかと一縷の望みを抱いていたが、船が出向すると、「船酔い」と「睡眠不足」という巨大な地獄がそれに加わり、苦しみは熾烈となった。
「はあ――」法帆は暗闇のベッドの上、深く息をついた。
「早く寝ないと」
 時計を見るとベッドに入って二時間が過ぎていた。時間は刻々と過ぎていく。体を仰向けの体勢に戻し、握りしめていた尺八をまじまじと見つめた。これは菊乃先生から頂いた尺八だ。この尺八だけが安らぎである。尺八を握りしめているだけで体が熱くなってくる。
「菊乃先生、元気だろうか――」
 縞柄の着物姿の菊乃先生の姿が目の前にまざまざと浮かび上がってきた。髪は後ろにまとめられ、殻が破られたばかりのゆで卵のようなおでこが光っている。先生の黒い瞳は大きく涼やかで、こちらに意識が向けられている。
「ノリ君」
 菊乃先生が声をかけてきた。
「はい、先生」
 法帆は嬉々としてこたえた。感情を露骨に表に出すことが苦手な性格だったが、菊乃先生の前では自然でいられた。
「お久しぶりですね」
 先生は微笑みながら言った。先生と会うのは一年ぶりだった。菊乃先生のお弟子さんの唐木さん夫妻が、地方の中古民家を購入し田舎暮らしを始めた。法帆はその民家のリフォームの手伝いのため一ヶ月前からこの地に来ていた。
「お体の調子はどうですか」
 菊乃先生の言葉はいつも「です・ます調」の敬語だった。先生は法帆よりもちょうど一回り歳上だが、上から命令したり威圧したりする言葉は決して使われず、丁寧で謙虚だった。
「大分、人並みに生活できるようになってきました」
 法帆は照れながらこたえた。菊乃先生にはずいぶん迷惑をかけてきた。東京でパニック症を発症し日常生活が送れなくなったとき、しばらく先生の家で居候させてもらったこともある。あれから四年が経つ。あのときは本当に辛かった。常に荒ぶる霊が背中に憑依しているような気持ちだった。
「先生の方は、お体の調子はどうですか」
「わたしは・・・・」
 菊乃先生はちょっと言葉に間をおいた。先生は法帆の前ではいつも気丈にふるまっていたが、実は鬱の持病があり、ときに薬を服用しているらしかった。法帆はそのことを心配していた。
「わたしは相変わらずです。ちょっと風邪をひきやすくなったぐらいで」
 菊乃先生は鬱のことには触れずにこたえた。
「体を冷やさないようお大事にしてください」
「そうですね。体は冷やさないよう気をつけているんですが、家がなんだか広くなったみたいで寒々しくて」
「広くなった? と言いますと」
「実は、母が二ヶ月前に他界しまして」
 先生は淡々と言った。
「えっ、そうだったんですか・・・・。それならご連絡くだされば、お通夜に駆けつけたんですが」
「いいんですよ。そんな遠くから・・・・」
「そうだったんですか・・・・」
 法帆は先生のために何もできなかった自分がもどかしく、悔しかった。
「母はほとんど寝たきりで静かだったでしょ。でも実際いなくなると、やっぱり、心に穴が空いたような気持ちになるものなんですね」
「そうですか・・・・」
 法帆は、気の利いた慰めの言葉が何も出てこなかった。そういえば先生の顔色は少し青白いように見える。
「ぼくはここに来てからずいぶん元気になった気がします。自然の空気がいいからでしょうか。緑がたくさんありますし。あ、それに唐木さんご夫妻もよくしてくださっています。先生もここでしばらく静養されたらどうでしょうか。きっと元気になるかと思いますが」
「ほんとにここは空気がきれいでいいですね――」先生は庭の木々を眺めながら言った。「でも、他の生徒さんの予約も入っていますから、明日には帰らないと」
「そうですか・・・・」
 先生は相手のことは深く思いやるのに、我が事になると至って淡白になる。
 会話が途切れ、すっと沈黙の空気が流れた。
「先生にお知らせしたいことがあります」
 法帆が口を開いた。
「何ですか? うれしい知らせならいいんですが」
「実は、あのう・・・・、正式に仕事が決まりまして」
「えっ、本当ですか。それはよかったですね」
 先生はパッと花が咲いたような表情になった。
「一週間前に採用の通達がありました」
「今度はどんなお仕事をするんですか」
「遠洋マグロ漁船に乗ります」
「えっ・・・・」
 先生の表情が一瞬で変化した。
「マグロ漁船? どうしてそんな仕事を選んだんですか」
「どうしてって、どうしてなんでしょう・・・・。海をずっと見ていられるし、自然を相手にする仕事だから・・・・」
 法帆はうろたえながら言った。
「自然を相手にするっていっても、船の中の狭い人間関係の中にあるんでしょ。ノリ君はそういうの無理だと思いますが」
「無理って、今になって言われましても・・・・」
 先生にこんなふうに言われるなんてまったくもって予想外だった。どうして先生は無理だなんて言われるのか。法帆は先生に納得してもらいたくて、フッと頭に浮かんだ格言っぽい言葉を冗談めかして言った。
「遠回りしないと見えてこない風景もありますし、ハハハ」
「遠回りって・・・・」
 先生はクスリともしなかった。法帆は焦った。
「いやあ、本当のところ、ぼくは社会不適応で弱い人間ですから、スパルタ式な厳しいところに飛び込まないと社会からもっともっと遠くへ離れてしまって、本当に駄目な人間になるんじゃないかって考えまして」
「社会から離れるって、ノリ君はノリ君らしく生きていったらいいじゃないですか。社会にくっついたって人間が立派になるとは思えません」
 先生は顔を紅潮させ声が大きくなった。こんな先生を見るのは初めてだった。どうして先生はマグロ漁船をそんなに嫌がっていらっしゃるのか。
「漁船は南洋をぐるっと一周して、一年で帰港するようなんです。帰ってきたらたんまりお金が貯まっているみたいですから、そのときには是非、先生に恩返しをさせてください。ぼくは本当はそれがしたくて・・・・」
 法帆は思わず本音を吐露した。
「恩返しだなんて・・・・、そんなこと・・・・。どうしてそんなつまらないことを考えるんですか。お金のために、そんな危ない仕事を選ぶなんて」
 菊乃先生の目から涙が浮かんでいた。
「先生・・・・」
 法帆は先生が悲しむ表情を目にし、自分の愚かさに暗い気持ちになった。しかし動き出した歯車はもう止まることがないように思える。この仕事との縁は自分の「業」というべきものかもしれない。
「ごめんなさい。言い過ぎたかも知れません。マグロ漁船のことなんかよく知らないのに好き勝手なこと言ってしまって。もしかしたら、いい人たちが集まって、懸命に働いていらっしゃるのかもしれませんね」
 先生はそれ以上、法帆に仕事のことについて訊いてこなかった。
 その晩、菊乃先生の他のお弟子さん、柿本さん、福田さんも集まり、賑やかな食事となった。法帆は人見知りで対人恐怖症のような気があるが、菊乃先生のお弟子さんたちは皆いい人ばかりで、当たりが柔らかく、物静かな話し方で、相手を思いやり、彼らとは苦もなく打ち解けられた。
「昨日の夜中、鳥の鳴き声聞こえませんでしたか」
 法帆は食事の席で皆に訊ねた。
「夜中に鳥の鳴き声? 鳥は普通、夜に鳴きませんよね」
「でも、ホトトギスとか、夜に鳴く鳥もいることはいますが」
 唐木さんがフォローした。
「いや、そういうのじゃなくて・・・・」
「そういうのじゃないっと言うと?」 
「なんか不思議な声なんです。フォ、フォ、フォって何か、空気中に白い輪っかを作るような不思議な鳴き方をするんです」
「空気中に白い輪っかって何だろうね。なんだか可笑しいね」
「唐木さんも知りませんか? おかしいなあ。時折、違う声音、透き通った高音でリズミカルにも鳴くんです。きれいな声だったので、どんな姿をしている鳥だろうって気になって、思い切って外に出たんです」
「そしたら?」
「声が止んでしました。何だったんでしょう・・・・」
「何だったんでしょう。もしかして夢を見てたんですか」
「さあ、どうなんでしょう・・・・」
 笑い話となっている中、菊乃先生だけは感心したような表情で言った。
「どんな鳥なんでしょう。わたしもその鳥の声が聞きたいですわ」
 先生の子供のように喜ぶ様子に、
「先生は何にでも興味をお持ちになるんですね」
 お弟子さんたちは皆愉快そうに笑った。
 翌朝、唐木さんの車で菊乃先生を駅まで送る際、法帆も尺八を持って同乗した。法帆は学生時代から勉強もスポーツもできない、これといった趣味もない、そんな無芸の男だったが、尺八だけは夢中になれた。そのきっかけを作ってくれ、演奏技術を教えてくれ、その奥の深さを教えてくださったのが菊乃先生だった。そんな先生に、自分が九年間肌身離さず使ってきた尺八を受け取ってもらおうと考えていた。漁船は危険でいっぱいである。もしものことがあるかもしれない。先生にとってご迷惑かもしれないが、自分の形見となるかもしれない尺八を先生にどうしても持っていて欲しかった。また、そうすると、それが自分の力になるように思えた。
 駅の改札口で別れの挨拶をしようとしたとき、菊野先生は手荷物の鞄から自分の尺八を取り出し、法帆の前に差し出した。
「これ」
「えっ・・・・」
 法帆は戸惑った。
「元気で戻ってきてくださいね」
「いや・・・・、先生のこんな大切なもの・・・・・」
 法帆は動揺した。先生の尺八なんて畏れ多い。
「実は、ぼくは自分の尺八を先生に受け取ってもらいたくて、こうして持ってきました」
 おずおずと包みから自分の尺八を差し出した。
「ぼくの汚い尺八ですが」
「・・・・・・」
 先生は無言でしばらく動きを止めた。先生の瞳に涙が溜まっていた。
「大切にします」
 先生はそう小さく言い、白い小さな手で法帆の尺八を受け取った。
「ノリ君も」
「は、は、はあ」
 法帆も菊乃先生の尺八を畏まって受け取った。受け取る際、先生の手に微かに指先が触れた。指先の意識が先生の手、その柔らかさとぬくもりに集中し、体に電気が走ったように感じた。
「――先生の尺八」
 暗闇の船室でこの尺八だけは輝いて見えた。
「先生の尺八」
 法帆は何度も何度も呟き、尺八をやさしくさすった。
――フォ、フォ、フォ
 そのとき鳥の声が聞こえた。悲しげでもあるが美しい鳥の鳴き声。
「鳥の声? どうしてこんなところに」
 法帆は上体を起こし耳をそばだてた。
「幻聴か・・・・」
 ベッドから立ち上がり、尺八を持って船室を出て甲板に上がった。もちろん甲鈑には鳥らしき影も形もなかった。法帆は生暖かく吹く風を体全身に浴びながら海を眺めた。黒く広がる大海は、労働中には漁業の場としてしか見えないが、こうして一人で大海と対峙すると底知れない力と神々しさを感じる。法帆は風に向かいながら、自分がこうして生きてこられたことへの感謝と畏敬の気持ちを込めて尺八が吹きたくなった。
ーーピーピーヒョロロー
 尺八を吹き出すとその音色は船のエンジン音と風音に混ざり合いながら響き、大海に安らかに吸収されていくのを感じた。
 尺八を吹いたらスッキリした気持ちになった。ベッドに戻り横になったら、コトンと落ちるように眠りに入っていった。

 
   二

 始業のブザーがけたたましく鳴った。インドネシア人の甲板作業員たちは目をこすりながらベッドから起き上がり、上下の合羽を着込んで身支度を始めた。しかし法帆は目覚めることができずベッドで死んだように寝ている。作業員の一人が法帆を揺り起こした。
「ノッポ、早く起きるんだ。作業始まるぞ。起きろ、起きろ」
 法帆はどんなに揺すられても起きることができなかった。準備ができた他の作業員たちも法帆の体を揺すった。
「ノッポ、早く起きないと甲板長が来て怒られるぞ」
 法帆の毛布を剥ぎ取って体を揺すった。
「ウー」
 法帆は苦しげにうめいた。頑張って上体を起こそうとするが、こんなときに限って強い睡魔が襲ってくる。眠らなければならないときには眠れず、起きなければならないときには起きられない。
「どうする?」
 準備が整ったインドネシア人の作業員たちは困惑して顔を見合わせた。すぐにでも甲板に出たいがノッポをおいていくと連帯責任で怒られるし、時間に遅れるともっと怒られる。
「とにかく出よう」
 彼らは法帆をおいて甲板に出た。外は真っ暗で雨が降っている。
「ーー作業始め」
 号令をかけ、縄を投げ入れる作業が始まった。幹縄と呼ばれる全長百キロ以上の長さの針のついた仕掛けを海に投げ入れていく。作業を始めてしばらくすると甲板に甲板長も出てきた。
「絡みつかないように注意しろよ。ん? あれ? ノッポは」
 甲板長は作業員の顔ぶれを眺めながら言った。
「ノッポは、あのう、ちょっと具合が悪いみたいで・・・・」
 一人の作業員が気まずそうにこたえた。まだ寝ているというと怒鳴られると思い、この場をつくろうためにも「体調不良」という理由を仕立て上げた。
「はあ? 具合が悪い? 馬鹿野郎め、みんな辛い思いをしながらやってるっていうのに、一人だけ甘えたこと言いやがって。どうせまた寝てるんだろ、あの野郎――」
 甲板長は共同船室に小走りで向かった。ドカンと荒っぽくドアを開け、ベッドに体を丸めて寝ているノッポを眼光鋭く睨みつけた。
「コラァ!」腹の底からの大声で怒鳴りつけた。「ノッポ!」
 法帆のTシャツの襟首とズボンの腰回りを掴んで、そのままベッドから引きずり下ろした。
「ギャッ――」ノッポは床に腰を打ちつけ目を覚ました。「痛たた・・・・」
「痛たたじゃないだろ。なんでお前だけ悠長に寝てるんだ。おい、今何時だと思ってる」
 時計を見ると起床時間を三十分回っていた。
「はい、わかりました」
 ひざまずいて頭を下げた。
「わかりましたじゃねえだろ――」甲板長は法帆の頭を思い切り平手で叩いた。「三十秒で用意しろ。すぐに出てこい」
「は、はい」
「ふざけた野郎だ」
 甲板長は船室から出ていった。
「フー」
 法帆は、叩かれた頭を手の平で撫でながら深く息をついた。睡眠が中途半端で頭が重い。床に両膝をついた姿勢で瞑目し、いま起こった事の次第を考えた。三十分の遅刻か。どうして人間は予定なんてものを作り出し、未来を追って行動するようになったのだろう。人間の人生とはかくの如きものなのだろうか。
「あっ、そうだ、急いで行かなくちゃ」
 ハッと気がついた。ボンヤリしている場合ではなかった。急いで作業用ズボンに履き替え合羽の上下を着用していると、また甲板長がドタドタと入ってきて怒鳴りつけた。
「まだ寝てるんか!」
「寝ていません。いま着替えております」
「遅い、ノロマ!」
「今すぐ行きます」
 そのとき法帆の口からフアーと欠伸が出た。
「この野郎、ナメやがって」
 その欠伸は決して気の緩みからでも相手への挑発からでもなく単なる生理現象だったが、甲板長は自分に対する侮りと断定し、さらに怒りを爆発させた。
「馬鹿野郎!」
 怒号とともに法帆の頬にビンタをした。しかし法帆は欠伸をする際、口を手で押さえていたので、その手がうまくガードしてくれ、ビンタは中途半端な当たり方をした。
「痛っ!」
 法帆は頬を押さえて大げさにうずくまった。甲板長は法帆の襟首を握りしめ、
「早く来んか」 
 引っ張った。
「まだ、長靴を履いていません」
「チッ、コイツは・・・・」
 甲板長は呆れて出ていった。
「ハー」法帆は深く息をついた。「何なんだろうあの人は。何をそんなに怒る必要があるのだろう」
 小さく呟きながら長靴を履き、甲板に出て行った。
「――おい、針に気をつけろ。もっと手際よく」
 甲板長の指示のもと、インドネシア人の作業員たちは仕掛けを海に投げ入れていた。彼らは雨に濡れながら必死の形相で働いている。
「どうも、すみません、遅れました・・・・」
 法帆はペコペコ頭を下げながら言った。作業の流れの中に入ろうとするがなかなか入れてもらえない。
「ノッポをそこに入れてやれ」
 甲板長の命令で一人分の作業場が空けられ流れの輪に入った。でも、作業スピードについていけず、法帆が入ることで逆に流れが滞った。作業員たちは法帆の不器用な様子に苦笑いした。
「馬鹿、ノロマ、どけ」
 甲板長は法帆を作業の輪から引き出した。
「お前は、糸が絡まった際の補助をしろ。それだけでいい」
「は、はい」
 しばらく作業をつづけていると、船酔いで苦しくなってきた。船酔いは毎日のことだったが、今日は今までで一番船の揺れが強く、船酔いも格段に激しく襲ってきた。
「ちょ、ちょっと、すみません」
 法帆は作業位置から離れ、船から顔を出してゲーゲー嘔吐した。しかし、お腹の中に何も入っていないので嘔吐物は出てこない。涎と酸っぱい胃液だけが出てきた。法帆は合羽の袖で口の周りについた涎を拭い作業の輪に戻った。
 数時間で縄の投入が終わった。
「よっしゃ、終わった。飯だ。休憩だ。二時間後、引き揚げ開始するぞ」
 甲板長の号令とともに朝の作業が終わった。法帆は船酔いが収まらず、まともに真っ直ぐ歩けなかった。よろめきながら食堂に行ったがまったく食欲がわかず、パンすらも喉に通らなかった。ただオレンジジュースだけを義務的に喉に通し、船室のベッドに戻った。
「気持ちが悪い・・・・」
 法帆は合羽を脱ぎ捨て、気持ちが落ち着けるスウェットパンツに履き替え、ベッドに倒れるように横になった。頭がグルグルと回っている。そのまま昏睡するように倒れ込んでいるとすぐに二時間が経ち、次の作業開始のブザーが鳴った。
「急げ――」
 インドネシア作業員たちは飛び出すように船室から出ていった。最後の作業員が法帆を見て揺り起こした。
「ノッポ、始まったぞ」
「は、はい」
 一人船室に残されたノッポはまた作業ズボンに履き変え、合羽を着込み、救命胴衣を着用し、準備に手間取った。引き揚げは投げ縄よりも過酷で忙しい。遅れたらもっときつく怒られる。そうはわかっていても法帆は十数分遅れて甲板に出た。
「馬鹿野郎!」 
 怒鳴り声が響いた。その声は甲板長ではなく、憤怒の大明神の如き表情をした船長・大山の怒鳴り声だった。大山は甲板長より短気で恐ろしい。
「なんでお前はいつもいつも遅れるんだ。モタモタ、モタモタしやがって。お前は猿か、人間か、ナメクジか」
「は、はい、人間だと思います」
 法帆が直立して怯えながらそう答えると、
「人間だと思います? なんだそりゃ、なんで『だと思います』なんだ、プッ・・・・」
 予想外の返答だったので大山は思わず笑ってしまった。その様子に作業員たちも同時に笑い出した。
「この野郎、秩序を乱しやがって」
 大山は法帆の太ももの裏を相撲の張り手のように強く叩いた。
「痛っ」
 法帆は腰をかがめて太ももを押さえた。普通、大山は癇癪を起こすとすぐに頬をビンタをするのだが、長身の法帆の顔は高くあるので咄嗟にビンタはしにくい。なので彼にだけは太ももに張り手をするのが習慣になっていた。
「引き揚げ開始!」
 甲板長の号令とともに投げた仕掛けの回収が始まった。手作業で縄を引き揚げていき、マグロがかかっていたら針からマグロを外し、エラ、内蔵、ヒレをナイフで切り落とし、さらに血抜きをする。そして重さを測定し、データを記入し、冷凍庫に入れる。これらの一連の作業を延々、ほとんど休みなしに十二時間つづけなければならない。ここからが過酷な労働の本番である。
「おい! すぐにマグロを外せ」
 作業が流れるように進む中、法帆は一人だけモタついた。大わらわの緊迫した状況だが法帆だけは流れに乗れない。
「馬鹿、どけ!」
 邪魔者扱いされる。かといって突っ立っていると、
「お前はなにをサボってるんだ」
 怒鳴られる。
「サメ!」
 ときおりサメがかかる。サメは棒で殴打し殺してから針を外さなければいけない。さもないと咬みつかれて大怪我をする。暴れるサメを殴打するのも法帆はモタつき怒鳴られた。
「お前がノロいと、怪我人が出るだろ」
「は、はい」
 法帆は棒で殴打して殺したサメを海の中に投げ入れた。これはなかなか残酷な作業だった。サメに何の罪があるというのか。いくらサメが凶悪な顔相をしているとはいえ、いくらなんでも気の毒に思える。何も考えず機械的に殺しつづけていれば、サメにたいする憐れみの気持ちもなくなっていくのかもしれないが、本当にそれでいいのだろうか。法帆は海にサメを投げ捨てる際、「ゴメンな」と呟き小さく手を合わせた。
 そのとき大きな波が押し寄せ船が大きく揺れた。法帆は体勢を崩し甲板の上をゴロゴロと転がった。
「危ねえな、気をつけろ」
「は、はい」
 サメのことを憐れんでいる余裕はなかった。少しでも気を抜くと自分の命が危ない。
「急げ。マグロの針を外せ」
 法帆はマグロの針を外そうとしたが、船酔いで目が回ってうまく外せない。たびたび後ろに振り返りゲーゲーと嘔吐をした。これでは仕事どころではない。
「ノッポ、この役立たず! お前はサメがかかったら棒で叩く役目だけでいい。それだけでいいからしっかりやれ」
 しかし、船酔いが激しくなり立っているのさえも困難になってきた。何度も何度も倒れて甲板の上を転がった。
「危ねえって言ってるだろ」
 こんな悪天候の日に限ってマグロがよくかかる。作業員たちは自分のことが精一杯で法帆のことなんかかまっていられない。そんな中、
「サメ!」
 大きなサメが揚がった。サメが揚がったと同時に法帆もよろめいて甲板に倒れ、サメと横並びになって抱き合うような状態になった。すぐさまサメを叩き殺さないと法帆は頭を咬みつかれてしまう。しかしサメを殴打したくても真横に法帆がいるので殴打しにくい。
「ノッポ、サメから離れろ!」
 虚ろになっていた法帆が目を見開くと顔の至近距離にサメがいて、凶暴な眼と正面から向かい合った。
「ギャーッ」
 四つん這いになり無我夢中で逃げた。さすがにこのときは船酔いが覚めた。死んでもおかしくない状況だった。
「危なかった・・・・」
 呆然とする法帆に大山が胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた。
「お前、命が惜しくないのか。お前が死んだら慰謝料やら裁判やらで会社が立ちいかなくなるだろ。この野郎!」
 拳骨で法帆の顔を殴りつけた。サメに殺されるか、大山に殺されるか、それはわからない。それは同じくらい危険な存在に思えた。法帆は殴られた頬を両手で押さえながら膝をついた。
「立て、ノッポ」 
 法帆は立ち上がろうとするが目が回って立ち上がれない。強い吐き気にも襲われ、四つん這いになってゲーゲーと嘔吐した。
「立てって言ってるだろ、ノッポ」
 そのまま座り込んだまま呆然となった。立ち上がる気力も体力もまったく喪失してしまったようだ。
「しょうがねえ奴だなあ・・・・」
 大山と甲板長が顔を見合わせた。二人で法帆を抱え上げて船室のベッドに連れて行った。
「おい、ノッポ。わかってるな。お前だけがサボっているわけにはいかないんだ。気分がよくなったらすぐに戻ってこい。わかったな」
「はい」
 法帆がか細い声で返事をすると、大山と甲板長は部屋から出ていった。


   三

 大山は不機嫌そうな様子で船長室に戻った。
「あっ、船長、ずいぶん遅かったですね」
 副船長の小塚は海図モニターから大山の方へ振り返り声をかけた。
「ちょっと甲板作業の様子を見るつもりだったのに、まったく手こずらされた」 
 大山は合羽と長靴を脱ぎ、濡れた顔や頭をタオルで拭いながらこたえた。
「船長、『ちょっと』っておっしゃいますが、部屋を出てからもう四時間も経ってますよ」
「四時間――」大山は時計を見た。「あっ、本当だ。そんなに時間を喰っちまったか」
「何があったんですか」
「何があったも何もわかるだろ? いつもの問題児だよ」
「ハハハハ、ノッポですか」
 小塚は小馬鹿にしたように言った。
「ああ。何で俺がノッポの代わりに甲板作業やらなくちゃいけないんだ。こっちはこっちで仕事が山積みだっていうのに」
 大山は海図モニターに目をやった。
「船は問題なく、南に進んでいます」
「ああ、ご苦労さん」
 副船長の小塚は大山の仕事全般の補助をしており、操船、通信、事務上の手続きを何でもこなす。甲板で肉体労働はせず、よって体つきも事務向きで細く、肌も白く、漁船に乗っているとは思えない華奢な容姿をしていた。
「ノッポ、今日はどうしたんですか?」
「今日、アイツ、サメに頭を咬まれそうになって驚いたよ」
「サメに、頭を」
 小塚はケラケラと笑った。
「サメが揚がったと同時に甲板に倒れてサメと添い寝状態だ。あれはビックリした」
「今はどうしてます?」
「船酔いでとうとう動けなくなって船室に戻した。普通は誰であれ現場にいれば少しばかりは役に立つはずだが、アイツの場合は、いると本当に邪魔になる。代わりに俺が仕事ってわけだ」
 大山は苦々しそうに言った。
「本当に使えない奴ですね」
「ま、酔いは仕方ないんだよ。初めは皆んなそうなるんだからさ。だけどアイツの場合は時間に遅れるわ、仕事はノロイわ、覚えられないわ、駄目のオンパレードだ。ま、何か天然で、場をホッコリさせるユーモアがあって、決して悪い奴じゃないんだ。それはわかる。でも、とにかく使えない。生産性が悪いってレベルじゃなく、いると逆にマイナスになるってレベルで使えない」
「毎年新人が入ってきても、まあ使えませんが、あの男の場合は突出していますね。一昔前なら海に投げ捨てられたんじゃないですか」
「そうかもしれんなあ。これから様子をじっくり見て、あんまりヒドかったら、三ヶ月後インドネシアに寄港するときマグロと一緒に下ろしてしまってもいい」
「三ヶ月の猶予ですか。それぐらいの期間で彼は仕事を覚えられるでしょうか。現場作業員、一人でも抜けると困るんですけどね。ノッポ、あいつ、どんな履歴でしたっけーー」小塚はパソコンの画面に法帆の履歴書を出して眺めた。「しかしヒドいですねえ。――大学は二年浪人、無名の私立大学に入るも一年で中退。その後、転職、転職の繰り返しで、ほとんど三ヶ月ぐらいで辞めてるんですね。これじゃあスキルも何も身につかない。しかも仕事と仕事の間が空白ばっかりですね。何をしてたんでしょう。しかも最近の四年はまったくの空白。何なんでしょう」
「パニック症っていうやつで苦しんでいたって言ってた。精神病のことなんてよく知らんけどな」
「メンヘラか・・・・、じゃあ、家で引きこもりか。船長はどうしてこんなスペックの悪い奴を採ろうと思ったんですか」
「初対面のときパッと見て、背が高いじゃないか。一九五センチって言ってたな」
「そんなにあるんですか」
「それがインパクトが強くて頼もしく見えた。考えてみりゃあ、それだけか」
「でも、彼はヒョロヒョロでしょ。手足が変に長くてバランス悪そうだし」
「ヒョロヒョロぐらい鍛えればなんとかなりそうじゃないか。それに若かったし」
「若いって二十九でしょ。ぼくとタメですよ。船長から見ると若く見えるかも知れませんが、もう青年とは言いづらい歳ですよ」
「確かにそうだな」
「それに、面接で尺八を持ってきたんでしょ」
「ああ、趣味が尺八だって言って吹きだした。なかなかの演奏だったよ。俺は尺八のことなんかまったくわからんけど、なんかジーンときたな。もしかしたら、あれが決め手だったのかなあ」
「面接で尺八吹くって前代未聞ですね。普通ならその時点でアウトでしょ。演芸会じゃないんだから」
「でも面接って、同ンなじような話ばかりするだろ。そんな型に嵌まったものばかり見てると、いい加減飽き飽きしてくるんだ。そんなとき変わった奴がくるだろ、すると逆にインパクトがあって興味を引く」
「じゃあ、ノッポの作戦勝ちだったんですか」
「アイツに作戦って、そんなに知恵が利く頭があったらいいんだけどな」
「甲板長が言ってましたが、研修中に姿が見えなくなったと思ったら、一人で隠れて尺八吹いてサボってるって」
「だから、そんなときは尺八を取り上げてやれって言ったんだ。でも、それはしたくないって言うんだ。なんでも、一回取り上げようとしたら、鬼のような形相になって『触るな!』って叫んで襲いかかってきたらしい。理性が利かない狂人的な恐ろしさがあったって。あいつの尺八を触ることは絶対のタブーなんだってさ」
「ノホホンとしてるあの男が、そんなふうになるんですね。意外な一面もあるんですね。生産性は低くて使えないくせに、取り扱いは注意って。とんだ不良品だ」
「考えてみりゃあ、何であんな奴を採ったんだろう。とんだ俺のミスだ。――おっと」
 船が大きく揺れ体勢を崩した。
「まだ波が収まらないなあ。小塚、どういうことなんだこれは」
「朝から調べているんですが、よくわからないんです――」
 小塚はパソコンで天気図や海域情報を出して見つめた。
「おかしいんですよ。海域情報によると現時点では時化ていないんですよね」
「時化てないって現実は大時化だ。空の様子は?」
「空もまったく低気圧は来てませんし・・・・」
「自然現象ってこういうことがあるんだよなあ。計算に収まらないことがたまに起きる」
「でも必ず何かあるはずなんですけどね。観測データから漏れた重要な何かが・・・・」
 小塚はいろんなデーターを画面に出し分析した。
「ん?」
 大山は何かの異変を感じ取った顔をした。
「何ですか、船長」
「何か聞こえないか」
「何かって? 雨音ですか?」
「違う、尺八だ」
「尺八?」
「ノッポの奴、悠長に船室で尺八を吹いてやがる。辛そうにしてたから休ませてやったのに、体調が回復しても仕事に戻らないで遊んでやがる。あの野郎」
「ああ、確かに聞こえますね」
「ぶん殴ってきてやる」
 大山は眉間に皺を寄せ、席から立ち上がった。そのとき、さっきよりも強く船が揺れ、体勢を崩して床に倒れた。
「なんだ、なんだ・・・・」
 揺れ方が異常に強かった。
「おい、おい、気をつけないと作業員たち海に投げ出されるぞ」
 波は収まらず右に左に大きく揺れる。大山は操船席に座り舵輪を握りしめた。
「危ないぞ・・・・」
 船が転覆したら一巻の終わりである。大山は緊迫した表情で進路を見定めて舵を切った。
「収まったか・・・・」
「静かになりましたね・・・・」
 どうして急に静かになったのかもわからない。不気味な静けさである。
「ちょっと甲板を見てくる」
 大山は立ち上がった。その瞬間、猛烈な波が押し寄せてきて船は大きく傾き、二人は椅子から投げ出され床に転がった。
「ウワッ・・・・」
 次の瞬間、船は渦に巻かれたのか、船体が独楽のようにグルグルと激しく回転し出した。海のことを知り尽くしたといっていい百戦錬磨の大山もこんな事態は経験がない。恐怖で身体が硬直し動けなくなり、冷たい汗が体中の毛穴から吹き出した。
 船は横転し逆さになった。
「あああ――」
 絶叫と共に二人は意識を失った。


   四

 法帆は目を覚ました。青い空がまぶしい。「ここは天国だろうか」、そう思いながら上体を起こした。眼前にはコバルトブルーの鮮やかな海が広がっていた。なんと美しいんのだろう。白い砂浜の波打ち際に座っている。後ろを振り返ると南国特有のヤシの木の林があり、林の奥には濃い緑の山が聳え立っている。耳をそばだてると陽気な鳥のさえずりが交錯し、さながら鳥たちの合奏会である。目を閉じてしばらく鳥たちの声に耳を傾けた。
「フフフ――」
 法帆は自然と笑みがこぼれた。
「夢じゃないよなあ・・・・」
 穏やかなさざ波が波打ち際を行ったり来たりしている。自分がこの島に来たことを歓迎し、手招きをしてくれているかのようだ。
「生きている。オレは生きている」
 手にはしっかり尺八が握りしめられていた。手についた白い砂をパンパンと両手を合わせて払い落とし、尺八についていた細かい砂も静かにさすって払い落とした。服や身体についていた砂も払い落としながら、自分の今ある状態を観察した。Tシャツにスウェットパンツ、足は素足だった。船室にいたときの格好そのままである。どうやら嵐で船が遭難し海に投げ出されたようだ。よく助かったものだ。
「しかし、何だったんだろう――」
 マグロ漁船での毎日の過酷な日々を思った。それは過去の記憶というより、遠く遠くで朧に揺らめく淡い幻想であるかのような気がした。
「ハー」
 深く息を吐き、胸いっぱい息を吸った。息ってこんなに深く吸えるものなのか。身体の隅々まで、手の先から足先まで酸素のエネルギーが運搬され、臍下の丹田が微細に振動するのを感じた。
「自由だ、自由になれた!」
 青い空に一羽の白い海鳥がグライダーのような細く長い羽を広げて横切っていった。うれしさが湧き起こってきた。
「このうれしさを、この開放的な気持ちを、この青い海に、この澄み渡る空に、この緑の島に届けよう」
 法帆は尺八に口をつけた。そのまましばらく沈黙し、この島から感じ取れる無音のメロディーに意識を傾けた。無音のメロディーは大気中に姿なく流れている。その流れに同調するように尺八からゆっくりと音を出した。
ーーピーピーヒョロロー
 尺八の音色は、空に、大地に、そして島全体に溶け込むように流れ出し、法帆の意識も音色と一体となって飛び立っていった。
     ※
 船長の大山が目を覚ました。
「あれ・・・・、俺は何をしてるんだ?」
 半身をゆっくり起こし、目をこすって眼前の風景に目をやった。そこにはあっけらかんとした南国の海があった。
「ん? どこだ、ここは?」
 ハッと我に返ったように目を見開いた。
「エライこっちゃ! エライこっちゃぞ!」
 周りをキョロキョロと見回した。そばに男が一人寝そべっていたので這い這いするようにして近づいた。
「おい、おい」
 男を揺り起こしながら人物を確認した。男は副船長の小塚だった。
「小塚か。小塚、おい、目を覚ませ。小塚――」
 小塚は朦朧として目を薄く開けた。
「小塚、小塚」
 大山は小塚の頭を左腕で支えながら起こし、右手で彼の頬を軽くビンタした。
「あ、船長・・・・、ここはどこですか」
 小塚は意識を戻し、囁くような声で言った。
「どこかの島のようだ。詳しくは俺もわからん。俺も今、目を覚ましたばかりだ」
「島?」
 小塚も周りをキョロキョロと観察した。
「船は、どこに?」
「どうやら難破したらしいな」
 大山は声を低く押さえて言った。
「難破・・・・。そういえば、あのとき・・・・」
 小塚は、船が大揺れに揺れ独楽のように回転したことを思いだした。
「あの揺れたとき、船がひっくり返ったんだろうな」
「ハアー」
 小塚は焦点の合わない目を中空に向けながら重い嘆声をもらした。
「他の船員は?」
「さあ・・・・」
 白い海岸線には人の姿が見えなかった。小塚は目を指で押さえたり、目をしばたかせながら海岸線を見つめた。普段小塚は眼鏡をかけていたが、その眼鏡がなくなっており、肉眼で見える景色はぼんやりと霞んでいた。
「船員たちの賠償ってどうなるんでしょう」
「どうなるんだろうな。保険でどこまでカバーしてもらえるか」
「船は全部、パーですよね」
「多分な」
「じゃあ、会社は、もう――」
「それ以上言うな――」大山は小塚をきっと睨みつけ発言を止めた。そして諭すように言った。「そんなこと、今言ってもしょうがないじゃないか。とりあえず、俺達は生き残ったんだ。生き残ったことに感謝しよう」
「そうですね・・・・」
 二人は下を向き沈痛な面持ちで黙り込んだ。
「まず、どうやって生きて帰るか考えよう――」大山が厳しい目つきで言った。「命が助かったはいいが、どうやって救出してもらえばいいか。ここは太平洋の孤島だろ」
「有人島であればいいんですが」
 海岸線の背後は森と山で人は住んでいそうになかった。自然は濃く深く、それは人為的に飼い慣らされていない一種の野蛮さがあった。
「ちょっと見た感じ、ここは無人島っぽいな」
 大山は海の男らしく直感を働かせて言った。
「無人島ですか・・・・。どうやってSOSを呼べばいいんだろう」
「その前に、水、食料、寝る場所を確保しないと。まずはサバイバル生活だ」
「サバイバル・・・・、私にはそんなサバイバルのスキルなんてまったくありませんし、それ以前に、サバイバルの道具、ナイフの一本もありません。こんな手ぶらの丸腰の状態でどうすればいいんでしょう」
「どうにかしないといけないな。考える前に行動して、どうにかしないとな」
「どうにかって・・・・」
 小塚は、大山の論理の成立しない返答に困惑した。
「まず、何をしよう・・・・」
 二人は沈痛な面持ちで黙り込んだ。小塚は勉強がよくできるタイプで机上の仕事には長けていたが、こんな想定外の状況は想像したことがなく、何から始めればいいかまったくわからなかった。
 そんなとき、遠くから幽かに尺八の音色が聞こえた。
「ん? 小塚、何か聞こえるか」
「波の音? 鳥の声?」
「よく聞け。尺八の音じゃないか」
「あ、確かに」
「ノッポがいる!」
 二人は立ち上がった。耳をすまして尺八の音に近づいていった。
     ※
 法帆の吹く尺八の音色は空高く高くへ舞い上がり、旋回し、急降下して大地を縦横無尽に駆け抜けた。ときには速度を変えて緩やかに、ときには大胆に、ときには激しく、大空を自由自在に羽ばたいた。どうしてこんなに伸び伸びと音色が羽ばたけるのか、法帆自身もわからなかったがとにかく心の底から楽しかった。
「――ノッポ」
 そのとき、恐ろしい銃弾が間近に飛んできたような気がした。その瞬間、音色は力を失い、覇気を失い、色を失った。「気のせいだ」、法帆は強く願った。暗い過去が息を吹き返し、ひたひたと迫ってきている気がする。「気のせいであってくれ」、法帆は再び高くへ舞い上がろうと殊更尺八を強く吹いた。が・・・・。
「ノッポ! おい、ノッポ!」
 幻と願った声音ははっきりと耳に聞こえた。法帆は尺八を吹くのを止め、横を振り向いた。
「ノッポ、生きていたか」
 二人の人間の影が、身体から黒く鈍いオーラを放ちながらこちらに近づいてくるのが見えた。相反する概念、現実と幻が、天国と地獄が混じり合ったような複雑な気持ちになった。開いていた毛穴と心がピシャリと閉ざされ、心臓がキュッと縮んで硬くなった。
「お、お疲れさまです」
 法帆は砂浜の上に正座をして彼らにうやうやしく頭を下げた。
「ノッポ、お前なあ・・・・、こんな事態で何が『お疲れさま』だ。お疲れさまって場合じゃないだろ。お前は本当におもしろい奴だなあ」
 不安で顔が硬直していた大山の頬が緩んだ。
「ノッポを見ると、何かホッと癒されますね」
 小塚も笑みを見せた。
「ノッポ、お前は世界の果てに行こうが、地獄の底へ行こうが、マイペースで生き延びるタイプだと思っていたが、やっぱり生き残ったか。よかった、よかった」
 大山は法帆の手を両手で握りしめて感激したように言った。
「は、ま、まあ」
 法帆はぎこちなく愛想笑いをした。昨日まで大声で怒鳴りあげ殴りつけてきた相手が、漁船が難破し島に漂着するという特殊な状況になったら、昨日までのことは何もなかったかのように親愛の態度で距離を詰めてくる。彼らの急変した態度に気持ち悪さを覚え、戸惑い、そして警戒もした。
「この場に及んでも悠長に尺八を吹いていられるなんてお前はスゴイよ、ハハハ。俺たちはほとんどパニック状態だったっていうのに。――でも、お前、よく尺八を持っていたな」
「この場所で意識が戻ったとき、なぜか尺八を持っていました」
「スゴイなあ。お前の尺八への愛は。まさに執念だな。――で、裸足か」
 大山は法帆の姿を観察して言った。大山も小塚もシューズを履き、会社の名前の入ったポロシャツと作業ズボンを身に着けている。
「Tシャツにスウェット・・・・、寝起きみたいな格好だな」
「そうみたいです・・・・」
「そうか、お前は共同船室にいたのか。だからそんな格好か。でも、甲板にいた連中はどうなったんだろう。あいつらは救命胴衣を着ていたはずだが、救命胴衣を着ていない俺たちがこうして生き残って、あいつらは・・・・。この島のどこかにいるんだろうか・・・・」
 大山は悲哀の表情に崩れた。伸びた白髪交じりの無精髭、額に刻まれた深いシワ、日に焼けたシミのある肌、一気に数歳老け込んだように見える。
「船長――」小塚が口を挟んだ。「早くこの島を三人で手分けして捜索しませんか。水がないことには死んでしまいますから」
「そうだ、そうだ」
 空を見上げると太陽は真上からカンカンと照らし、日差しは刻々と強くなっている。こんな日差しの強いところに長くいたら干からびてしまう。
「じゃあ、どうしよう――」大山の表情が上司の表情に変わり、二人の目を交互に見つめて言った。「まず必要なのは水、食料、寝る場所。これらを確保してから今後のことをじっくりと協議しよう」
「はい」
 小塚は真剣な面持ちで返事をしたが、法帆はボンヤリと下を向いていた。
「ノッポ、わかってるな。生きるか死ぬか、今が瀬戸際なんだからな。尺八を吹いている場合じゃないんだぞ」 
 大山は威厳を込めて言った。
「は、はい」
 法帆は精一杯返事したつもりだったが、大山の耳には弱々しい返事に聞こえた。コイツは事の重大さが本当にわかっているのか。大山は「この野郎」と怒鳴りたい衝動を覚えたが、三人しかいない閉鎖的な状況下、あまり横暴な態度は取るべきではないと、衝動をグッと抑えた。
「とにかく日陰に移動だ」
 三人は大山を先頭に砂浜からヤシの林の方へ向かった。


   五

「はあ、暑い――」
 大山はヤシの木陰で立ち止まり林の奥を眺めた。それほど鬱蒼とした感じでもないが、木々の一本一本が、湧き上がるような生命力を帯びて高く太く、奇妙にねじ曲がっている木があったり、根っこが執念深そうに大地を鷲掴みしていたり、蔦が絡まって窒息死したような倒木があったり、ひ弱な文明人なんか、たやすく受けつけてくれない迫力がある。十分に注意して入っていかないと、予想だにしていない何かが突然襲ってきそうである。
「ノッポがなあ・・・・」
 大山は小さく呟いた。シューズを履いていても足元が怖いのにノッポは素足である。毒蛇、毒蜘蛛、毒蟻――、何がいるかわからない林の中、ノッポを歩かせて大丈夫だろうか。だが、この林の奥へ歩いて行かないと川は見つからない。大山の心配をよそに、法帆は木に背中をもたれかかり海岸線をノホホンとした表情で眺めていた。
「おい、ノッポ」
 大山の呼びかけにもすぐに反応せず、しばらく間をおいて、
「は、はい」
 気のない返事が返ってきた。
「ノッポ、聞いているのか」
「き、聞いています」
 法帆は大山から目を逸らし下を向きながら言った。大山は法帆のやる気のない態度にまた苛立ちを覚え、罰としてこの林を一緒に歩かせようと心に決めた。
「ここを歩いて行けるな」
 大山が威圧感のある声で言ったが法帆は返答せず、海岸線の西の方を指さして言った。
「あそこにーー」
「なんだ、この野郎」
 大山はムッとしながら法帆の指さす先を眺めると、ヤシの木の木陰に小さい人影が見えた。
「人だ・・・・」
 大山は驚いた声を出した。
「人ですか・・・・」
 小塚も目を細めて見つめたが、目の悪い小塚には人影が見えなかった。
「確かに人がいる。な、ノッポ」
「こっちをじっと見てますよ」
「本当か、どうする? 近づくか?」
「近づくしかないでしょう。多分、この島の土着民でしょうから。彼らとの接触抜きにこの島での生活は考えられません」
 小塚が冷静な見解を述べた。
「よし、近づこう。友好にしてもらえるよう慎重にな」
 三人は大山を先頭に人影に近づいていった。
「――確かに土着民だ」
 近づくに従ってその正体が明らかになってきた。肌色の黒い半裸の男が一人、木の下に座ってこちらをじっと見つめている。男は、何かの植物の繊維で編んだ腰蓑のようなものを身につけ、齢の程は老齢でも子供でもないことはわかるが、その容姿からは何歳ぐらいなのかさっぱり見当がつかない。
「文明に接触したことのない民族なのか・・・・」
 大山が呟くように言った。
「衛星で地球を見下ろせる時代にそんなことはないでしょう」
 小塚が引きつった笑いを浮かべながらこたえた。
「ノッポ、アイツ槍とか刀とか弓とか、何か武器を持っているか」
「そんなものは見えませんが」
「それならいいんだが・・・・」
 二十メートルぐらいの至近距離に近づき、そこで一旦足を止めた。
「ハロー」
 大山がぎこちなく笑いながら手を振り声をかけた。
「・・・・・・」
 相手からは何の反応も返ってこなかった。男はゆっくりと立ち上がって身体の正面をこちらに向けて身じろぎしない。
「ハロー」
 大山がもう一度声をかけ、ゆっくりと近づいて行くと、男は突然言葉だか叫び声だかわからない甲高い声を出した。表情は無表情であったが、その甲高い声から彼が強い警戒心を持っていたことがわかった。大山はびっくりして足を止め、数歩後ろに退いた。しばらくすると、どこからともなく仲間らしき同じ土着スタイルの半裸の男がヌッやってきた。彼も大きな目でこちらを見つめ、ピタリと止まって動かない。沈黙の空気が流れた。
「マズイぞ・・・・」
 膠着状態になったかのように思われた。そのとき、
――ピーピーヒョロロー
 大山と小塚の後ろに立っていた法帆が突然尺八を吹き出した。
「お、おい、ノッポ・・・・」
 大山と小塚は振り返って、意外な行動に出た法帆を小さく窘めた。ノッポは気にもとめず目を閉じながら尺八を鳴らした。土着民は初めは何が起きたんだという怪訝な表情を見せていたが、だんだん尺八の音色に耳を澄ましだした。聞いているうちに表情が緩み、音に合わせて小さく身体を動かし始めた。
「おっ・・・・」
 大山は法帆と土着民を交互に見た。言葉を使っていないのに、いい感じでコミュニケーションが成立している。大山と小塚は、土着民に法帆の姿がよく見えるよう静かに後ろに退いた。
 土着民の動きは少しずつ大きくなり、ついには音色に乗ってユラユラと踊りだした。動きはまるで関節がないかのように滑らかで、頭、目の玉、胴体、腕、肩、腰、脚、指先の一本一本、それぞれの身体の部位が分離したかのように器用に動く。自然の中で暮らしている彼らの身体は、無駄な脂肪がまったく着いておらず細くしなやかである。
 法帆は自分の奏でる音色に彼らの意識が深くに入り込んでくるのを感じた。彼らは音色の中に意識を漂わせ愉悦している。法帆は体をくすぐられているような気持ちがし笑いがこみ上げてきた。
「フフフフ――」
 あまりにも可笑しくなり尺八が吹けなくなった。
「ハハハハ――」
 腹の底からの笑い。あまりにも可笑しい。
「何なんだろう、この可笑しさは」
 とにかく腹が捩れるほど可笑しかった。
「ガハハハ――」
 笑い転げる法帆に土着民の男二人も「ハハハハ」と陽気に笑いだし、そのまま拍子をとって彼ら自身で歌い踊りだした。彼らの発声は特殊なものだった。音は一本の喉から出ているはずだが、高音、中音、低音が混ざり合い、響き合っているように聞こえる。声それ自体はそれほど大きく聞こえないのに、どこまでも遠くへ伸びていく力強さがある。
 二人が歌い踊っていると、どこからともなく土着民の男女、子供たちがゾロゾロとやってきて、誰に何も言われなくとも一緒になって歌い踊った。不思議な踊りと歌だった。誰一人、同じ歌、同じ動きはないのに、全体として調和がとれてメロディーが流れていく。皆んな楽しそうだった。
 法帆はしばらく彼らの様子を興味深く眺めていた。自分もこの仲間に入りたい。彼らのリズムを感じながら流れの隙間を見つけ、タイミングを見計らって尺八を再び吹き始めた。
――ピーピーヒョロロー
 尺八の音色と土着民の歌が混ざり合い、複雑化し、昇華した。どんどん熱を帯びてくる。大勢の土着民は波に漂うクラゲのようにユラユラと揺れながら、この島の大地から生えてきた一つの生命体の産毛のようになった。
「スゴイことになったぞ」
 大山が小塚に小さく耳打ちした。
「ええ、スゴイことになりましたね。私たちも一緒に踊った方がいいんじゃないでしょうか。仲間に入れてもらうためにも」
「そうだな」
 二人も土着民の動きを見よう見まねで体を動かした。土着民のような滑らかな動きは到底できず、ゼンマイ仕掛けのロボット玩具のようなぎこちない動きになったが、皆んなと一緒に体を動かしているうちに不安が少しずつ解消され愉しくなってきた。
「こんなことしていていいんでしょうか?」
 小塚は不安が消えることに不安を覚え、踊りながら大山に声をかけた。
「何が?」
「遭難している我々がこんなふうに踊っていて」
「忘れよう。とにかく忘れて踊ってりゃいいんだ」
 どれだけ時間が過ぎただろうか、日差しは弱まりそよ風が吹いてきた。法帆は無我夢中で尺八を吹くあまり、周りがどんな状況になっているか全然見えていなかった。フッと我に返り周りを眺めてみると、大勢の土着民に囲まれているのを知った。
「いつの間にこんなに人が・・・・」
 法帆は演奏を止め、踊っている土着民たちをまじまじと観察した。なんて素直そうな人たちなんだろう、第一に思った。彼らと感情を共感させることができてよかったと思った。ついさっき初めて会った人たちだが、なぜだか初めてのような気がせず、遠い昔から知っている同士のような感覚がした。生まれ育った日本では、人と心を交わすのに苦心させられたが、どうして見ず知らずの言葉も文化もわからないこの島で、こんなに心が通い合うのか。法帆は不思議な感じがした。
 土着民たちも徐々に歌と踊りを止めていった。歌と踊りを止めた彼らはその余韻に浸ることなく、何ごともなかったかのように、一人ずつ波が引くように散り散りに去っていった。そんな彼らの執着のない様子も興味深かった。
「ご苦労――」大山が笑いながら声をかけた。「ノッポのおかげで彼らに受け入れられたよ」
「あ、どうも」
 法帆は小さく頭を下げた。大山は彼らを見回して不思議そうに言った。
「あれ、皆んな歓迎してくれたのかと思いきや、けっこう淡白だなあ。何にも挨拶もせずに去っていく。ノッポ、疲れたろ。あとは俺たちに任せろ。意思疎通を試みるから」
 大山が土着民の一人の男性に声をかけた。
「キャン・ユー・スピーク・イングリッシュ?」
 何の反応も返ってこなかった。無表情で見つめられ、無言で去っていく。
「ハロー」
 また別の男性に声をかけた。しかし、こちらも相手にしてくれない。
「やっぱり英語は全然駄目か。しかし、何だろう。皆んな全然親しげにしてくれないなあ」
「船長――」小塚が大山に言った。「部族のリーダーみたいな人にまず声をかける必要があるのでは」
「そうか、そうかもしれないな。でも、誰がリーダーなのだか」
 外見を見ただけではその部族のポジションが全然わからなかった。皆んな腰蓑姿の半裸体で格好は同じである。
「とにかく片っ端から声をかけるか。小塚、お前も声をかけてくれ。ゼスチャーを交えてな。誰か一人くらいは相手にしてくれるだろうから」
「わかりました」
 二人は去っていく土着民、男女を問わず片っ端から声をかけた。でも、いい反応がまったく返ってこなかった。法帆はしゃがみ込みながらそんな二人の様子を黙って眺めていた。すると一人の子供が法帆の背中を、猫が尻尾を静かに触れて意思表示してくるようにソッとやわらかく触れてきた。
「ん?」
 法帆が振り返って目を合わせた。日本でいえば小学校低学年ぐらいの少年だろうか。丸く大きな澄んだ目をしていた。少年は軽く触れてきただけで何もしゃべらなかった。じっと法帆を見つめている。法帆は照れながら、
「こ、こんにちは」 
 と、声をかけて頭を下げたが、彼は無反応だった。しかし反応はなくとも、少年の心のうちに慈悲深い何か崇高なものがあるように感じられ、法帆は今一番喫緊な問題を伝えてみた。
「のどが渇いた」
 そう言って喉をさすったら、少年は音声をオウム返しし、
「ノドガカワイタ」
 と言った。法帆は意外な反応に驚きフッと微笑むと、少年もフッと微笑んだ。次にもう一つ、
「お腹が空いた」
 と、お腹を押さえて言ったら、それもオウム返しし、
「オナカガスイタ」
 と器用にしゃべった。法帆はその少年に興味を覚え、彼の大きな目を覗き込むように見つめた。少年は法帆の肩に軽くフワッと手を触れ、何も言わずに歩き出した。法帆は彼がどこかへ連れて行ってくれる意思表示だと直感し、黙ってその後をついて行った。


   六
 
 大山は法帆が小さな少年と歩き去るのを見て大きく声をかけた。
「おーい、ノッポ、どこへ行くんだ?」
 法帆は言葉を出さず、ただ手招きのゼスチャーをした。それを見た大山と小塚も法帆の後を追った。海岸線の砂浜を西に進んでいき、崖の突き当りが明瞭に見えてきたころ右に折れて林の中を進んだ。林の突き当りは絶壁の崖があり、その崖の手前、そこは広場になっており土着民たちが集まっていた。背後の崖は大きくえぐれていて洞窟になっている。
「ここが彼らの村か・・・・」
 大山は周りを観察して言った。
「村というか、集会所みたいですね――」小塚が言った。「ここで寝起きしてるんですかねえ」
 家らしい建物は何もなかった。周辺に屋根を葉っぱで葺いた簡素な納屋のようなものが点在していたが、それらはいかにも脆弱そうで雨風が凌げるようには見えなかった。
「彼らは人生がサバイバルですね」
 小塚が呆れた口調で言った。
「そうだなあ・・・・」
 二人はあえて口に出さなかったが、彼らの生活には「文化」というものがなく、野生動物に毛が生えた程度の野蛮で愚かな存在に思えた。
 そこで土着民たちは、料理を作る者、木の下で佇む者、焚き火の準備をする者、林の中を歩き回っている者――、人それぞれで、誰かが指揮を執って全体が統率されているようには見えない。突然やってきた部外者の三人は放ったらかしにされ、誰も気に止めようとしなかった。
「彼らには客人をもてなすという文化がないのものかね」
 大山が耐えかねて言った。
「孤島で生きてきた彼らは、『客をもてなす』という経験を持てなかったんでしょうか――」小塚がこたえた。「それよりも、彼らは我々に食事を提供してくれる気があるのかどうか」
「さあ、なあ・・・・。我々が食物にならなければいいんだがな」
 大山は恐ろしいことを口にした。無意識的に出た軽はずみな言葉だったが、その言葉の呪力が自分自身に襲いかかり、土着民たちが危害を及ぼすであろう危険な存在に見えてきた。大山と小塚は気まずそうに目を合わせた。
「そんなことはない。そんなことが起きるわけがない。冗談だ、ハハハ――」大山はカラ笑いでごまかした。「ノッポ――。あれ、ノッポはどこだ?」
 大山は法帆に話題の矛先を向けた。法帆は呑気そうに土着民たちの中をウロウロ歩き回って彼らの生活を間近で観察していた。長身の法帆が尺八を片手に土着民の中を歩いているだけでも奇妙な感じだが、誰からも警戒されずうまく周りに溶け込んでいるように見える。
「ノッポ――」
 大山の声に気づいたらしい法帆は大山の方を見た。
「ノッポ、水はどうなった?」
「多分、こっちじゃないですか」
 法帆は林の中を歩き出した。
「なんでアイツ、道を知ってるんだ?」
「さあ・・・・」
 大山と小塚は法帆の後を追った。法帆が林の中を歩いて行くと子供数人が駆け寄り、先導して歩いて行く。
「アイツ、いつの間に子供たちと友達になったんだ?」
「さあ・・・・」
 しばらく歩くと、澄んだ水が流れる小川にたどり着いた。
「ここが水場か。確かにきれいそうな水だ」
 三人は水を両手ですくって飲んだ。体が水分枯渇状態だったらしく、細胞一つ一つに水分が染み入るようですこぶる美味しかった。
「ああ、生き返った」
 法帆は「フゥー」と息を吐き、眼前の風景に目をやった。水を飲んだら、原色の花々の色がより鮮明に美しく見えた。法帆は少年たちに「ありがとう」と言うと、少年たちは笑って駆け出していった。
「しかし、この水大丈夫でしょうか――」小塚が厳しい表情で言った。「変な雑菌が混ざっていないかな」
「現地人が飲んでいるんだから大丈夫だろ。本当は煮沸したほうがいいんだけどな」
「煮沸するにもヤカンもなければポットもない。どうすることもできないですね」
「そもそもコップもないしな」
「木を彫るなりしてコップぐらい作ればいいのに」
「木を彫る道具がないんじゃないか。この島に金属があるのか」
「そうか、金属というか、金属精製の技術がないのか。でも、さっきの集会所で『すり鉢』みたいな容器は使ってましたよ」
「あれは土器なのかな。素焼きの土器。それぐらいは作れるのか」
「彼らに作れるのはその程度なんでしょう。彼らから見れば、我々は宇宙人みたいなものでしょうか。我々がどんな生活をしているか彼らにはまったく想像がつかないでしょうね」
「そうだろうなあ。空を飛べば、地下に街を作る。目には見えない電波を使って交信しているんだから」
 法帆は二人の愚痴ばかりの会話を聞いているとゲンナリした気分にさせられた。せっかく生きていくための最重要な場所、水場や寝る場所に案内してくれたというのに、どうしてそんなに不満ばかりこぼすのか。大山と小塚と一緒にいると晴れやかな気持ちも淀んでしまいそうなので、できるだけ近づかないようにしようと思った。法帆は二人に何も告げず、黙って水場から集会所へ立ち去った。
「ノッポも黙って行っちゃいましたね」
「あいつも土着民とソックリだな、ハハハ」
「我々も戻りましょうか。ちょっと暗くなってきましたから」
「そうだな。暗くなったら道がまったくわからなくなる。ただでさえ何の看板も地図もないのに」
 大山と小塚も水場から立ち去った。帰りの道すがら、
「こっちの方向でよかったですか?」
 小塚は自信がなくなり訊ねた。
「大丈夫だろう。あっちが海だから」
 大山も自信がなかった。街中には目印になる建物があるが、林の中は混沌としていてまっすぐ歩くことさえ困難である。「道に迷ったのでは」と不安な気持ちになると、さっきまで陽気に聞こえていた野鳥の鳴き声が何だか薄気味悪く聞こえてくる。
「よかった。帰ってこれた・・・・」
 二人は暗くなる直前に集会所にたどり着いた。広場の真ん中で赫々と燃え上がっている焚き火の炎を見つけ、ホッとした気持ちになった。
 土着民たちは焚き火を囲み、小さく歌を口ずさみながら調理の支度をしていた。子供たちは魚籠に魚介類を入れてどこからか運んでくる。女たちは大きな葉っぱに魚や貝を巻いて火に入れたり、土器を火にかけたりして調理している。男たちは、口々に何かの呪文を唱えながら焚き火の炎を見守っている。夕暮れの調理の風景というより、何か神聖な儀式を行っているように見えた。
「毎日、こんな大袈裟なことやっているんでしょうか」
 小塚が薄笑いを浮かべて言った。
「そうだなあ。我々みたいにレンジでチンってわけにもいかないからなあ。でもなあ、食べるって当たり前に考えていたけど、本当はこんな風に大変なことなんだよなあ」
 大山は彼らの懸命な様子に感心したように言った。
「でも、こんなことをしているから文化や文明が発達しなかったとも言えますね。時間をもっと有効に使えば、技術も脳も発達しただろうに」
 小塚は冷ややかだった。
「そういえばノッポは? ノッポは戻っているよな?」
 周囲を見回すと、法帆は子供たちと一緒にバナナの大きな葉っぱを林から採ってくる手伝いをしていた。
「なんだ、アイツは。知らないうちに妙に馴染んでいるなあ」
 大山が少し羨ましそうに言った。
「漁船の仕事はまったく馴染まなかったくせに、ここでは言葉が何にも通じないのに馴染むなんて。やっぱりアイツは異常体質ですね」
「俺達も何かしないと駄目かな。上からお高く『お客様然』としていると見放されるかもしれないぞ」
 大山と小塚がが何か手伝いをしようと、女たちのそばへ行ったり、子供たちの後ろに付いて行ったりしたが、誰も相手にしてくれず、むしろ邪魔扱いを受けた。
「駄目か・・・・。ノッポだけが特別か」
「やっぱり尺八の効果は大きかったようですね」
「よし、ここはノッポに任せよう。ノッポが俺たちの分もブン取ってくれるだろう」
 日が落ちて暗くなった頃、ようやく調理が済んだ。まだ調理中のものもあるが、できた料理はバナナの葉に乗せられ、集会所に集まっている皆んなに回された。彼らは料理を前にすると何かの呪文を唱えてから、幾ばくかの料理を掌にのせて次の人に回す。日本から来たよそ者の三人にも食事が回され、食事にありつけることができた。彼らは特別な歓迎の意思表示をしないが、仲間として迎え入れてくれたようである。
「皆様、今晩はありがとうございました。今後ともよろしくお願いします」
 大山は食事が終わると皆に感謝の言葉を大きな声で言い頭を下げた。しかし、土着民たちは不思議そうな目を向けるだけで何の反応もなかった。歓迎する感じでもなければ拒否している感じでもない。この民族は非常に物静かで大人しく、大きな感情表現を見せなかった。おしゃべりすらほとんどしていないように見える。
「ノッポ、自己紹介とかしなくていいのかな?」
 大山は法帆に訊ねた。
「しても誰も理解できないんじゃないでしょうか」
 法帆は困惑しながらこたえた。
「そうだな。こうしてここにいれば自然と皆んなに覚えられるか」
 食事が済むと土着民たちは、思い思いの場所に散り、横になった。早々と就寝するようである。洞窟に入る者、納屋に入る者、木の下で眠る者、食事の時のような儀式的なことは何もなく、自由好き勝手に寝るようだった。
「ノッポはどこで寝る?」
 大山が聞いてきた。
「船長はどこで寝ますか」
 法帆は聞き返すと、
「雨風が当たらないところがよさそうだな。洞窟で寝るよ」
「そうですか――」法帆は二人から距離をとりたかったのであえて別の場所で寝ることにした。「ぼくは星を眺めたいから木の下で寝ます」
「そうか」
「おやすみなさいーー」
 法帆は一人木の下で仰向けに横になった。スモッグのない夜空の闇は都会より濃く、星がより輝いて見える。黒画用紙に細かいガラスの破片をザッと振りまいたように星数も多い。昼の鳥の鳴き声に変わり、虫の鳴き声が地面から湧き出すように響いている。長い一日だった。昨日まで歩いていた道が突然ひっくり返り、まったく知らない土地に放り出された。言葉もわからない、情報もない、何の準備もない手ぶらの状態で新しい生活が始まった。そんな予測不能の一日をなんとか無事生き延びられた。目を閉じると、脳裏に今日起きた出来事の断片が高速で駆け回った。心身ともに疲れがあり、あっという間に眠りの世界に落ちていった。
「――ここらへんでいいか」
 大山と小塚は洞窟の隅のなるだけ地面が平面の場所を見つけ、そこで横になった。
「変な虫とか出ないでしょうか」小塚が心配そうに言った。
「皆んな寝てるから大丈夫だろ。というより大丈夫と思うしかない。他に寝る場所はないんだから」
「そうですね」
 ベッドに慣らされた体に岩盤は固く、二人はなかなか寝付けずにいた。ついつい話がつづいた。
「日本ではどう報道されているでしょうね」
 小塚が言った。
「難破して『船員全員行方不明』ってニュースに流れているんじゃないか」
「死んでいると思われているんでしょうね」
「そうだなあ。お前は独身だからいいものの、俺は母ちゃんと子供がいる。泣いているだろうなあ」
 大山は大きく溜息をついた。
「私も両親と兄弟が心配しているでしょう。それよりも銀行預金ですよ。家族に勝手に使われたら困るんだけど」
「俺の場合は、金を下ろそうにも通帳の保管している場所や取引先の銀行を家族は知らないから、彼女たちはこれからどうやって生活していくんだろう。サバイバルは俺だけじゃない、家族も同じだ。ああ、頭が痛い」
「どうやってここから脱出するか考えないといけませんね」
「そうだな」
「大黒丸を見つけても、壊れて使えないでしょうし・・・・」
「筏を作ろうにも、作る道具がないしな」
「この島に他にもう誰か住んでいないかなあ。文明的な暮らしをしている民族が。そういう人に出会えれば、日本に連絡を取ってもらってすぐに戻れるんですが」
「そうだなあ」
 二人は遅くまで話をした。


   七

 日が昇り空が白々と明るくなってきた。法帆は鳥たちのさえずりとともに目を覚ました。よく眠れた。なんと深い眠りだったか。こんなに眠れたのはいつしかぶりだろう。上体を起こし、木に背中をもたれかかりながらしばらくボンヤリしていた。幸せな気持ちだった。新鮮な空気、植物たちが光合成してくれた搾りたての新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、それをフーとゆっくり吐き出すと、体にぬくもりが広がるのを感じた。周りにいた土着民たちも目を覚まし、白い靄のかかった涼しい大気の中、ゆっくりと動き出していた。
 法帆は水場に行った。すでに土着民たちは口をすすいだり、体を洗ったり、思い思いに沐浴をしていた。法帆も頭から水を浴びて汗を流した。
「ああ、さっぱりした」
 体の水滴を手で拭っていると、子供たちが手招きしてきた。彼らについていくと、木になっている赤い果実を摘むようだった。子供たちは歌を歌いながら楽しそうに果実を摘み、植物の蔓で編まれたカゴに入れていく。法帆は果実の一粒を味見してみたかったが、子供たちは誰一人として摘んだ果実を口にしてなかったので、何か決まりごとがあるのかもしれないと口に入れるのを我慢した。法帆も彼らを手伝い、おもに高いところにある果実は法帆が摘んだ。数本の木から果実を摘むと子供たちのカゴがいっぱいになった。多分これを皆んなで分け合うのだろう。
「あそこにも果物がなってるね。あれは食べられるのかな?」
 法帆がそう言ってその木に近付こうとすると、子供たちは「食べちゃいけない」いうゼスチャーをした。
「わかりました。食べません」
 すぐに法帆は引き返した。どこに何があるのか、何を食べてはいけないか、いつそれを収穫すればいいのか、この土地に生まれ育った彼らは自然の中で知識を身に着けている。伝統の中に生き、自然と共に逞しく生きる彼らを法帆は羨ましく思った。
 子供たちが集会所へ戻って行こうとしたとき、法帆はこの森をもっと散策しようと、一人で奥へ入っていこうとした。すると数人の少年少女が先回りして通せんぼし、「行っちゃダメ」とゼスチャーで警告してきた。なるほど勝手に人ン家をうろつき回っちゃいけないのと同じように、彼らの土地を部外者がうろつくのは失礼だ。それだけではなく、森の奥には危険な何かがあるのかも知れない。法帆は森の奥に行くことを諦めた。
「ーーさて、何をしようか」
 丸々自由な休日である。法帆は林を通り抜け、白い砂浜の海岸線に出た。目に飛び込んでくる青く広がる海は今日も新鮮な気持ちにさせてくれる。こんなところで過ごせるなんて、なんとありがたいことだろう。砂浜沿いのヤシの木を眺めると、土着民の男たちが何をするわけでなく木の下に静かに座っているのが見えた。集団でいるのではなく皆一人ずつバラバラである。何をしているのか? 何かの作業? まったくわからない。そういえば昨日、そういう彼らがいてくれたおかげで我々はすぐに救出されたのだ。
「ーー失礼します」
 法帆は一人の男性のそばに近づき、一礼合掌して砂浜に腰を下ろした。すると、その男性は手招きし、もっとそばに座れというようなことを伝えてきた。法帆はその男性と一メートルほど離れたところに座り直した。何か話をするのかと思いきや、彼は何も口を開かず、ただ無言で海を眺めていた。言葉を交わさなくとも場が気まずくなるわけでない。何も話さなくともわかり合えているという安心感があった。法帆も同じように黙って海を眺めた。波の音は単調であるが決して同じ音はない。寄せては返すその波の音は、過去も現在もそして未来も、その瞬間その瞬間、新たな音色を創造しつづけている。波の音を聞いているだけで脳が浄化されていくような気持ちがした。
「ん?」
 背後から音がしたので振り返ると、子供がカゴに入れた果物を持ってきてくれた。
「あ、どうも」
 両掌にいっぱいの果物をもらった。子供たちは土着民一人ひとりに配り回っているようだ。法帆は果物を口に含み咀嚼した。果実の持つ生命感いっぱいの野趣が口内いっぱいに広がり、生きているという実感、生かされているという宿命、「こんな大切なものを自分がいただいていいのだろか」という申し訳なさ、そんなことを想いながらプッと種を吐き出し、また果実を口に入れ咀嚼して種をプッと吐き出す。その動作を繰り返した。
 ふと目線を感じたので横を向くと、隣の男性が法帆の食べる様子を見つめていた。目線が合うと彼はニッと笑いかけてきたので、何の笑いだかわからなかったが、法帆もニッと笑い返した。男性はスッとまた正面を向き直り海に目をやった。法帆も正面を向き直り海を眺めながら、この男性の笑い、普段はほとんど感情を表に見せない彼らが一瞬微笑んだのは何だったのだろうと考えた。自分の何らかの感情が伝わったのだろうか、仲間として受け入れてくれた合図だったのだろうか、何だろう? 考えたがわからなかった。
「そろそろ・・・・」
 法帆は砂浜に置かれていた尺八を両手で持ち直し、細かくついた砂を息を吹きかけながらやさしく払った。ーー尺八を吹こう。大きな音を鳴らすと隣にいる人に迷惑そうだから、立ち上がって海岸線を歩き、誰もいなそうな木陰に場を移した。一人で尺八を吹きたい気持ちだった。昨日みたいに土着民たちが大勢集まってきたらどうしようかという気持ちもあったが尺八を吹いた。
ーーピーピーヒョロロー
 音色は勢いよく飛び出し宙を舞った。都会と違い大自然のこの空間、ここでは誰にも邪魔されず、四方八方どこにでも自由に飛んでいける。そういえば東京にいたころ、菊乃先生に「将来どんな生活をしたいですか?」と、訊ねられたことがあった。そのとき、
「海を眺めながらのんびりと尺八を吹いて暮らしていけたらいいですねえ」
 現実性のないことを言った覚えがある。先生はクスクスと笑われ、
「ノリ君ならそういう素敵な生活ができると思いますよ」
 まっすぐな目を向けてそう言われた。このときもそうだが、先生は何事も必ず肯定して受け止めてくださった。いつもよき理解者であり、困ったときには必ず手助けしてくださる菩薩のような人だった。ただ一度だけ、「マグロ漁船に乗る」と告げたときだけ真っ向から否定された。それ以外、先生は自分の愚かさを含め、すべてを受け入れてくださった。やさしかった。とにかくやさしかった。大きな愛情で包んでくださった。それは上っ面の薄情な演技ではなく、無意識の心の奥の奥から溢れ出るものだった。
 海を眺めながらのんびりと尺八を吹く生活、そのとき出た言葉が現実にそうなった。今こうして海を眺めながら尺八を吹いている。なんという因縁。なんという贅沢。この生活に何か欠落があるとしたら、やっぱり、先生に会いたい。先生に尺八を聞いてもらいたい。先生と尺八の二重奏をしたい。
「あらあ、法帆さんはどうしてそんなに上手に吹けるんですか」
 あるとき菊乃先生は目を丸くしておっしゃった。お世辞には聞こえなかった。心からそうおっしゃっているように聞こえた。先生に尺八を習い一年ほどしてからのことである。自分の今までの人生、何をしても誰からも褒められたことがなかったので本当に嬉しかった。嬉しかったというより膝頭が震えた。
「すみません。お世辞でもそう言っていただけるとありがたいです」
 恐縮してこたえた。
「お世辞ではありませんよ。音がいいです。音に嫌味がありません。天にも上っていけそうです。すごですわ。わたしも見習いたいです」
「いや、いや、ぼくは先生に教えていただいたことをただ真似しているだけです。先生のような演奏ができるよう、もっと努力します」
 法帆がひれ伏すように頭を下げると、先生はやさしい微笑みを向け、
「法帆さんは本当に真面目な方なんですね」
 とおっしゃった。人から「怠け者」とはよく言われてきたが、「真面目」と言われたのもこのときが初めてだった。先生はそういう何気ない言葉によって、自分の病んだ心を知らず知らずのうちに手当してくださった。
 先生と出会ったのは大学生のときだった。二浪してようやく大学に入り、地方の田舎から大都会東京にやってきた。地方の生活は人間関係が窮屈だったし、両親とも折り合いが悪かったので、どうしても東京に出たかった。そんなふうに地方から逃げるように東京に出てきたわけだが、東京の水にもまったく合わなかった。電車に乗ると人の多さにお腹が痛くなった。騒々しい街には虚しさを感じた。大学の授業はツマらなかった。一つ学んだことは、すべては金、金ですべてが手に入る、そういう幻想を抱いている人々の集まり、それが東京だった。どこにも安らぎを見出だせず、困惑する毎日がつづいていた。ヒョロリと人より頭一つ分背が高く注目を浴びるが、その実、不器用で何もできず恥ずかしい思いをする。社会のどこにも居場所を見出せず孤独になっていた。そんな暗い生活から救ってくれたのが尺八だった。
 大学も休みがちになり、日がな一日、無目的に街を歩き回るのが日課となった。知らない駅に下り立ち、知らない町をただひたすら歩く。何の意味もない、何の生産性もない、そんなことには勤勉になれた。軒先に咲く花を立ち止まって眺める。雨上がりの湿った壁に張り付くカタツムリを観察する。ゴミを漁るカラスが何を食べているか研究する――。地方の町では日中から若い者がブラブラ歩いていると「変な人」として見られ、近所で悪評を立てられるが、都会はそれがなかった。そんな人間関係の希薄さだけが都会のよさに思えた。町の散策には興味が尽きなかった。
 そんなある日のこと、いつものように大学には足を向けず、知らない町をウロウロしていると、心に響く不思議な音色が聞こえてきた。
「何だろう?」
 音の正体がわからなかった。その音の先を耳をそばだててたどっていくと、一軒の昭和の古民家から聞こえてくるようだった。長身なので背伸びすれば平垣から中庭が覗ける。覗いてみると、縁側の奥の座敷で和服を着たきれいな女性が尺八を吹いていた。
「これが尺八の音かあ・・・・」
 尺八の音を生できちんと聞いたのはこのときが初めてだった。普段音楽の演奏を聞くとすぐに退屈になってしまうのだが、このときは不自然な体勢で盗み聞きしているというのに、その音を恍惚となって聞き入った。音が純粋だった。苔の生えた岩肌から一滴一滴したたる澄んだ岩清水のような音だった。そしてこの音を奏でる和服の女性、凛としたその容姿の輪郭から気高い気がうっすら発光しているように見えた。時代を超えて、過去でもあり、未来でもあり、もちろん現在でもある、そんな時代の枠に収まらない高貴なたたずまいをしていた。
「ハアー」
 法帆は圧倒された気持ちになった。
 演奏が終わり、女性は静かに尺八を床に置いた。平垣から顔を出す法帆におもむろに目を向けた。目が合ったままシンと静寂となった。法帆はハッと気づいた。こんなところで覗き見していて不審者と思われている。「すみません、失礼しました」と口から言葉が出そうになった瞬間、
「興味がおありでしたら、どうぞお上がりください」
 と向こうからやさしく声をかけてくださった。
「へっ」
 ビックリした。どうしてこんな自分に? 盗み聞きしているいかがわしい男に? 普段なら羞恥のあまり逃げるように立ち去るところだが、このときは、
「はい」
 一片の迷いもなく返事をした。女性は立ち上がり、玄関を開けて出迎えてくださった。それが菊乃先生との出会いだった。玄関口に『尺八教室』と看板が出ていた。この看板を見た瞬間、話を聞く前に、ここで尺八を習おうと覚悟が決まった。優柔不断で何事も即決することができない性格だったが、このときは目の前にパッと道が開けた。
「ーーおい、ノッポ」
 工事現場の重機のような声を耳にし、法帆はハッと我に返った。
「ノッポ、探したぞ」
 上半身裸の大山が仁王立ちしてそう言い、法帆の隣にドスンと腰を下ろした。
「ノッポ、お前何をボーッとしてるんだ。ずいぶん探したぞ」
「は、はい」
 ぬくもりの妄想からチクチクする現実に戻された。尺八を吹いていたつもりだったが、いつの間にか妄想の世界に浸っていたようである。
「お前、朝飯食べたか?」
「ええ、子供たちが持ってきてくれました」
「あ、そうか。俺のところにも持ってきてくれたよ。この島の人は何も言わないけどやさしいなあ」
「そうですねえ」
「大人しくしていれば飯をいただけるようだから、ここでしばらく面倒を見てもらおう。助けが来るまでな」
「ええ・・・・」
「お前はよくやってるよ。感心した。お前のおかげでこの島の土着民と仲間になれたんだからな」
「ええ・・・・」
 背後に人の気配がしたので振り返ると、少年が一人、真後ろにしゃがみ込みこちらをじっと見ていた。
「わっ、ビックリしたーー」大山が大きな声を出した。「こんなところにいたのか坊や、ハハハ」
 少年は大きな黒い瞳でこちらを観察している。その目を見て法帆は気づいた。
「あ、この子は、昨日、村まで案内してくれた子ですよ」
「お、そうか、この子か。しかし、お前スゴイな。彼らの顔の識別ができるのか。俺は土着民を見ても、誰が誰だかさっぱりわからんよ」
「ぼくもまだよくわかりません」
「ノッポ、お前はこの島の土着民に好かれているから、こうしてそばに寄ってくるんだな。俺と小塚のところには誰も寄ってこない、ハハハ」
「何か訴えたいことがあるんでしょうか」
「何だろうな。言葉が通じないからさっぱりわからんな。あ、そうだ。さっきな、島を散策しようと、森に入っていこうとしたんだ。そしたら、子供たちに『通せんぼ』されて、入っちゃいけないっていうようなことを言われたぞ」
「ぼくもそうでした」
「そうか、ノッポもか。それでも諦めず、いろんなルートから森の奥へ入ろうとしたら、今度は男に止められた。何だろうな。タブーがあるのかなあ。ーーなあ、坊や」
 大山は愛想笑いを浮かべ少年に声をかけたが、少年は何も反応をしなかった。
「でも、この子は聡明そうな顔をしていますね」
「確かにそうだなあ、かわいらしい・・・・。そうだ、この子に、ここの現地語を習うというのはどうだ。少しづつでも言葉を習えば彼らとコミュニケーションがとれるぞ」
「そうですね・・・・」
 大山は少年に日本語で話しかけた。
「私は大山、彼はノッポ、もうひとりいる男が小塚。で、君の名前は?」
 少年は反応しなかった。
「わからないかあ・・・・。名前がないわけじゃないだろ。名前? ネーム?」
「・・・・・・」
「駄目か・・・・。この民族は皆んなボーッとしていて、何か馬鹿みたいなんだよなあ。数字なら言えるかなあ」
 大山は落ち葉を拾い、一枚、二枚、三枚と並べて、
「これはイチ、これは二、これは三ーー」
 と数字を説明したが、少年は困惑した表情をした。
「数字がないわけじゃないだろ。どうして通じないかなあ。ノッポお前も聞いてみてくれ」
「は、はいーー」ノッポは指を一本立ててイチ、二本立てて二、三本立ててサン・・・・と言うと、少年はそれを見ながら、
「イチ、二、サンーー」
 と性格な発音で繰り返した。
「お?」大山は驚いた表情を見せた。「この子は言語センスがいいなあ」
「そういえば、昨日も、ぼくが『お腹がすいた』と言ったら、この子はそれをすぐにリピートしましたよ」
「そうなのか。そうだ、我々が現地語を習うより、彼に日本語を教えたほうが早いんじゃないか。日本語を覚えさせて通訳してもらえばいいじゃないか」
「そうですね」
「坊や、坊や、名前は何だっけ? そうか、それが通じないんだ。だったらこの子に俺たちが名前をつけたらいいんだ。そうだなあ、体が小さくて目が大きくて、よく働てくれそうだから、『マメ』なんてどうだ」
「マメ君ですか。この子に合っているような気がします」
「だろ? これから時間があったらマメに英才教育を施そう。ーー賢くなってくれよ」
 大山がマメの頭を手で撫でようとしたら、マメはパッと手を払い除け、駆け出すように去っていった。
「ああ、行っちゃった」
「気安く触ると怒るのかな。ま、いろいろ文化の壁はあるだろうが、少しずつ教え込んでいこう。この島のことがもっとわかれば脱出もしやすくなるだろうからな」
 大山は一つの目標ができ満足そうな顔をした。


   八
 
 小塚はこの島に来てから洞窟で寝てばかりいた。何もする気が湧かない。毎日、ボンヤリと土着民の女たちの日常生活を眺めていた。彼女たちは、すり鉢に木の実か何かを入れて棒ですりつぶしていたり、植物の蔓を編んだり、乳幼児の世話をしていたりする。作業をする際は必ず歌を歌っている。しかしながら、小塚は強度の近眼なのでそれらの光景もぼやけてしか見えなかった。「眼鏡があったらもっと行動的になれるのになあ」、失った眼鏡のことが頭から離れなかった。
「ハアーア」
 大きな溜息をついた。どうしてこんなことになってしまったのか。夢なら覚めて欲しい。どうしてもこの現実を認めたくなかった。若くして「大黒丸」の副船長という地位に就き、責任ある仕事を受け持っていた。収入は同世代のサラリーマンに比べ三倍はあった。船の責任者のほとんどが年配者で、近い将来次々に退職していくことを考えれば、三十代半ばには最高責任者となり、収入はさらに二倍以上になっただろう。それが突発的な嵐の事故ですべてを失い、こんな何もない島で原始生活をしている。
「クソッ」
 この島に到着後、しばらくは頭が混乱していて思考が回らなかった。しかし数日が経過し、ようやく現在おかれている状況が冷静に理解できるようになってきた。
ーーこの島には原始生活の土着民しかいないのか。この場所は太平洋のどの辺だろう。難破した地点からそう離れていないだろうから、あのときの位置は・・・・。
 難破する直前の海図を思い出しながら考えた。女たちの呑気そうな歌声が苛立ちを誘う。
「馬鹿は気楽でいいなあ」
 小さく悪態をついた。何度か女たちに声をかけ一緒に手伝おうとしたこともあるが、ことごとく無視された。しかし法帆はそんな女たちに混ざり作業をしていることもある。
ーーどうしてノッポとだけ仲良くするんだ。馬鹿は馬鹿と気が合うのか。
 小塚は法帆と同世代であるが、直接会話らしい会話をしたことがない。法帆の方からも話しかけてこないし、小塚も話しかけたくない。話す共通の話題があるとは思えなかったし、それ以前に無能そうな法帆に嫌悪のようなものを感じていた。というか、一段劣った話すに値しない奴だと思っていた。船の上では新人で下僕のような存在だったのに、この島では信頼を勝ち得ているように見える。そういったことも嫉妬心に絡んで忌々しく感じていた。
ーーこうして寝ていても不健康だ。ぼちぼち島を探検するか。
 心の混乱も落ち着いてきたこともあって、この日は洞窟から海岸線に出た。真昼の太陽の光が海に反射して眩しい。海岸線の端は崖になっており、そこから奥へいくのは不可能である。長い海岸線を端から端へ、北から南へ白い砂浜の上を歩いてみた。じりじり照りつける太陽は体力を消耗させ憎々しく感じる。耳につんざくように響く海鳥の声もやかましい。
 はるばる海岸線を南の突き当りまでやってきたが、こっちも崖になっていてその奥が見えなかった。島の東側はどうなっているのか。この島の土着民がおもに利用している水場や林は島の西側の領域だが、彼らは半分も使っていないように見える。島の反対側に別の種族の土着民が住んでいるなんてことはないだろうか。行ってみる価値はありそうだ。もしかしたら島の東側へ行けば、他の島が見えることだって考えられるし。
 小塚は今度は海岸線から林をかき分け奥へ入っていった。草木が繁茂していて歩きにくいが奥へ進めないことはない。すると背後から突然、腕を冷たい手で握られた。
「ウワッ!」
 びっくりして腕を払い振り返った。土着民の男がどこからついてきたのか、無言で小塚を見つめている。
「何だ? 何か用か? オッサン」
 目が悪いので男の表情は判然としないが大きな目で睨みつけているように見える。男は声を一切出さないが何か不気味な感じだ。「これ以上奥へ行くな」ということなのか。
「わかった、わかったよ、ゴメンゴメン」
 諦めてもときた道を歩き、海岸線に戻った。
ーー何だろう。アイツ、いつの間につけてきたんだろう。
 小塚は、突然男が出てきた驚きで、まだ胸がドキドキしていた。周囲をキョロキョロと見回したが誰もいない。目が悪いから誰もいないように見えるのか。もう一度、別の経路から林の中へ入っていった。しばらく歩いていると今度は正面から男が現れ、小塚の進路を塞いだ。
「あっ、ゴメンゴメン」
 このときも男は無言だったが目線が鋭かったので、すぐに引き返した。こんな林の中、誰もいそうにないように思えるが、実は土着民がたくさん散らばっているのか。なぜ、彼らは自分が奥へ行くことを阻止するのか。行動が監視されているようで気持ち悪かった。
 また海岸線に出てきた。砂浜は林の中と違い直射日光が照りつけて暑い。海に背を向け、島の外観をあらためて観察すると、森の奥は山となっている。山を横切りながら向こう側に行くこともできそうだが、それは大変そうだから、やはり山の裾の両端から向こう側に行きたい。両端は崖になっているから進む経路はある程度限られている。
 海岸線を歩いていると、大山が木陰の下でヤシの実を剥く作業している姿が見えた。
「船長ーー」小塚は声をかけた。「何してますか?」
「ヤシの実から水が出てくるだろ。それを飲もうと思うんだけど、なかなか剥くのが難しくてな」
 大山は上半身裸で汗を流しながら、岩にヤシの実をぶつけたり、石でこすったりしながら必死で剥こうとしていた。
「何か道具があれば簡単なんでしょうけどね」
「そうだなあ。とにかく刃物が欲しいなあーー」大山は手を止めて小塚の顔を見つめた。「お前が海に出てくるのは珍しいなあ。出てくる気になったか」
「洞窟にいるのも退屈になってきまして」
 小塚が笑いながら言った。
「そうか、気持ちが変わったか。いつまでも眼鏡がないことをウジウジ考えていてもしょうがないからな。出たほうが気持ちも晴れるだろ?」
「ええ、まあーー」小塚は苦笑いをした。「今ね、島のことをもっと研究しようと思って森の奥へ入ろうとしたんです。でも、土着民の男がどこからともなく現れて止められました。何なんでしょう?」
「ハハハ、そうか。俺もそうだった。ノッポもそう言ってた。森の奥に入ると駄目みたいだな」
「何なんですか、あれは」
「さあ、何だろうなあ」
「行くなと言われると余計行きたくなりますね。絶対何か秘密があるんだ」
「おい、小塚ーー」大山は厳しい口調になった。「あんまり土着民を怒らすようなことはするなよ。俺たちはここで毎日食わせてもらってる身分なんだからな」
「動物のエサみたいな食い物ですがね」
 小塚が鼻で笑ってこたえた。
「おい、小塚ーー」大山の声が大きくなった。「恩知らずなこと言うな。もし彼らがいなくて自分たちだけだったら、どうだ? とっくに餓死しているんだぞ。何度も言うが、俺達は養ってもらっている立場だ。彼らが分け与えてくれるものは感謝していただき、彼らには礼儀正しく振るまわないといけないだろ」
「そりゃあ、そうですね」
 小塚は大山の説教が鬱陶しく感じ、この場から離れようとすると、子供たちが後ろから自分たちの様子を眺めていることに気づいた。
「いつの間にか子供がいますね」
「あ、そうそうーー」大山が思い出したように言った。「子供たちが寄ってくると日本語を教育してやるんだ」
「そうなんですか」
「彼らの言葉を覚えるのは大変だろ。俺たちの頭じゃな。でも、この子たちは素直で物覚えがよさそうなんだ。ーーな、坊やたち」
 大山が声をかけると、子供たちは警戒して後退りした。
「まだ、なついていませんね」
「こちらから働きかけると逃げていっちゃうんだよなあ。教育ってやつはなかなか難しい。でも、この中にいるかな? マメ」
 大山はマメを探したがいないようだった。
「マメはいないか。彼は一番頭がいい子なんだが。正確に日本語をリピートできるんだ」
「本当ですか」
「ああ、本当だ。他の子はできるのかな? 坊やたち、これはココナッツ」
 大山がココナッツを指さして言うと、子供たちが、
「ココナッツ」
 とリピートした。
「すごい」
 小塚は目を大きくした。
「これは木」
「キ」
「これは砂」
「スナ」
「私は大山」
「オオヤマ」
「この人は小塚」
「コヅカ」
 子供たちは楽しそうにリピートする。
「スゴイですね。大人たち、特に男たちは日がな一日、ブラブラしているか、ボンヤリしているかで無能そうですが、子供たちは賢いですね」
「ああ、そうなんだ。子供たちはよく働くしな。ーーな、坊やたち、もっと勉強しような」
 大山が子供の一人を触ろうとすると、サッと身をかわして全員逃げていった。
「行っちゃった」
「そう、そう、触るとダメなんだよ。強引に行き過ぎた。失敗した」
 大山は悔しそうな表情をした。
「でも数日間だけで、これだけ進歩すれば上等ですよ」
「ノッポも多分、教えてくれていると思う」
「土着民は頭に入っている情報量が少ないから、覚えるのが早いかも知れませんね。日本語を習得するなんて遠い道のりに思えますが、おもしろいことを思いつきましたね」
「少しずつだ。少しずつでいいんだ。こうやってコミュニケーションを図り、地道に彼らと信頼関係を築いてけたらいいと思う」
「すばらしい」
 小塚は、自分一人だけが頑なにこの島を拒絶していることに気づいた。ノッポはもちろん土着民たちと仲良くし、大山もこの環境に適応しようと努力している。自分はサバイバルもできないし、目もよく見えないということで自暴自棄になっていた。しかし、この現実を受け入れ、自分自身で課題を見つけ、何か少しでも努力しなければいけなかった。
ーーさあ、何をすればいいか。
 小塚は、隣で汗を流してヤシの実を剥いている大山を眺めながら思った。


   九

 島は毎日が晴天だった。昨日という穏やかな日は今日もそっくりそのまま遺伝され穏やかな日となった。法帆も毎日同じリズムで生活していた。日が昇り明るくなったら起き、日が沈み暗くなったら寝る。朝は子供たちと木の実を摘んだり、芋を掘ったり、薪を集めたりして労働し、昼は一人海を眺めながら尺八を吹いた。日本で生活していたときは規則正しい生活は苦手だった。朝は目が覚めず惰眠を貪り、夜は寝つけず夜更かしをした。しかしこの島では自然のリズムと体が調和し、努力しなくとも規則正しい生活をしている。
 そして土着民社会とも自然と馴染むことができた。日本ではどこの組織にいても、それが学校であれ会社であれ家族であっても、その組織内にいることに違和感を覚え、無理を強いられた。そんな駄目だった自分がここでは自然体でいられ、誰に非難されるわけでない。収穫したものは分け合い、食べる前には歌を歌いダンスを踊る。誰かが誰かを強いるわけではなく、個人個人が好き勝手に振る舞っているように見えるが、全体として協調し助け合っている。そして、何より彼らは、人間が自然を独占する生き方ではなく、人間と自然が調和した生き方をしている。
 土着民は、この島のことを、自然のことを、そして自然との付き合い方をよく知っていた。彼らは決して自然を荒らさず、自然からの恵みを受け取っていた。子供たちが短時間で海産物を収穫するのを見た法帆は、最初、単にこの島は豊穣なのだと思っていた。しかしいざ自分でやってみると、魚の一匹も貝の一つも捕ることはできなかった。彼らは魚を捕るというより、魚の方から捕られに寄ってくるように見えた。それは魚を捕る技術や知識の問題ではないように思えた。それは技術や知識以上の何かを持っているように見えた。
 この日も法帆は木陰の下、砂浜の上に座り海を眺めていた。気が向いたら尺八を吹くつもりである。いつも不思議に思うことだが、尺八を吹き終わって周囲を見回すと、必ず土着民数人が取り囲むように座っている。今は一人だが、知らないうちに誰かが来ている。しかし彼らは演奏の邪魔を決してしない。邪魔をしないどころか、そばにいてくれると愉しい気分にさせてくれる。彼らは他者の意識の深いところに入り込み、感情を同調させる能力があるようだ。演奏を聞いてくれ愉しい気分にさせてくれる人、そんな人は世界中で菊乃先生だけだと思っていたが、この島では当たり前にその能力があるようだ。
 菊乃先生にこの島の土着民たちや島での生活のことを話したら、どれほど喜んで聞いてくださるだろう。しかし、ここからは手紙も出せず、もちろんメールもできない。もしかしたら先生は自分がもう死んでいると思っているかもしれない。悲しんでいらっしゃるかしら。しかし自分は生きている。しかも充実して生きている。尺八の音は空を飛び、先生の耳に届いていないだろうか。いや、必ず、先生の耳に自分の尺八の音が伝わっていると思う。先生はそういう聞く力のある人だ。
 尺八を口に当てたまま、しばらく気持ちを鎮めていた。雑念の濃度が薄まり、呼吸が整ったのを感じ、ゆっくりと尺八にフーと息を吹きかけた。音色が姿を現し、大地と空へ吸収されるように広がっていく。いつもは音色に意識が憑依し、自由にそして大胆に空を飛び回るのだが、今日は菊乃先生の顔がいつまでも離れず、音色は身の回りをユラユラと彷徨った。
「ーーよかったです」
 先生は自分の演奏にたいし必ず褒めてくださった。悪かったと言われた覚えがない。教えるときも多くは語らず、適切なポイントだけをゆっくりとした口調で話された。長い文体で考えて話さねばならないときは、一言一言の言葉に間を置き、自分のペースで話された。決して感情で話さず、決まりきったフレーズに落とし込まず、意識の深いところから言葉を掘り出されているようだった。間があきすぎて、「あら、何を話していたんでしたっけ」と話の文脈から逸脱してしまうというお茶目な一面も時折見せたが、多分、意識の深くの複雑な迷宮に入りすぎて話の入り口を見失ってしまったのだろう。
 そして先生は尺八だけではなく竪琴の名人でもあった。尺八がある程度弾けるようになった段階のとき、先生の竪琴と二重奏をしたことがある。先生の琴の音が、よちよち歩きの自分の尺八の手を引っ張ってくれ、高く自由な世界に連れて行ってくれた。先生から尺八を習っている時間は、普段の時間感覚、物理的な時間を超えて、違う次元の濃縮された時間の中にいるような不思議な気持ちになった。
「ーーフフフ」
 演奏中に先生がお笑いになるときがある。そういうときは自分の演奏に雑念が混じって集中していないときである。先生の「フフフ」という笑い声が聞こえると心が動揺し、自分もなぜかおかしくなり、「フフフ」と笑いがこみ上げて吹きつづけられなくなる。先生は他人の心の中へスッと入り込む達人であった。すべて自分の心の中を見透かしているようだった。でも、なぜか、先生に見透かされても嫌な気持ちはしなかった。いや、むしろ心地よさを感じた。言葉で説教されなくても、自分の演奏のどこが悪かったかすぐに気づかされた。
「フフフ」
 笑い声が聞こえた。先生? え? そんなわけがない。法帆は尺八を吹きつづけた。
「フフフ」
 やっぱり笑い声が聞こえた。法帆は尺八を吹くのを止め、青く広がる海に目をやった。海面に光がキラキラ反射して眩しい。もしかして菊乃先生に尺八の音色が届いたのだろうか。そうであったら嬉しいのだが・・・・。
「いい音ですね」
 今度ははっきり声が聞こえた。幻聴ではない。船長の声でも小塚さんの声でもない。じゃあ、誰だ? 心臓が鼓動を速めた。ゆっくりと背後を振り向くと、そこに小さな体のマメがしゃがみ込んでいた。
「あ、マメ・・・・」法帆はマメの目をまじまじと見つめた。「今、マメがしゃべったの?」
 恐る恐る訊いてみた。
「ええ、まだうまくは話せませんがね」
 マメは小さく微笑んで大人びた口調で言った。
「どうして、いつの間に?」
 法帆は驚いてマメの目を覗き込むように訊ねた。
「あなたたちの言語体系はそれほど難解じゃありませんから」
 マメは正確な日本語で流暢に返した。
「え・・・・」絶句した。目の前にいる少年が外国人という感じがしない。もっといえば少年という感じがしない。軽々しく「マメ」などと敬称なしで話すのは失礼に思えた。「ぼくたちがこの島に来て、どれだけ日が経ったんでしょう? 一ヶ月、二ヶ月? そんな短い期間にどうやって習得したんですか」
「聞いていれば大体わかりますよ。君たちが使う数字という概念は、僕たちは持っていませんからなかなかわかりにくいですがね」
「数字という概念? 一、二、三という数ですか」
「ええ、それです。それに君たちは時間という概念がありますね。今、一ヶ月と言いましたね。一ヶ月とは?」
「一ヶ月ですか・・・・」法帆はどう言えば相手に理解してもらえるかよく考え、噛み砕くように説明した。「地球が太陽の周りを一周すると一年で、一年は三百六十五日。一日は地球が一回転する時間で二十四時間、三十日で約一ヶ月でしょうか」
「君たちはいろいろ区切りたがるんですね」
 マメは悪戯っぽく笑って言った。
「時間がないのなら、自分の歳も知らないんですか」
「生まれてから何年っていうことですか?」
「ええ」
「そんなこと知ってどうするんですか」
「知ってどうするって言われましても・・・・」
 法帆は、今まで考えたこともなかった根源的な問いに何をどうこたえればいいか混乱した。
「数字がないということは、この島の人口も知らないんですか」
「人口とは人の数ですか」
「ええ」
「知ってどうするんですか」
「はあ・・・・」
 法帆は前々からこの島のことについてたくさん知りたいことがあったが、それが知れるチャンスが訪れるなんて夢にも思っていなかった。何から訊けばいいだろう。彼は自分よりも数段知能が高そうだし、常識的な前提条件がまったく違っているようだから、訊いても今みたいに会話が空回りするだけかもしれない。法帆はマメの大きな目を見つめながら沈黙した。
「それ、その楽器は何という楽器ですか」
 マメが訊いてきた。
「これは尺八といいます。竹から作られています」
「ちょっといいですか」
 マメが手を差し伸ばしてきた。普段法帆は他人にこの尺八、菊乃先生から頂いた大切な尺八を絶対誰にも触らせたくなかった。しかしマメには独特の高貴な存在感があり、「どうぞ」と迷いなく渡した。
「いい楽器ですね」
 マメは慎重に尺八を手にするとしばらく見つめ、丁寧な手つきで返した。
「その楽器は波の音がしますね」
「波の音ですか。そう聞こえますか」
「ええ、そう聞こえます。もっといえば自然の音、風の音とか雨の音とか鳥の声とかそんな音に聞こえます」
「なるほど」
 法帆は涙が出るほど嬉しかった。彼は音の本質を見抜いている。二人はしばらく沈黙した。
「ーー大地がささやいていますね」
 マメは突然よくわからないことを言った。
「どういうことですか?」
 マメは何もこたえずスッと立ち上がり、無言で林の中へ歩き去って行った。法帆はマメの後ろ姿が視界から消えるまでじっと見続けた。マメの後ろ姿は、いま会話していた話の執着が何もないように見えた。
「彼は何者なんだろう・・・・」
 法帆は一人残され、狐につままれたような気持ちになった。


   十

 この日、昼が過ぎてから突風が吹いた。高い木の幹がしなり、落ち葉が舞った。
「雨が降りそうだぞ」
 大山が小塚に声をかけた。空を見上げると空全体が白い雲に覆われ、南の空には威圧感のある黒い雲が見える。二人は海岸線から集会所の洞窟へ足早に移動した。移動している際、獅子が唸るような雷の音も聞こえてきた。
「皆んな、集まってますね」
 土着民の特に女、子供たちはすでに洞窟の中にいた。
「一、二、三、四ーー」大山は洞窟に集まっている土着民の数を数えた。「五十三人か。半分か」
「この島の土着民は全員で何人いるんですか」
 小塚が訊ねた。
「それがよくわからないんだーー」大山が首を傾げながら言った。「晩飯のとき、毎日皆んな集まるだろ。何回か数えたことがあるんだが、数える日によって数が違うんだ。八十何人のときもあれば、九十何人のときもある。七十何人のときもあった」
「ということは、ご飯を食べに来ていない住民もいるんですね」
「そういうことだな」
「何を食べてるんでしょう?」
「わからんなあ。森の中でバナナでも見つけて食べてるのかなあ。それだけでは腹も減るだろうに」
 ポツポツと雨が落ちてきたかと思ったら、すぐにそれが水道の蛇口が壊れたかのような豪雨となった。
「いやあ、すごい雨ですねえ」
「毎日毎日晴ればかりだったからおかしいと思ったんだ。その分を取り返すように降るんだろうな」
「そうですね。降らないと川の水も干上がってしまいますからね」
 大粒の雨が降りしきる中、男たちも一人二人と雨の中をゆっくりと歩いてきた。
「彼らは濡れても悠長なもんですねえ」
「そうだなあ。雨だといって走ったりしない。考えてみりゃあ、服も着てないし、濡れたってすぐ乾くしな」
 そんな中、法帆がずぶ濡れになりながらゆっくり歩いてきた。服を着ておらず、土着民と同じように腰蓑をつけている。それを見た小塚が笑いながら言った。
「アイツ、完全に土着化してるなあ。身なりも行動も」
「そうだなあ。何ら違和感がない」
 大山も笑いながら言った。
「ノッポ、早く来いよ」
 大山が大きな声を出し手招きしたが、法帆は歩速を変えずノシノシと大地を踏みしめるように歩いている。
「ーーいやあ、濡れました」
 法帆が洞窟に入ってくると、集まっている土着民たちも法帆の姿を見て、何やら笑いながらしゃべりだした。ユラユラ踊りだす者もいる。
「ノッポ、お前は人気者だな。皆んな歓迎してるぜ」
「そうですか・・・・」
 法帆は恥ずかしそうに下を向いて照れ笑いをした。
「で、何だその格好は?」
「今朝、女性たちにこっちの方が快適だろうって、この腰蓑を渡されました。風通しが良さそうなので着てみました」
「風通しがいいも何もほとんど裸だから、そりゃそうだろ」
 小塚は嘲るように言った。
「それ、いいなあーー」大山は法帆の腰蓑を羨ましそうに手で触りながら言った。「お前は人気者でいいなあ。俺たちも欲しいよな、この腰蓑。な、小塚」
「いや、ぼくはいいですよ」
 小塚は苦笑いしながら否定した。
「何を恥ずかしがってるんだ。こんな同じズボン毎日履いていたら、すぐにボロボロになるだろ」
「ま、そうですけど」
「な、ノッポ」
「ええ・・・・、マメさんに言えば、何とかしてくれるんじゃないですか」
「マメさん? ああマメか。最近見てないが、アイツいるか」
「ぼくはいつも顔を合わせますが」
「そうか、お前になついているんだな。ーーどうだ、マメの日本語の学習は進んでいるか?」
「進んでいるも何も・・・・」
「お前のことだから何にも教えちゃいないんだろ。お前は自分勝手に尺八を吹いているだけだろうからな。面倒くさくともな、彼らとの距離を近づけるためにも、一つ一つ・・・・」
「せ、船長ーー」法帆は大山の説教に遠慮がちに割り込んだ。「もうペラペラです」
「一つ一つ、基本的なことから教えてやらないと・・・・。ん? ペラペラ?」
 大山は訝しげに法帆の顔を見つめた。
「ペラペラってどの程度だ?」
「ぼくよりも上手に話します」
「ノッポより上手に? ハハハハ、そりゃスゴイな・・・」笑った大山はキッと表情を変えた。「馬鹿野郎、そんなわけないだろ。冗談も休み休み言え」
「はあ・・・・」
 法帆は大山から目を逸らし黙って下を向いた。周りにいた子供たちが大山の言葉を聞き、
「バカヤロウ、バカヤロウ」
 オウム返しした。
「こりゃいかんーー」大山は苦笑いをした。「きちんと言葉を選んで話さなきゃ、悪い影響を与えちゃうな」
「コリャイカン、コリャイカン」
 子供たちは囃すようにそう言いながら、三人から離れていった。
「何だなあ、この島の子供は利発そうなのに、大人の、特に男たちはてんで駄目だ。毎日毎日ボーッと海ばかり眺めているから、頭の中が錆びついてしまって無気力になるんだろうな」
 大山がそう言うと、
「大人たちはボーッとしているわけじゃありませんよ。瞑想しているんです」
「ん?」
 高身長の法帆の足元に小さな少年が立っていた。
「今、君がしゃべったのか?」
「ええ、そうですけど」
 大山と小塚は体をのけ反るようにして驚いた。
「だから、彼はペラペラなんです」
 法帆がマメを紹介するように言った。
「君がマメ君か。そうか、そうか、マメ君か・・・・」
 大山は頭が混乱して何を話せばいいかわからなくなった。
「瞑想って、どういうことなの?」
 小塚がマメを試すように言った。
「瞑想っていろんな意味があると思います。例えば、心を鎮めたり、頭の中を整理したり、思索を深めたりーー、そうすることによって、究極的には理性の殻の向こう、無意識の殻の向こう、個体性の殻の向こうにある、無を体感するためにあるんじゃないですか」
 マメは平然として言った。
「は、はあ・・・・」
 小塚は圧倒され、次に返す言葉が何も出てこなかった。
「天才だーー」大山は呟くように言った。「この辺鄙な島にこんな天才が眠っていたとは」
「僕なんか大人たちの知性に比べたらまだまだですよ。大人たちは言語外で意思の疎通をしていますから」
 マメが言った。
「言語外で意思の疎通・・・・」
 大山は唖然としてマメの顔を見つめた。
「ぼくたちは貴方のことをマメと呼んでいますが、本名は何なんですか?」
 法帆がマメに訊ねた。
「特に名前なんてありません」
「えっ、名前がない・・・・。どうして・・・・」
 日本人三人は言葉を詰まらせた。
「名前をつけると個体意識が強くなるからつけないんじゃないですか」
 マメはさも当前といった口調で言った。
「わからん、さっぱりわからんーー」大山が顔を傾げて言った。「名前がなかったら不便じゃないかい? だったらどうやってお互いを呼んでるの?」
「呼ばなくても見ればわかります。わからなければ、子供とか女とか男でわかるじゃないですか」
「それだけじゃ、誰を指しているかわからないじゃないか」
「他に言葉を付け足せばいいじゃないですか。背が高い、背が低い、デブ、痩せてる、ヒゲ、ハゲ、声が高い、声が低い、目が大きい、耳が大きいーー、何でもあります」
「そうか・・・・、そんな文化もあるのか。変な文化だなあ」
 大山は呆れたように口を歪めて笑った。
「じゃあ、あれは何か意味があるの?」小塚が、普段の生活の中で疑問に思っていたことを訊ねた。「ご飯の前とかに歌ったり、踊ったりするよね。あれは?」
「神々との交流のことですか?」
「神々との交流・・・・」
「我々は神々の力がなしに生きていけませんから、感謝と畏敬の気持ちを神々に捧げています」
「神々って、君たちは神様が実在しているって真剣に思っているの?」
「あなたは、『いない』という信仰なんですか」
「『いない』という信仰・・・・」小塚はその表現に苦笑した。「じゃあ、神は実際、君たちの目に見えるの?」
「現象となって見えることもありますが、普段は感じています」
「感じるねえ・・・・。そんな見えないものに縛られるって窮屈なことだよね」
「縛られていません。むしろエゴから解放してくれます」
「そんなことを言ってるからテクノロジーが未発達なんだな」
「テクノロジーを使えば人は幸せになれ、持続ある社会が作れると思っているんですか」
「使わないよりはマシだろ」
 小塚は子供と話しているという気持ちが消え、感情を表に出して言った。
「じゃあ、マメ君ーー」大山が真剣な表情で言った。「俺達はテクノロジーなしで、どうやって国に帰ったらいいんだい?」
「神様に祈ってください」
 マメはそう言うと、ちらっと洞窟の外を眺めた。雨は一時のスコールだったようで、すでに止んでいた。マメは話していて何か不快を感じたのか、何も告げずにふっと洞窟から出ていった。
「神に祈るか・・・・。そうか・・・・」
 大山は腕を組みながら小さく呟き黙り込んだ。マメが日本語を流暢に話し出したこと、また彼の世界観、それらがあまりに衝撃的ですぐに消化できなかった。
「祈れば何事も解決するんだったら、この世は楽なものですね」
 小塚が幼稚な言説だと一蹴するように言った。
「ま、確かにそうだなあ・・・・」
 大山も小塚の意見に肯いた。
「ーーそろそろ、ぼくも」
 法帆もこの場から立ち去ろうとした。
「ノッポ、どこへ行くんだ?」
 大山が訊ねた。
「尺八を吹きに行きます」
「そうか、お前は相変わらず尺八を吹くのが好きなんだなあ・・・・。お前は何のために尺八を吹いているんだ? 誰に聞かせるわけでなく吹いているが」
「何のために・・・・」法帆はしばらく考え込むように沈黙し、「神々に捧げます」 
 マメの言葉を真似をして小さな声で言い、ソソクサとこの場から立ち去ろうとした。
「神って何なんだ? 理性で合理的に物事を考えて行動しなきゃ駄目だろ」
 小塚が軽蔑するように言った。


   十一

 法帆は夜中にフッと目が覚めた。この島に来て以来ずっと深い睡眠をとれ、夜に目が覚めるということはなかったが、この日の晩はなぜか目が覚めた。夜空を見上げると、紅みがかった満月が天空に穴を開けたように輝いていた。法帆は寝床から這い出して海岸線に出た。満月の光は仄かに辺りを照らし、夜更けでも影が映るほど明るかった。
「ああ、月がきれいだ」
 いつもの指定席である木の下に座り、一人夜の海を眺めた。昼の海は無邪気で美しくキラキラと輝いているが、夜の海は、裏に隠れている「呪いの力」というべくおどろおどろしい力が揺れ動いているように見える。尺八を持ってきたが、この黒く揺れる海に向かって音を鳴らすのはなんとなく憚られ、ただ手に持った尺八をつくづくと眺めた。
ーー菊乃先生、元気だろうか。
 菊乃先生に出会い尺八を習いだしてしばらくしてから大学を辞めた。もちろん両親には事後報告だった。二浪してまで入った大学を一年足らずで勝手に辞めてしまい、怒られるを通り越して呆れられ、ほぼ勘当状態となった。自分としては、退屈な学校なんて時間の無駄にしか思えず、とにかく尺八をできるだけ吹いていたかった。先生の家に入り浸りになったが、先生は嫌な顔ひとつせず受け入れてくださった。今になって思えば、先生にとって自分は甚だ迷惑な存在だっただろう。
 先生は尺八を教える傍ら、老齢のお母さんの介護もしていた。先生のお母さんは、先生の尺八の師匠でもあったが、数年前から腰痛が出たり、認知症の症状が出たりで尺八の指導もできなくなり、自宅で静かにされていた。今になって思えば、先生は肉体的にも経済的にもご苦労されていたと思う。しかし先生は決して苦しい顔を見せず、朗らかでいつもゆったりとしていた。経済的に多少問題があっても、「稼げるから」という利害損得が行動の動機になり、生徒を無闇やたら集めるというようなことは絶対にされなかった。
 この頃の自分は相手の立場に立ってものを考えるという余裕はなかった。大学を辞めてから生活が大変だった。大学を辞めたことで親から仕送りが打ち切られ、家賃、生活費、公共料金、尺八の月謝、それらを自分で工面しなければならなくなった。様々なアルバイトをしてみたがどれも長くはつづかず、先生と一緒に尺八を吹いている時間以外は、鉛を飲まされたような気持ちをいつも抱えていた。バイトを始めると奴隷の苦しみ、バイトを辞めると貧困の苦しみ、その天秤のいずれかに乗せられ喘いでいた。
「今の仕事、辞めることにしました」
 先生には仕事を始めたり辞めたりするときは必ず相談していた。
「あら、そうですか」
 先生はいつも軽い感じで対応された。そんなことは取るに足らない小さなことだと言外に含ませているようだった。この頃、自分は社会不適応者であることを強く認識し始め、仕事を辞めることに自責の念や後ろめたさを感じていた。先生以外の人にこんなことを相談しようものなら、「根性がない」と一喝されただろうが、先生は咎めたり説教したりは決してされず、逆に彼女自信の至らなさや失敗談などを笑いながら話してくださった。
「仕事を辞めたぐらいでそんなに深刻にならなくてもいいんですよ。私もいろんな仕事をやってみましたが何もつづきませんでした。もう明日から来なくていいって言われたこともありました」
「そうですか・・・・。先生みたいな誠実で真面目な人でもそんなことを言われるんですか」
「私が誠実で真面目? どうなんでしょう・・・・。自分では一生懸命やってるつもりでしたが、何をやっても失敗ばかり、迷惑ばかりかけてきて、最終的には鬱になって布団から出られなくなりました。そのときに「健康」が一番大切なんだって、ようやく気づきました」
「ご苦労されたんですね・・・・。でも、それは先生の問題ではなく、労働問題であり、もっと言えば社会問題なのに」
「それならノリ君も同ンなじですよ」
「そうですか・・・・。ぼくの場合は、無能、怠惰、やる気のなさ、不格好、色々駄目な面が満載ですが、先生はおきれいで、いつもシャンとされてて、気配りもされて、何にも落ち度が無いように見えます。ぼくみたいなのが社会から抹殺されても納得できますが、先生が社会から外れるなんて納得できませんねえ」
「フフフ、何をおっしゃてるの。ノリ君は立派な人間ですよ。心優しくて、才能に溢れていて、それにそうやって内省的に自己観察されていて。私なんか社会人は失格だし、ヒネくれた性格だし、だから離婚もしていますし。本当に駄目な人間なんですよ」
「離婚ーー、先生が離婚。どうして先生みたいなよくできた人が離婚なんでしょう。わからないなあ」
「よくできた人だなんて、私なんかそんなもんですよ。実は母も離婚しているんです。もしかしたら、私の家系は男性に縁のない『呪われた家系』なんですかねえ、ウフフ」
「先生はピュア過ぎて、汚濁した川に住む魚とは性が合わないのかもしれません。先生は魚に例えるとイワナとかアマゴなんです。一般庶民はフナとか鯉とかメダカとか、ときにはブラックバスだとか、そういう濁った川に住む小汚い魚」
「何ですか、その例えは、フフフ。じゃあ、ノリ君は何の魚ですか」
「ぼくは体型からして、多分・・・・、鰻あたりかな」
「鰻? いいですねえ、海でも川でも生きられて」
 菊乃先生と話していると楽しかった。先生は表情豊かで、ひょうきんな一面もあり、トボけたことを真顔で話されたりした。愚かで退屈極まりない自分に、嫌な顔ひとつせず長時間付き合ってくださった。
 東京に出てきて四年が過ぎ、小さな旅行会社にようやく正社員として就職できた。が、それも暗いものでしかなかった。長い労働時間、ノルマ、残業、有給休暇なしーー、菊乃先生に会う時間もなかなか取れなくなりストレスが溜まっていった。そんなとき妹の突然の死もあり、それを引き金にパニック症を発症することとなった。仕事どころか外出することさえ困難になり、完全に社会と断絶してしまった。
「ーーこんな時間、こんなところに一人でいるとお山に連れて行かれますよ」
 背後から声が聞こえた。法帆は一瞬ビクッとしたが、それがマメの声だとすぐに気づいた。ゆっくり振り返るとやはりマメだった。
「マメさんこそ、どうしてこんな時間に?」
「あなたが寝床から離れていくのを見て、ちょっと気になりました」
「よく気づきましたね、ハハハハ」
「笑いごとじゃありませんよ。本当にお山に連れて行かれますよ」
「お山ってどこですか」
「あそこです」
 マメは島の中心にある山を指差した。
「そういえば、あの山に誰も近づこうとしませんね」
「ええ、もちろん、あそこは霊山ですから」
「霊山ですか・・・・」
「我々は人間だから人間の領域で生活する。あそこは神々の領域だから近づかない」
「連れて行かれるって誰に連れて行かれるんですか」
「黒い人にです」
「黒い人・・・・。この島の人は皆んな肌が黒いですね」
「もっと黒い人です」
「そうですか・・・・・」
 法帆はマメの言っていることを頭では理解できなかったが、夜の闇に薄気味悪さを感じていたので感覚的には理解できた。
「それと、これーー」マメが尺八を指さした。「これも夜吹いちゃいけません。黒い人が寄ってくるかもしれませんから」
「はい」
 法帆は素直に返事をした。もっともマメに注意されなくとも、夜に尺八を鳴らすことはタブーのような気がしていた。
「寝床に戻りましょう」
 マメに促され、法帆は寝床に戻った。
「ーー朝か」
 翌朝、法帆は強い朝の日差しで目が覚めた。いつもよりも寝すぎたようである。どこまでも透き通った爽やかな青空を眺めると、昨夜の薄気味悪かった夜の闇は何だったのだろうと、不思議な感じがした。
「ノッポ」
 大山の声が聞こえた。
「ノッポ、ちょっとミーティングだ」
「ミーティング・・・・」
 大山の声を聞くと、狭くて息苦しい常識的観念の世界に振り落とされたようで気持ちが悪くなった。
「小塚、おい、小塚、こっちこっち」
 小塚も呼び寄せた。
「昨晩な、小塚と話していたんだ。あの山あるだろ、あそこへ三人で行かないか。山の頂上へ行けば見晴らしが良くて、周りに島がないか調査できるだろうって」
「あの山へ・・・・」
「そう。でもな、森の奥へ入っていくと土着民に止められるだろ。多分彼らは一人で行っちゃ危ないって言ってると思うんだ。だから三人で行けば大丈夫じゃないかって考えてな」
「実は・・・・」法帆は昨晩のことを話した。「マメさんから聞いたところによると、あの山は霊山らしいんです」
「だから?」
「だから入っちゃいけないと」
「どうして霊山だから入っちゃいけないんだ?」
「神様の領域だからタブーなようです。三人で行けば大丈夫というわけではないと思います」
「そうか・・・・」大山は腕組みをしながら考え込むようにして言った。「入ったらどうなるんだろう?」
「土着民に恨まれるとか、罰が当たるとか」
「罰が当たる? ハハハハ」小塚が呆れたように笑った。「本当に迷信が好きだなあ。土着民もノッポも」
 そんな会話をしているとマメがタイミングよくやってきた。
「いいところに来たーー」大山が声をかけた。「マメ君、ちょっと訊きたいんだが」
「ええ」
 マメは、何か嫌なものを察知したようで表情が固い。
「なあマメ君、あそこの山には人が住んでいるのかい?」
「あそこは神々の領域だから誰も住んでいません」
「神様の領域か、そうか。じゃあ、山の向こう側は人が住んでいるのかい?」
「そこも神々の領域だから誰も住んでいません」
「この島は神の領域ばっかりだな」
 小塚が口を挟んだ。
「要するに行っちゃいけないんだな?」
 大山が念を押すように訊ねた。
「もちろんです」
「行った人はいるのかい」
「死期を悟った人が行きます」
「死期を悟った人?」
「この島に老人がいないのは、歳をとり死期を悟ると山へ行くからです」
「そういえば、老人がいないなあ・・・・」
 大山が考え込むように言った。
「死期を悟ると山へ行くって?」小塚が皮肉を込めて言った。「姥捨て山物語みたいに、口減らしのために山へ年寄りを捨ててるんじゃないの」
「死期を悟った人以外、死に値する人も山へ行きます。この場合は行くんじゃなく、連れて行かれます」
「連れて行かれるって、誰に?」
「黒い人に」
「なんだそりゃ」
 小塚はフッと鼻を鳴らした。
「死期を悟った人、死に値する人・・・・」大山が小さくつぶやき、訊ねた。「でも、死期を悟ったとはいえ、自分の家族や兄弟が突然いなくなったら皆んな悲しむだろ?」
「悲しむ? いや、祝福します」
「祝福・・・・」大山は土着民の感情や文化にまったく共感できなかった。「いなくなって祝福って、どういうことだ・・・・」
「もしそれが殺人事件だったとしても、誰も捜査しないし裁かれないんだね」
 小塚が訊ねた。
「事件かどうかは日頃の行動と態度でわかりますよ」
 マメは困惑した表情で言った。
「そんなことわからないさ。人間なんて心の中では何を考え、陰で何をやっているかなんて。皆んな怪しいものさ」
「あなたたちはどうしてもお山に行きたいんですか。こんなに言っても」
「いや、別にどうしても行きたいわけではないんだよーー」大山は、マメの機嫌を損ねないよう笑いながら言った。「ちょっと島のことを知りたかっただけさ。あの山に誰も行かないようだから、たくさんの食物が眠っているかもしれないって、ハハハ」
「とにかく行ってはいけません」
「行かない、絶対行かない」
 大山はこれ以上出しゃばったことを言うのは危険だと判断して引き下がった。しかし小塚は不信の目をマメに投げかけていた。


   十二

 小塚はマメからこの島のタブーについて聞いたことによって、余計にそれらに胡散臭さを感じていた。神がどうのこうのと言っているが、もっと現実的な理由があるに違いない。もし山へ行くなら、夜は道に迷いそうだし昼間は暑い。出るとしたら早朝だろう。ある日の早朝、寝床の洞窟から出て、人のいなそうな道を選んで山へ向かった。しかし道々で子供たちや女たちに出会い、何となく気まずさを覚え、その日は山へ行くのを断念した。
 また別の日の朝、まだ日が昇る前の暗い時刻に寝床から出て、海岸線を歩いて反対側の崖の林から森の奥へ入っていった。さすがにこの時間だと誰もいないだろう。暗い森をゆっくりと歩いていると少しずつ視界が明るくなってきた。そのとき薄靄の中、遠くに男の影がぼんやり見えた。「マズイ」と一目散に海岸線に逃げ戻った。
「一体、どういうことなんだ?」
 小塚は考えた。どうして奴らはまだ暗い早朝の時間に森をウロウロしているんだ。小塚はだんだん意地になってきた。ならば絶対誰もいないであろう別のルートで再挑戦だーー。海岸線の端の崖っぷちを蜘蛛のように貼りついて奥へ奥へと進んだ。素足の土着民は、さすがにこんな足場の悪い所は歩けまい。道は危険だったが長い時間をかけて進んでいった。
「やっと崖が終わったぞ」
 崖が途切れると砂浜の海岸線に出てきた。
「ああ、やれやれ、着いた、着いた」
 長く延びる海岸線を眺めた。
「ここは、何なんだ・・・・」
 砂浜の上にはゴミがたくさん散らばっていた。ポリ袋、空き缶、空き瓶、ペットボトル、サンダル、壊れた時計ーー、日用品の様々なものが落ちていて、しかも悪臭が漂っている。海流の影響でこちらの海岸ばかりにゴミが漂着するようだ。毎日見ていた海岸線は白い砂浜で美しかったが、場所が変わればこんなに汚れた島だった。
「ケッ、神の領域じゃなく、ゴミの領域じゃないか。神の領域だったら掃除ぐらいしろよ」
 小塚は悪態をつきながらノソノソと歩いた。こちらの海岸線は強風が吹きつけ、砂塵が目に入らぬよう常に目蓋を手で抑えていなければならない。風の音と林の枝葉の擦れる音が混じり合い、叫び声、ささやき声、笑い声、泣き声――、さながら人の声のように聞こえてくる。砂浜の奥の林の中を覗くと昼間なのに薄暗く、木の枝にポリ袋があちこちに引っかかって散乱し、さながら天然のゴミ屋敷といった様相だ。小塚は尿意を催したので、風を遮るため木を背にして用を足した。
「場違いな所に来ちまったな」
 小塚は放尿しながら呟いた。人が住んでいる気配はまるでなく、また住めるような環境ではない。せっかく長い時間をかけてここまでやってきたというのに何も得るものはなさそうだ。それどころか、場が発する陰の気を受け、吐き気と頭痛がする。早く引き返したほうがよさそうだ。
 引き返す前にこの陰鬱な風景を心に焼きつけておこうと、海岸線をじっと眺めた。すると百メートル程前方に何か人工的な物体が漂着しているのが見えた。小塚は目が悪いのでそれが何なのかわからなかった。
「何だろう」
 気になったので近づいてみることにした。
「もしや・・・・」
 近づくに従ってその漂着物の正体が明らかになってきた。それはマグロ漁船『第八大黒丸』だった。
「船がこんなところに!」
 熱い気持ちがこみ上げてきた。砂浜の上に横たわる大黒丸、船体は錆びついて朽ちたようになっていた。
ーー俺はこれに乗ってやって来たんだ。乗組員たちは皆んな、逝ってしまったのだろう。俺たち三人だけはなぜか奇跡的に助かったんだ。
 小塚は感慨深い気持ちになった。
ーーよかった、ここを探検してよかった。タブーだ、何だって、尻込みしていたらやっぱり駄目だったんだ。もっと早く行動するべきだった。よし、報告だ。船長に報告だ。この船はもう使えないだろうが、船体の中を調べればいろんな金属の工具類も出てくるだろう。それらを使えばもっと便利で快適に生きられるぞ。
 小塚は風が強く吹く中、目を細めながら船の周りを一周して船体を観察した。そのとき何かに足がつまづいた。
「何だ?」
 つまづいた先を目を細めて覗き込むと、そこには人の頭が転がっていた。
「ギャーッ! 生首」
 大声を上げて飛び上がり数メートル距離をとった。勇気を振り絞ってもう一度見直してみると、
「何だ・・・・」
 カツラをつけたマネキンの頭だった。よく考えみたら生首が腐らずそこにあるのはおかしい。
「びっくりさせやがって」
 足先で軽く蹴って頭をコロリと転がすと、マネキンがこちらに顔を向け、呪ってくるような目でじっと見つめてきた。マネキンとはいえその表情は生々しく、今にも話し出しそうである。さっと目を背けた。
「行こう」
 この海岸線からすぐに立ち去りたい気持ちがはやった。神の領域だなんて土着民の浅はかな迷信だと嘲笑っていた自分が昼間の光景に怯えている。恐怖という感情が心を全面的に支配し、何を見ても薄気味悪く、体中の鳥肌が立っていた。
「モタモタしていられない」
 足早に歩こうとしたとき、今度は足首を何者かに掴まれた。
「ギャーッ!」
 ひっくり返って足をバタつかせ四つん這いになって逃げた。心臓は鼓動が速くなって口から飛び出そうである。
「ア、ア、アーー」
 言葉がまともにでない。怯え慄きながら足を掴んでいる正体を確認すると、それは乾燥した藻だった。藻が足首に絡みついているだけだった。風に吹き飛ばされて足に絡んだのだろう。
「藻か・・・・」
 藻を遠くに投げ捨てた。それでも冷静な気持ちになれなかった。すぐにこの場から離れたい。もっと危険な災いが身に降りかかってきそうな予感がする。海岸線を脇目をふらず歩き、崖をよじ登り、崖に貼りつくようにして、もときた道を戻っていった。
     ※
「ーーノッポ、小塚見たか?」
 大山は、木の下で海を眺めている法帆の声をかけた。
「いや、全然知りません」
「そうか、知らないか・・・・」
「どうしたんですか」
「今朝からまったく見ていないんだ。アイツどこへ行ったんだろう」
「どこへ行くも、この小さな島だから限られていますがねえ」
 法帆は嫌な予感がした。小塚はマメが止めていた神の領域に行ったに違いない。
「多分、アイツーー」大山が声をひそめて言った。「この島のタブーの領域に一人で行ったんじゃないだろうか」
「ぼくもそう思います」
 二人はしばらく黙って考え込んだ。
「なあ、ノッポ、このことはマメには内緒だぞ。もしかしたら土着民の間で大問題になるかもしれないからな」
「そうですね。敬虔な信仰心を持って生きているこの島の人たちにとって大問題になりかねません」
「まったく小塚の野郎、勝手な行動に出やがって。俺たちは土着民から食べ物を頂いている身分だっていうのにーー」
 大山はブツブツ言いながら、脇に抱えて持っていた茶色く干からびた植物の繊維を編み出した。
「それは何ですか」
 ノッポは横目で眺めながら言った。
「これか、魚を捕る網を編んでいるんだ。丈夫な繊維がないからこれを使っているんだが、まあ脆弱なもんだな。だけど網を使えば魚を少しは捕れるんじゃないかと思ってな」
「船長は漁のプロですから網があれば捕れるんじゃないんですか」
「どうだろうな。大きい魚だと網が破けちゃうだろうし、小さい魚だと網目から逃げてしまう。まあ、素手よりはマシかなってぐらいだ」
「そうですか」
「俺も土着民みたいに魚を捕りたいんだけど、何をやっても一匹も捕れないんだ。彼らは簡単に魚を捕ってるだろ。子供たちが打ち上がってくる魚をザルで掬ってるだけだが。技術も道具も何もないくせに、きちんと毎食食べる分を捕獲するって考えてみれば凄いことだよなあ」
「そうですねえ、彼らは自然のことをよく知っていますからねえ」
 そんなことを話しているとマメがやってきた。
「おっ、マメ君、いいところに来たーー」大山が愛想笑いを浮かべてマメに話しかけた。「ちょっと魚の漁のことについて訊きたいんだ。君たちは上手に魚を捕っているだろ。魚がくるタイミングって、どういう情報でわかるんだい?」
「魚が来るタイミング? そんなもの知りません」
「じゃあ、どうやって」
「『海の男』が魚を運んできてくれます」
「何だ? その『海の男』って?」
「海の男はぼくたちにとてもよくしてくれます。だからぼくたちはたびたび海の男に歌や踊りを捧げ、いい関係を作っています」
「海の男か・・・・、要するに神様か、妖怪か、そんな存在だな」大山は感心したように言った。「この島の土着民は本当にそういうものが見えるのかい?」
「見えることもあるし、見えないこともあるし、でも、彼らのささやき声は毎日聞こえます」
「海の男のささやき声ですか・・・・」法帆が納得したように言った。「確かにこの島の人は耳がいいですからねえ」
「耳をすませば聞こえますよ、誰でも」
「そうですか」
「多分ーー、もうそろそろ聞こえる頃です」
「ああ、もう夕暮れか・・・・」大山は空を見つめながら言った。「太陽の日差しが弱くなっているな」
 三人は西の空を眺めながら静かにそのときを待った。
「何かおかしい」
 しばらくしてマメが不可解そうに言った。
「何がおかしいんですか」
 法帆が訊ねた。
「海の雰囲気がおかしいんです。いつもと違うんです」
「そうですか・・・・」
 法帆と大山の目にはいつもと同じ海にしか見えなかった。
「おかしいですね」 
 マメは心配そうに海岸線をブラブラと歩き出した。するとマメの周りに子供たちが集まりだし何やらざわついている。こんなことはこの島に来てから初めてだった。いつもは静かにたたずんでいる男たちもその集まりに加わった。
「何かあったんでしょうか」
「なんだろうなあ」
 土着民たちは、海に向かって歌を歌ってダンスを踊りだした。
「さっき、マメさんが言っていたように、海の男に捧げているんでしょうか」
「そうみたいだなあ」
 水平線に日が沈みきると土着民は歌を止め、皆んな集会所に引き返し始めた。法帆と大山も一緒に集会所に戻った。


   十三

 魚が捕れなかったとはいえ、この日も集会所で火が焚かれいつも通り食事となった。食事が始まった頃、小塚が集会所に戻ってきた。
「飯に間に合った」
 小塚はニヤッと笑ったが、その表情には憔悴の色が漂っていた。
「お、小塚座れよ」
 大山は小塚を自分の隣に招き寄せた。多分小塚は今日タブーの領域へ探検に行ったのだろうが、この場でペラペラと話し出すと土着民に話を聞かれてマズイ。大山は小塚にそのことを話させないように努めた。
「今日は魚が捕れなかったようだ。こんな日もあるんだなあ」
「そうだったんですか。ああ、腹が減った」
「彼らの言葉を借りれば、『海の男』が現れなかったようなんだ」
「海の男って何ですか」
「魚を運んでくれる神様みたいだな。時間になるとささやいてくれるんだと」
「そうですか・・・・」
 小塚はいつもはこういう話を聞くと嘲りの表情を見せたが、今日は虚ろな目で曖昧な返事をするだけだった。
「せ、船長、実は今日ーー」
 小塚が小声で何か話し出そうとした。
「今はいい。飯を食え。後で聞こう」
 大山は小塚が話しだそうとするのを制した。
「ん?」
 そのとき場が妙に静まっていることに気づいた。周囲を見回すと、大勢の土着民たちが冷たい目線をこちらに向けていた。こんな風に見られるのは初めてだったのでギョッとなった。いつもと雰囲気が違う。
 晩飯をそそくさと済ませると、大山は小塚と法帆を洞窟の隅の岩陰に呼び寄せた。
「小塚、今日何があったんだ?」
 大山が声をひそめて言った。
「実は朝から島を探検していました」
「朝から姿が見えないから、そんなことだろうと思った。この島のタブーを破ったんだな」
「ええ、まあ、多分・・・・。凄いことを発見しましたが」
「凄いことって何だ?」
「この島の東側になるのでしょうか、そこにも砂浜の海岸線が延びていました。そこで、我々の船が打ち上げられているのを見つけました」
「船って、大黒丸か!」
「ええ・・・・」
「大黒丸がーー!」
 大山の声が自然と大きくなった。
「船長、声が大きいです」
 法帆が小声で注意した。
「ああ、悪かった。ーー大黒丸がそんなところに」
「もう錆びついていましたが、砂浜の上で横たわっていました」
「そうだったか・・・・。それで、どうした?」
「いろいろ調べたい気持ちにもなりましたが、ちょっと気分が悪くなり・・・・」このとき小塚は何か視線を感じ、ふっと顔を上げた。
「マメ・・・・」
 岩の上にマメがしゃがみ込んで小塚を見下ろしていた。
「そこには行ってはいけないって言いましたよね」
 マメは表情を変えずに言った。
「ま、まあーー」小塚は恐縮したような表情になった。「でも、山には入っていない。俺の行ったのは島の端っこだぜ」
「島の半分は神々の領域だって言いましたよね」
「まあ、そうだけど・・・・」
 小塚は申し訳なさそうに口ごもったが、急に傲慢な態度に変わった。
「神の領域だか知らないが、実際はゴミだらけだったけどな」
「おい、小塚ーー」大山の声が大きくなった。「謝れ。こっちの人にしてみれば重大な問題なんだ。お前、考えてみろ。日本で、神聖な神社の境内で小便する外人がいたら皆んな怒るだろ。それと同ンなじだ。土下座しろ」
 大山は力ずくで小塚の頭を押さえた。
「何するんスか。ちょっと行っただけで別に何も悪いことしていないじゃないですか」
 小塚は大山の手を払いのけ両手で押し返した。
「小塚、何だこの野郎。こっちがやさしい顔していりゃツケ上がりやがって。お前はこの島の和を乱したんだぞ。迷惑をかけたんだぞ。謝罪しろ」
 大山は怒鳴り声は最高潮に達した。
「うるせいジジイだな。俺が行かなかったら船がそこにあることすら永遠にわからなかっただろ。それなのに・・・・」
「誰がそんなこと頼んだ。この野郎」
 大山は小塚の襟首を掴み取っ組み合いになった。法帆はオロオロしながら見つめるばかりで、どうやって止めていいかわからなかった。周りを見回すと、土着民たちがこんな夜にどこへ行くのか、集会所から林の奥へゾロゾロと去っている。もちろんマメの姿はもうそこにはなかった。もの静かな彼らは、争いごとから発生する荒れた空気が嫌なのだろう。
「二人とも止めましょう」
 法帆は思い切って仲裁に入ったが、逆に押し倒されてひっくり返った。興奮した人間を冷静にさせるのは難しい。人は正しさの名の下で争うが、争うことそのことが正しいことなのか、争っている本人は考えることができない。
「もう誰もいませんよ」
 法帆は岩の上に登って泣きそうな声で言った。法帆に高見から見下ろされ、二人は奇妙な感じがしたのか一瞬手を止めて周囲の状況に目をやった。集会所の広場には誰一人として土着民がおらず、焚き火の燃え滓が小さく暗闇を照らしていた。
「あれ、皆んなどこへ行っちゃったんだ・・・・」
 大山はポツリと呟き呆然とした。小塚も不安そうな面持ちで立ちすくんだ。
「じゃあ、ぼくも失礼します」
 法帆もこの場にいたたまれず立ち去ろうとすると、
「ノッポ、おい、待て、どこに行く? 三人でちょっと冷静に話し合おうじゃないか」
 大山が言ったが、法帆は振り返ることなくこの場から去った。
「ーーああ、明日からどうなるんだろう」
 法帆は海岸線のいつもの木の下に座り、夜の波の音を聞きながら考えた。争いごとの興奮が頭の中を支配し、波の音を聞いても静かな心持ちにはなれない。安定した生活といってもそれが永遠につづくわけではなく、ひとつの事件で、ひとつの小さな出来事がきっけとなって、そのバランスが崩れてしまうことがある。そんな流れの変換点を通り過ぎたような気がした。
 ゴロンと仰向けになって両手で腕枕をしながら星を眺めた。なかなか落ち着けなかったが、少しずつ睡魔が襲ってきた。半醒半睡ウトウトしていると、昔のこと、母親から泣きむせぶような声で電話がかかってきて、妹が自死したことを告げたことが脳裏に蘇ってきた。
ーーあれから何年経ったのだろう。
 突然のことだった。しかし前兆がなかったわけではなかった。その日の二、三日前、珍しく妹から電話の着信があったが、そのときは話をしたい気持ちが起きず、かけ返さずにいた。その時期、仕事で忙殺され、さらには人間関係にも悩み、辛い日々を送っていた。大切な用事だったらまた電話してくるだろうと思って放っておいたのだが、この怠惰な態度が妹と永遠に話す機会を失ってしまった。
ーー妹は電話で自分に何を言いたかったのだろう。
 時折頭に飛来してくる決して解かれることがない疑問である。考えていると吐き気を催すような気持ちなると同時に、申し訳なさを感じる。兄として何もしてあげられなかった。かといって、あのときの自分に何ができただろう。もしかして、あの負けん気の強い妹が、自分に弱音を吐きたかったのだろうか。もし、あのとき、少しだけでも話すことができたなら、妹は・・・・。
 決して仲のいい兄妹ではなかった。思春期を過ぎてからきちんと話したことは一度もなくよそよそしい感じだった。妹は小学生の時分からクラスの級長を務めるなどしっかりしていて、薄鈍の兄とは正反対だった。妹はそんな兄を恥ずかしがっている感があった。二歳違いの妹は、二浪してブラブラしている兄とは違い、現役で地方の医学部に合格し、順風満帆に人生を歩んでいくものと思われた。
「あなたに憧れているようなことを言ってたことがあるのーー」
 後に、母から聞かされたことである。何でも、東京という大都会で好きな尺八を吹いて自由気ままに生きている兄が羨ましいと言っていたらしい。自分は屈託の塊として都会で喘ぎ喘ぎ生きていたのに、彼女の目にはそんな風に見えていたようだ。成績がよく優等生で親の期待にこたえつづけてきた妹。何の不満も心配事もないように見えていたが、彼女が兄を見誤っていたように、自分も妹を見誤っていたのか。
 母が妹の遺品を整理していたとき、最近までキャバクラでアルバイトをしていたことを知った。十分な仕送りを受けていたのだからそんなバイトをする必要はなかったはずだが、なぜそんな世界に足を踏み入れたのか。真面目でどちらかといえば地味だった妹が、妖艶な格好で客を接待している姿がまったく想像できないが、そうすることで、彼女は崩れた心のバランスを調整していたのだろうか。彼女の抱えていた闇とは一体何だったのだろう。
 妹が自死したことを伝える電話を受け、「すぐ帰る」と返事をして電話を切った。すぐに帰るには電車かバスか、そんなことを考えていると、強い不安感が脳裏を襲い、胸の鼓動が激しくなった。手の平が汗でびっしょりになり不安が恐怖に変わった。このままでは自分も死んでしまうのではないか、さらに負の感情がエスカレートしていく。パニックである。
 そのとき電話が鳴った。菊乃先生からだった。先生から電話がかかってくることは滅多になかったが、そんな絶妙なタイミングで電話があった。
「ノリ君ーー」
 先生のやさしい声を聞いて救われた気持ちがした。
「せ、先生、じ、実は今電話があって、い、妹が、し、死にました」
 先生からの要件を聞く前に話し出した。とにかく胸が苦しく、何か話し出さないと失神してしまいそうだった。
「えっ・・・・」話の内容も内容だったし、こちらの声の調子がおかしいことを敏感に察した先生は、「ノリ君、大丈夫ですか」と慌てた様子で何度も問いかけてきた。そんな先生の気遣われる声も自分の耳には遠いものに聞こえ、
「じ、実は、今、苦しくて、し、心臓が破裂しそうです、ハハハ」
 笑いながら言うと、先生は夜遅いというのに、
「今すぐそちらに行きますから、そちらの住所を教えてください」
 家族に接するように言ってくださった。
「ご迷惑をおかけします。でも、来なくて結構です。寝れば大丈夫だと思いますので」
 先生のやさしさが心に染みた。しかし、あのとき先生はどういう要件で電話をかけてきたのだろう、よく考えてたらそれを知らないままでいた。
「フハハハ、フヒヒヒ、ハハハハーー」
 そんなことを思いながらウトウトしていたとき、女性の甲高い笑い声がどこからか聞こえてきた。妄想がハッと醒めた。林の中から聞こえてくるのか、海から聞こえてくるのか、上体を起こしてその声に耳をすませると、その声は三百六十度どの方角からも聞こえ、さらには大地からも空からも聞こえてきた。その気味の悪い声の主は「魔女」を想像させ、どこか闇の世界へ連れて行かれるような気持ちがした。
「いつもの寝床に戻りましょう」
 背後から別の声、心にそっと触れるようなやさしい声がした。振り返るとマメがいた。
「マメさん、今女性の声がしました。あれは何だったのでしょう」
 恐怖で慄きながら訊ねると、
「『女の笑い声』ですね。あれは嵐が来る前兆です」
「嵐が来る前兆・・・・」
「ええ、大きな嵐が来ます。神々の怒りでしょう。その怒りを鎮めるため、明日は儀式が行われます」
「小塚さんが神様の領域に行ったことで神様は怒られたのでしょうかか」
「そうかもしれませんが、はっきりわかりません。なぜならぼくたちは愚かな存在なので崇高な神々の気持ちを断定的に知ることはできません。ただできることは、ぼくたちは風が吹けば遠くに飛ばされてしまう小さな存在であることを自覚し、謙虚になって神々を畏敬することです」
「その通りだと思います」
「とにかく寝床に戻りましょう。皆んなはもう戻っています。ここで寝るのは危険です」
「いろいろ気遣ってくださってありがとうございます」
 法帆は、小さなマメに深々と頭を下げた。マメに手を引かれるように法帆は集会所の寝床へ戻った。


   十四

 早朝暗いうちから土着民たちは総出で薪集めを始めた。普段は家事をせず海を眺めている男たちもこの日は薪集めに動いていた。法帆も早く起き、子供たちの後に付き従って薪集めを手伝った。
「ノッポ、昨晩は悪かったなーー」大山が背後から近づき法帆に声をかけた。「ついカッとなってしまって」
 大山は、感情が行動を支配するタイプの性格なので、日によってもしくは状況によって態度や雰囲気がまるっきり違う。昨晩の荒れくれた態度から一変し、今朝はしんみりした態度になっていた。
「土着民たちが気分を害するようなことはしないほうがいいかと・・・・」
 法帆がオドオドしながら言った。
「そうだな、もちろんだ。昨日は小塚のためを思い、アイツの無礼な行為を窘める上で叱りつけてやったんだが、ちょっと度を越したかも知れないな。ーーで、今日は何だ? 皆んな朝から何をしているんだ?」
「神様の怒りを鎮める儀式があるので薪を集めています」
「そうか、神様の怒りを鎮める儀式か・・・・。で、朝飯は?」
「誰も用意していないようですね」
「飯抜きか・・・・。ずいぶん大掛かりな儀式なんだな。腹ペコだが、こんなとき自分だけこっそり何か喰っていたら顰蹙だろうな。ここは大人しくしていないとな」
「皆んなの真似をしていた方がよさそうです」
「土着民の社会は法律も規則も何にもないようだが、何か目に見えない規範があって、自由のようでいてそうでもないんだよなあ。難しいところがある」
「宗教的規範なんでしょうか」
「そんな感じだな。ーーじゃあ、俺も手伝うか。仲間はずれにされたら困るから」
 大山は目についた木の枝を折ろうと手をかけた。
「あ、船長、木の枝を迂闊に折ると注意されますよ」
「じゃあ、どうするんだ?」
「落ちているのを拾うのが無難です」
「そういうルールがよくわからないんだよなあ」
 法帆と大山は土着民たちに混ざり黙々と働いていると、いつしか日は高く上り、気温は上昇し、体中汗まみれになった。気温は高くなったが空は白く曇ったままで、湿気があり、風はまったくない。
「腹が減ったなあ」
 大山が汗を拭いながら呟いた。
「そうですねえ」
 法帆は脇に抱えた薪を下ろしながら相槌を打った。
「暑いし、腹は減るし。ーーこんなに薪が集まっているが、まだ集めるのか?」
 大山は、集会所に山のように積まれた薪を見つめながら言った。
「皆んな働くのをやめようとしませんね」
「そうだなあ。いつも怠けている彼らが、火が着いたように働いているんだからよっぽどのことなんだな。こんなに土着民が働いているというのに、うちの小塚ときたら・・・・」
「まだ寝ていますか」
「ああ、洞窟でゴロゴロしてやがる。どういうつもりなのか、まったく」
「昨日の探検で疲れたんですかねえ」
「どうせ不貞腐れてるんだろ」
 法帆と大山が話していると、小塚が朦朧とした足取りで洞窟から集会所に顔を出した。何だか顔色が冴えないように見える。
「どうだ、よく寝たか」
 大山が皮肉を込めて言った。
「ええ、まあ・・・・」小塚は口を歪めて笑った。「寝すぎたのか体中が痛いなあ」
 そう言って、腕をまっすぐ上げて伸ばしたり、両手を広げて肋骨を広げたりして体操を始めた。「で、これは何が始まったんですか」
「儀式をなさるんですってよ。誰かさんがタブーを破ったから、神様が怒ってしまったらしぜ」
「それって全部俺のせいなんだ、ハハハ」
 小塚は馬鹿馬鹿しいという態度をとった。
「お前も手伝わないのか」
「俺もスか? ちょっとまだ眠いんで遠慮しときます。ーーで、今日は飯はないんですかね」
「飯よりもこっちが優先されるらしいな」
「それはご苦労さんだ。こんなことする体力があるんなら食料を集めて欲しいものだ」
 小塚はそう言い、一人水場へ向かった。
「いい玉だ」
 大山は小塚の後ろ姿を見ながら毒づくように言った。
     ※
 夕暮れ時になり、薪が規則正しく積み上げられて火がつけられた。炎は赤黄色の光りを放ちながら勢いよく燃え上がり、魂を持った生き物のごとく右に左に熱い躰をくねらせた。土着民の男たちは炎を囲み声高らかに歌を歌い出すと、それに合わせるように女、子供たちはユラリユラリとダンスを踊った。
「儀式が始まったようだな」
 大山が法帆に耳打ちするように言った。
「いつもの食事の前のダンスより力がこもってますね」
「そうだなあ。朝から飯抜きで働いているのにも関わらずスゴイなあ」
 一定のリズムで刻む声、高く透き通る声、低く地鳴りがするような声、哀願するような声、狂酔したような叫び声ーー、様々な声が混ざり合い、時には対立し、競合し、調和しながらつづいていく。ダンスも、ゆったりとした動き、小刻みな早い動き、地面を蹴るような力強い動き、柔らかく流れるような動き、人それぞれ、もしくは状況状況で変化し流れていく。
 夜は長い。薪は山と積まれている。薪がでどんどんと継ぎ足され、炎は勢いが衰えない。時折、薪の代わりに花びらや香木の樹皮も投げ入れられ、辺りは芳しい匂いに包まれた。一心不乱に踊っているうちに感情が高まり涙を流す者、変性意識状態になり白目剥き出しになり卒倒する者も出てくる。法帆と大山は後方から眺めていたが、その神聖な時間と空間に自分たちも酔ったような気持ちになった。
「太古の昔にタイムスリップしたようだ」
 大山が法帆に囁くように言った。
「そうですね。意識がどっかに飛ばされそうですねえ」
 法帆は朦朧としながら応じた。
 二人は知らず知らずのうちに両手を合わせ合掌していた。大山は「ナマンダブ、ナマンダブ」と真宗の六字名号を唱えだした。法帆は合掌しながら揺れ動く炎を見つめ、土着民たちの宗教性、霊的世界について思いを巡らせた。
ーー彼らの宗教は生活と切り離されたものではなくまさに生活と一体だ。自然の中で生まれ、自然と共に生き、そして自然の下で死ぬ。自然は神であり、彼らもまた自然の一部である。人間以上に偉大な存在を常に肌で感じ、敬い、畏れ、贈与し、返礼する。人と人との関係、人と自然との関係、人と神との関係、それらは同じようなものなんだ。だが、彼らの生活は神との関係性に頼ってばかりではない。生活の中に、もしくは人生の中に、「自己の本性とは何か」、「何のために生まれてきたのか」、それらの意味を探求し、自己を変容させることに積極的である。神が答えを与えてくれるわけではない。自分で答えを掴み取らなければならない。そのために彼らは自己を客観視しながら生きている。瞑想を日常化させ、自分自身の心の底へダイビングしていき、無意識の世界、言語化される前の非言語的抽象世界、そういった世界の全体性へ魂を漂わせている。彼らは神々と共に在り、空と共に在る。神々と空が、生活の中で同居している――。
 夜が更けてくると、ポツリポツリと雨が降り出してきた。突風も吹き出し、炎が真横に大きく揺れた。だんだん雨が強くなり豪雨となると、炎は消えて辺りは漆黒の闇に包まれた。その中で土着民たちはしばらく雨に打たれたまま石のようになって動かなくなった。しばらくすると、誰が号令をかけるわけでなく、一人二人と少しずつその場から離れていった。
「俺たちもそろそろ」
 大山が言った。
「ええ、行きましょう」
 法帆と大山は洞窟に戻った。
「ああ、濡れた、濡れたーー」大山は体に付着した水滴を払い落としながら言った。「ああ、さっぱりした気分だ。禊を受けたみたいな気持ちだな」
 大山は儀式を終え、すっきりした表情になっていた。
「そうですねえ、頭や体が軽くなったように感じますね。それと、腰蓑を着けていて正解でしたね」
「ああ、そうだ。これはいい」
 大山も最近、法帆に倣って土着民と同じように腰蓑を着けて生活していた。これなら雨に濡れても平気である。
「しかし、すごい雨だなあ」
 今晩の雨は日常起こるスコールどころではなかった。凄まじい勢いの滝のような雨である。風も強く、風向きによっては洞窟に中にいても水飛沫を浴びせられた。さらには、稲妻が夜空を切り裂くように走り、雷鳴が地響きするように轟いた。
「ノッポ、ここじゃ駄目だ。もっと奥へ行こう。安全な場所に避難だ」
 洞窟の奥へ進んだ。洞窟の内部は真っ暗なので今まで探検したことがなく、内部がどうなっているかわからない。奥へ奥へと進んでも行き止まりにならず、どこまでも奥へ行ける。土着民たちも皆んな洞窟に入っているので中は混雑し、ぶつからないよう注意しながら奥へ進み、落ち着けそうな場所を探した。
「ところで小塚さん、どこにいるんでしょう?」
「そうなんだよ。アイツどこにいるんだ?」
 そんなことを話していると、辺りが一瞬白く光り、その瞬間、ドカンと落雷の凄まじい音が響いて空気が揺れた。あまりの迫力に二人は身を硬くした。
「近くに落ちたけど大丈夫か・・・・」
 間髪入れずに、続けざまに雷が落ちた。
ーードカン
「洞窟ごと崩壊しないのか・・・・」
 二人は生きた心地がしなかった。
「神の怒りじゃなかろうな」
「儀式に満足されなかったんでしょうか」
「いい儀式だと思ったんだがなあ」
 さらに恐恐奥へ進んで行くと、岩の陰で人が寝ているような気配がした。
「ここにも一人いるぞ」
 その寝姿を凝視した瞬間稲妻が光り、寝ている人物が小塚であることがわかった。
ーードカン
 落雷の衝撃で地面が揺れた。
「おっかねえなあ。こんな状況でコイツよく寝ていられるもんだ」
「具合が悪いんですかねえ」
「おい小塚、生きてるか」
 体を揺すると、小塚は上体をゆっくり起こし、
「あ、何ですか。船長ですか」
 寝ぼけたような声を出した。
「ああ、そうだ。お前、ここでずっと寝てたのか」
「ええ・・・・」
「儀式を知らなかったのか」
「もう終わったんスか」
「ああ、終わったが・・・・、本当にずっと寝ていたのか・・・・」
 暗闇で小塚の表情はまったく見えなかったが、声質は通常と変わらないように聞こえた。
「ええ、何かまだ眠いんですよ」
「ま、眠いときには眠ったほうがいいだろう。何の用事があるわけでないしな。ーーでも、外には出られんぞ。大嵐だ。凄い風雨と雷だ」
「そうでしたか」
「お前奥にいて正解だったな。いつもの場所で寝ていたらずぶ濡れだ」
「一人静かに寝ていたかったから奥へ移動しただけですが」
 その瞬間、また稲光とともに雷が落ちた。
ーードカン
「ウワッ。な、凄いだろ。ずっとこの調子だ」
「寝ていて気づきませんでした」
「どうですか船長ーー」法帆が言った。「この辺りでぼくたちも休みませんか」
「ああ、そうだなあ。ここにいれば雨風は当たらなそうだしな」
 三人はそれぞれ距離をとって横になった。しばらく嵐に怯えながらじっとしていると、大山が悶えるような小さな声で呟いた。
「ああ、何だか腹が痛くなってきた・・・・」
「大丈夫ですか」
 法帆は目をつぶりながらこたえた。
「洞窟内でクソしたら顰蹙かな?」
「臭いがこもるから駄目でしょ」
「そうだなあ、臭いがマズイよなあ。面倒だが外に出ないと駄目か。嵐だけど・・・・」
「雷は、今は少し治まっていますよ」
「そうだな、それはラッキーだ。またズブ濡れにはなるけど、雷がないだけでも救いだ」
 大山はゆっくりと立ち上がり洞窟の外へ出ていった。


   十五
 
「ノッポ、もう寝たか?」
 真っ暗の洞窟の中、小塚の方から珍しく話しかけてきた。
「いや、まだ起きています」
 法帆は囁くような小声でこたえた。外から聞こえる風雨の激しい音と、いつもと違う洞窟の寝床ということもあり、その晩はすぐに寝つけずにいた。
「何だろうな、昨日からずっと昔の夢を見るんだよ」
「はあ・・・・、そうですか」
 法帆は気のない返事をした。小塚の方から彼自身のプライベートなことを聞くのは初めてだったが、眠りに入ろうとしていたところだったので面倒くさく感じた。
「そういやこんなことがあったなって思い出して、何かおかしくなる、ヒヒヒ」
 小塚は一人で思い出し笑いをした。
「どんなことですか」
 法帆は興味がなかったが何となく話を広げた。
「さっき見た夢は小学生のときのこと。学校から帰る途中、近所に大きなシェパードを飼っている家があったんだ。その犬は狭い檻の中に入れられていたから毎日イタズラしてやった。檻の隙間から木の枝を刺し入れて突いたり、小石を投げ入れたりして。そうすると犬は檻の中で嫌がって身悶えし、大きな声で吠えるだろ。それが愉しくてな。デカイ犬なのに檻の中にいるから何もできない。奴にできることといえば牙を剥き出しにして吠えるだけだ。毎日散々嫌がらせしてやった。人間様の強さを見せつけるためにもな。ーーある日、その犬が檻から出されて、飼い主がリードを握っていた。散歩にでも行くつもりだったのかなあ。俺が通りかかったら、犬は俺の顔を覚えていてワンワン吠えて暴れだした。そのとき何かヤバイなと思ったんだ。そしたら案の定、大きな犬が強く引っ張るものだから飼い主の手からリードが離れて、犬は一目散に俺に向かって襲いかかってきた。あんときは怖かった。こりゃ死ぬなと思った」
「どうなりました?」
 法帆はほとんど眠っていたが夢心地で相槌を打った。
「どうなったかってーー、飼い主が犬を必死で止めたんだが、犬は俺に飛びかかってきて肩かどこかを咬んできた。咬まれた場所が悪かったら死んでいたな。すぐに病院送りだったよ。あまりの恐怖でよく覚えてないけどな。その後の事故処理についてどうなったんだろうって考えているんだが、それがまったく思い出せない。昔だったから、治療費を払って謝って終わりだったんだろうか。今だったら大変だ。大きな社会問題だ。テレビニュースもんだぜ。もし今の俺が親で息子がこんな風に犬に咬まれたら、いい弁護士立てて、相手の財産すべてを、相手が破産するまで、執拗に慰謝料をぶん取って懲らしめてやったんだけどな、ヒヒヒ。ーー何でこんなこと思い出したんだろう。なあ、ノッポ?」
 法帆からの返事はなかった。
「もう眠りやがったか。相変わらずマイペースな奴だ。ーー俺も寝るか」
 小塚も瞳を閉じた。
     ※
 翌朝、法帆が目覚めると、洞窟の奥であっても薄っすらと視界が利いた。上体を起こし、周りを見回したが大山も小塚もいなかった。洞窟を出ると、昨晩の嵐は嘘のように空は青く晴れ渡り、何事もなかったが如くの爽やかな日になっていた。集会所にいる土着民たちは普段どおり朝食の準備をしていた。
「日常に戻ったかあ」
 そんなことを思いながらいつもと同じように水場へ向かった。行き交う子供たちは木の実を摘んだカゴを抱えて愉しそうに歌いながら歩いている。水場に着き、増水している川に体を浸し、新鮮な水を飲んだ。気持ちのいい朝が戻ってきた。幸せな気持ちになった。
 川から上がり、体についた水滴を拭っていると、暗い影が浮遊するように小塚が近づいてきた。
「あ、小塚さんーー」法帆は声をかけ、小塚の顔に何気に目をやった。「アッ・・・・」
 言葉が詰まった。明らかに顔色が悪い。長い睡眠をとっていたにも関わらず目の周りに濃いクマができ、顔がやつれている。
「昨晩も変な夢を見たーー」小塚は唐突に表情を変えずに言った。「気持ちの悪い夢だった」
「また夢ですかーー」法帆は、昨晩小塚が夢のことを話しだしたことを思い出した。「今度はどんな夢だったんですか」
「老人が山へ旅に出ようって誘ってくるんだ」
「老人ですか?」
「そう、黒い老人。まともに目も合わせたくない気味の悪い老人だ」
「夢のことですよね」
「そう夢なんだが馬鹿に生々しくて・・・・。気味が悪くて目が覚めるだろ、ああ夢でよかったって。しばらくしてウトウトしだすとまたその老人が出てきて山へ行こうって誘ってくる。それが何度もつづくんだ」
「山って、そう言えばマメさんが言っていた、聖なる山、土着民が死を悟ったときに行く霊山のこと? そういえば黒い人に連れて行かれるって言ってましたね・・・・」
「だから、俺は意地でもその老人について行かないつもりだ。絶対に行っちゃいけないことはわかっている」
「怖いですね。一人でいると危険そうだから、皆んなが目につく場所、集会所で安静にしていたらどうですか」
「そうだな、それはいい考えだ。が、それでも何か気味が悪い・・・・」
 小塚は虚ろな目をして黙り込んだ。
「ところで、船長は見ましたか?」
 法帆が訊ねた。
「知らないなあ」
「昨晩、洞窟から嵐の中へ出ていったはずだけど、戻ってきたんだろうか」
「知らないなあ」
 小塚は大山にまったく興味がないようだった。というより、何かを思考する気力がまったくないように見える。
「なあ、ノッポーー」小塚の目が急に鋭くなった。「図々しい願いなんだが、寝ているとき俺のそばにいてくれないか。お前がいてくれると安心な気がする」
「え、そばにいる・・・・」
 法帆は正直面倒くさく感じた。
「昨日は儀式で忙しかったから、ちょっと自由な時間が欲しいです。しばらくしたら集会所へ戻ります」
「ああ、そうか、わかった」
 小塚は影が歩くように一人集会所へ戻っていった。
     ※
 法帆は水場から海岸線に出て、いつもの木の下に座り海を眺めた。昨日の儀式で一日だけ間が空いただけだが、ずいぶん久しぶりにこの定位置に戻ってきた気がする。穏やかな波の音と青い空の広がりーー、昨晩の恐ろしい嵐がまるで夢のようにしか思えない。このやさしい掌の上でいつまでものんびりと寝そべっていられそうだが、自然は突如として、表裏が翻るかのように残忍な修羅場と化す。生きるとは当たり前ではない。明日はわからない命なのだ。そうだとわかっていても、いくら学習しても、人はこの不条理な世界と正面から向かい合おうとせず、欲で砂の城を築き始める。
 子供たちが食事を運んできてくれた。食事を口にすると、干からびた胃腸に滋養が沁みわたり、全身の細胞が活発に働き出すのを感じた。食べるとは偉大なことだ。体の中で現象化される輪廻転生。法帆はゆっくり咀嚼して味の奥の奥を感じながら食べた。
「尺八は吹きませんか」
 マメがやってきて隣に腰を下ろした。
「そうですねえ・・・・」
 法帆は尺八を静かにさすり竹の硬さを掌に感じた。今日はなぜだかわからないが吹く気が起こらない。
「何なんでしょう・・・・」
 法帆が言葉を濁すように小さく呟くと、
「そうですか」
 マメはそれだけ言って無言になった。
「・・・・・・・」
 二人はしばらく無言で海を眺めた。言葉を出すとすべてが嘘くさくなる。無言のまま誠実でいたい。静寂の風が流れた。
「あっーー」法帆の中に或る思いが湧き起こり声が出た。「生きるとはどういうことなんでしょう?」
 唐突にマメに問うた。
「生きるとは・・・・」マメはしばらく間をおき、「生きるとはどういうことなのか、考えることなんじゃないでしょうか」
「考える・・・・・。答えはあるんでしょうか」
「その人によって、その日によって、状況によって違ってくるでしょうね」
「ということは・・・・・、誰も答えを教えてくれない」
「誰も教えてくれない」
「もしかしたら、考えることは無駄なのでしょうか」
「考えずに生きるほうが無駄でしょう」
「その問いがなくなったら・・・・」
「なくなるまで探し続けたとしたら、すばらしいことじゃないですか」
「なるほど・・・・」
 二人はまた沈黙した。
「あれはーー」
 マメが遠くを指差した。海岸線の遠くに足取りのおかしな人が歩いている。その人影を目を凝らして見つめていると、
「あ、船長・・・・」 
 大山は背を丸めるような姿勢で両足を引きずりながら歩いていた。法帆は立ち上がって大山の方へ歩み寄っていった。
「船長、大丈夫ですか」
「ノッポ・・・・」
 大山は法帆を認識すると安心して力が抜けたのか、ガクンと膝を落とし四つん這いになった。
「船長、ここは日差しが強いですから、陰へ移動しましょう」
 法帆は大山の肩を担ぐようにして木の陰へ移動させた。
「ああ、助かった・・・・。戻ってこられた・・・・」
 大山は仰向けに横になりながら虚ろな目で言った。頬はこけ、顔は土気色である。
「どうしたんですか? 一体何があったんですか?」
「俺は何日いなかった?」
「何日って、昨晩、嵐の中、洞窟から出ていったじゃないですか」
「昨晩か・・・・。ずいぶん長い間さまよっていた気がするが、たったの一日か・・・・。恐ろしいところへ連れて行かれた」
「恐ろしいところ?」
「そう、恐ろしいところ。白骨が散らばる殺風景な荒野に連れて行かれた。恐ろしかった」
「連れて行かれたって、誰にですか」
「子供だ。土着民の子供だと思った。嵐の中洞窟から出て、雨に濡れてしばらく歩くと、子供たちが笑いながら『こっち、こっち』って手招きするんだ。嵐の中こっちこっちって、どういうことだろうって不審に思ったんだが、それについて行った。間もなく嵐が止み、『ああ、よかった』って用を足して帰ろうとしたら道がわからない。いつの間にか荒野にいるんだ。荒野は果てしなく広がり、白骨が散らばっている・・・・。ここにいたら確実に自分も白骨化するだろって焦りに焦って走ったが抜け出すことができない。どれだけ走りつづけ彷徨っただろう、気がついたら海岸線に出ていた・・・・。ウッ」
 大山はそこまで話すと、白目を剥き出しにして意識を失った。
「船長、大丈夫ですかーー」体を揺すったが、意識は戻らなかった。「マメさん、どうしましょう」
「とりあえず洞窟まで引っ張っていって、安静にさせたほうがいいでしょう」
「はい、わかりました。ーー彼の話、彼の身に一体何が起こったんですか?」
「『森の童』ですね」
「森の童?」
「嵐の夜は森の中に童が出てきて、地獄へ連れて行くと言われています。よく彼は戻ってこられましたね。普通は戻ってこられません」
「森の童・・・・。そうだったんですか。ーーじゃあ、彼を洞窟まで運びます。小塚さんも寝たきりになっているし」
 法帆が、ぐったりとなった大山を担いで歩いていると、土着民の大人たちがやってきて手伝ってくれた。


   十六

 法帆は大山と小塚を看病する日がつづいた。大山は高熱を出して動けなくなり、小塚は眠りっぱなしでほとんど起き上がらなくなっていた。大山はうわ言のように「病院に行きたい。薬が欲しい・・・・」と言ったが、もちろん島には病院があるわけでも医者がいるわけでもなく、病は各々の生命力で克服しなければならない。この島は一見気楽そうに見えるが、崖下が「死」である断崖絶壁に張られた一本の綱の上を皆は慎重に歩いている。
 ある朝、小塚がいなくなった。法帆は洞窟の奥や水場の周りを歩き回って探したが、その姿を見つけることはできなかった。
「あ、マメさんーー」法帆は林でマメを見かけ声をかけた。「小塚さんを見かけませんでしたか」
「彼は昨晩、黒い人に山に連れて行かれたようです」
「黒い人・・・・」
「前にも話したことがあると思いますが、黒い人は生者を死に導きます。黒い人と洞窟を出て行くのを見た人がいます」
「そうですか・・・・」法帆はしばらく沈黙した。「ということは、もう・・・・」
「もう帰ってこないでしょう」
「そういえば、前に彼は、黒い老人が夢に出てきて『山に行こう』と誘ってくると言っていました」
「前兆があったんですね」
「ええ。ーーもし前兆があったとき、ぼくたちは何かできるんですか」
「死に対する心構えができます」
「その前兆をはね返して生存するためには、どうすればいいですか」
「運命には逆らえません」
 マメはそう言って小さく笑った。
「運命ですか・・・・」
 法帆もこの島で生活してきて、彼らの世界観、人生観、死生観を少しずつわかりかけていたので、「運命」という言葉が心に響いた。彼らは薄情なのでなく、淡白なのでもなく、ただ現実的なだけとも思える。彼らにとって死とは、別れでもなく、終わりでもなく、敗北でもなく、悲しいものでもなく、それは単なる輪廻する自然現象としてあるがままに捉えているように見える。
「ーー船長、大丈夫ですか」
 法帆が洞窟へ戻ると、大山は上体を起こしてぼんやりと座っていた。
「まだ体が重いが大分よくなった気がする」
「水、飲みますか」
 法帆が素焼きの土瓶に入れた水を差し出すと、大山はそれをグビグビと飲み干した。
「ハアー」大山は深く息を吐いた。「どうやら峠を越えたようだ。助かった気がする」
「よかったですね」
 法帆の目に映る痩せ細った大山は、漁船で癇癪を起こして殴りつけてきた過去の暴力的な姿とは別人のように弱々しく見えた。
「小塚は?」
 熱でうなされていた昨日までの大山なら、小塚のことを気づかう余裕はなかったが、今朝はそこまで頭が回るようだった。
「小塚さんはーー」法帆はどう言おうか言葉に窮した。「亡くなりました」と率直に言いづらい。「黒い人に山へ連れて行かれたようです」
 マメから聞いたとおりの表現で伝えた。
「そうか・・・・」
 この島の地獄を身を持って経験した大山は率直にその言葉を受け入れた。しばらく目を閉じて沈黙した。
「恐ろしいーー」声を絞り出すように言った。「この島は恐ろしい。文明国で生まれ育った俺がノホホンと生きていけるところではない。ーー小塚、逝ってしまったか・・・・。俺もいつ逝くかわからん。もう故郷の土地は踏めないだろうな。グフ、グフ、グフ」
 大山は嗚咽した。
「あ、子供たちが食事を持ってきてくれましたよ」
 子供たちが食事を持って立っていた。湿っぽい空気になっていたので、子供たちがいいタイミングできてくれたと法帆はホッとした。二人分受け取り、頭を下げて感謝の言葉をかけた。
 子供たちは突っ立ったまま興味深げに、悲壮感漂う大山の表情を眺めていた。その場から立ち去るとき、
「モウ コキョウノ トチハ フメナイダロウナ グフ グフ グフ」
 と、大山の口真似をして笑いながら立ち去っていった。
「何だ、馬鹿にしやがってクソガキめ」
 大山は忌々しげに子供たちの後ろ姿を睨みつけた。
     ※
 その日の晩、ノッポは一人で海岸線に出た。マメからたびたび夜一人でウロウロすると魔物に連れて行かれると注意されていたが、死んだ小塚を弔うために少し尺八を吹きたくなった。
 満月の晩だった。
 法帆は尺八の竹の感触を掌で感じながら、黒く揺れる海を静かに眺めた。日本社会で適応できず居場所のなかった自分がこの島で気楽に過ごせ、日本社会でうまく生きてきた小塚はまったく馴染めず逝ってしまった。大山も苦しみ喘いでいる。自分にとっては、人為的システムの中で生きてゆかねばならない日本社会のほうが、自然と調和し神々と共に生きるこの島よりよほど生き辛く感じるのだが、それは自分が特殊なだけなのだろうか。
 尺八を吹こうと歌口に唇を当てたが、東京での辛かった日々が脳裏をよぎり、尺八を下ろした。
ーーああ、パニック症は辛かった・・・・。
 妹の死と同時にパニック症を発症し、ちょっとした外出もできなくなった。近くのコンビニへ行くのでさえ大きな覚悟が要った。「大丈夫だよ。何にも起こらないよ」と自分で自分を慰め励ます。慎重を期すため、コンビニまで歩いていく道順と店内を歩き回るイメージをするが、それだけで胸の鼓動が激しくなる。「倒れてたとしても、誰かが救急車を呼んでくれるだろうから心配はないよ」とまた自分で自分を慰安する。心が平常でいられるまで何度もイメージを重ねるが、脈を測ると百三十を超えている。しばらく瞑想し、心を落ち着け、「行くか」と気合を入れ、合掌して頭を下げてから死ぬ覚悟で部屋を出る。帰ってくると、もうヘトヘトになっている。
 こんな状態では仕事なんかとてもできそうになかった。ーー失業。生活が破綻し、もう田舎へ帰るしかなかった。
 田舎の生活ーー。田舎は近所の家庭事情が筒抜け状態で、若い者が病気とはいえ閉じこもっていると、悪い噂が静かに広まってゆく。妹を喪い、ただでさえ鬱々とした家族。世間体を気にする両親は息子の汚名でさらにプライドを傷つけられ、険はますます強くなっていく。ちょっと想像しただけでもおぞましい家庭環境が頭に浮かんだ。
 そんな切羽詰まった状況のとき、菊乃先生から電話があり、「うちで静養したらどうですか」と嬉しい申し出があった。ありがたかった。手を合わせて感謝をした。先生といれば心の患いも早期に回復するに違いない。一縷の望みを抱き、図々しいことも承知で先生のお宅へ転がり込んだ。
 先生は生徒さんに尺八を教えること以外は、老いたお母さんの世話をしたり、庭の三畳ほどの小さな畑で家庭菜園をしたり、庭の樹木の手入れをしたりしていた。
「何も心配することはありませんから、安静にしていてくださいね」
 先生はいつもやさしく言ってくださった。奥の仏間に布団を敷いてもらい、そこで毎日じっと回復を待った。毎朝一度、先生は仏壇に手を合わせるため、静かに仏間に入って来られた。先生がお供え物を仏壇に供え、ろうそくを灯し、線香をあげ、静かに手を合わせているのを、布団に潜り込んで寝たふりをしながら眺めているのが日課となった。チーンと鈴が空気中を透き通るように鳴り、静粛な祈りが始まる。祈りが長いときもあれば短いときもある。先生は何を祈っていらっしゃるのか。ある日、先生がお祈りをしている後ろ姿ーー、体全体が白い後光で包まれているのが見え、後光って本当にあるんだと神聖な気持ちになった。
 先生が畑に出ているとき、たびたび手伝わせてもらった。先生は畑の前でしゃがみ込んで、「これはトマトでしょ、これはインゲン、これはモロヘイヤ・・・・」と楽しげに説明してくださった。
「小さな苗が少しずつ大きくなっていき、最終的にそれを収穫していただくでしょ。本当に感謝しかありませんねえ」
 ささやかなことで幸せを感じていらっしゃる先生の姿を見て、幸せとはこういうものなんだと自分の心に深く刻みつけられた。
 しかし家庭菜園は簡単ではなく、先生の野菜の葉はどれも害虫にかじられていた。先生は農薬を使うことを嫌がられていて、害虫を一つ一つ指でつまんで除去されていた。
「この虫たちも生きていきたいんだろうけど・・・・。生きるって罪なことなんですね」
 害虫をつまんでいるとき、そんなことを小さく呟かれたことがあった。
 先生のお宅は居心地がよかった。家の中でじっとしている分には普通に生活できるのだが、一歩外へ出るとーー、閉鎖的な空間に一定時間いなければならないとき、すぐに恐怖が襲ってきて発狂しそうになった。背中に憑いた荒ぶる霊は容赦がなかった。
 ある日の晩、安静にしているだけではよくならないと、外出して自分を追い込む荒療治を試みてみた。二階で寝ている先生に聞こえぬよう、玄関の引き戸を静かに開けて外へ出た。恐怖の感情を抱えたまま、「スーパーまで」と目的地を定め歩いていると、ドス黒い感情が吹き荒れ、苦しくて苦しくてしょうがなくなった。もちろん、こうなることはわかっていた。これを克服しなければ完治しないのだ。
「すべてのことは過ぎ去っていく。恐怖も不安も絶望も、それに巻かれずに客観視していれば過ぎ去っていくものだ」
 信念を固め、意地なってスーパへ向かって歩いていった。
 しかしスーパーまでたどり着いたはいいが、そこで凄まじい恐怖の感情の波に飲まれ、どうしようもなくなった。このままここで死んでしまうかも知れない。まったく動けなくなった。あまりの苦しさにご迷惑を承知で先生に電話をかけた。
「死にそうです・・・・」
 先生は就寝中、温厚な先生もここはさすがに怒られるだろうと思ったが、先生は、
「大丈夫ですか。すぐに行きます」
 心から心配した声でおっしゃい、寝間着姿のまま小走りで迎えにきてくださった。街頭の下、先生の姿が見えたとき、その姿が女神に見えた。
「ごめんなさい。早く社会に適応できるよう練習しようと思って・・・・」
 震える声で弁解がましく言うと、
「そんなこと・・・・。何も言わなくていいです」
 先生は、しゃがみ込んで動けなくなっている自分の背中を優しくさすってくださった。
「ゆっくりでいいから、ゆっくりでいいから自分のペースで歩いていきましょう」
 先生の細い指で自分の長い腕をギュッと握りしめ、ときおり立ち止まって星を眺めたりしながら家まで連れて帰ってくださった。まさに命の恩人だった。
 先生のお宅へ居候して二ヶ月ほど経ったが、病状はさほどよくならなかった。このまま甘えてずっとここにいたら、さすがに先生にご迷惑だと、田舎へ帰ることを決意した。
「先生に出会っていなかったら五年も東京にいられませんでした。治療には時間がかかりそうなので、やっぱり田舎に帰って静養します。ーー今の自分には何もできませんが、将来どうか恩返しさせてください」
 そう言って先生の家を出た。その後も、ーーあれから四年ほど経つが、何も恩返しができていない。それどころか何もできそうにない。無念である・・・・。
 法帆は月明かりの下、つくづくと尺八を眺めた。何か短い曲でも吹こうかと静かに尺八に口をつけたが、そのとき、「夜に吹いてはいけない」とマメに忠告されていたことが頭に強く響き、尺八を口から遠ざけた。
「オレは何をやってるんだ」
 自分が情けなくなってきた。
「ん?!」
 そのとき、林の方から不思議な鳥の声が聞こえた。
ーーフォ、フォ、フォ
 夜に鳴く鳥の声。悲しげに、そして美しく鳴く一羽の鳥。唐木さんの庭で聞いた鳥の声、船上で聞いた鳥の声。同じ鳥の声ではないか・・・・。
 その美しい声をいつまでも聞いていたかったが、その正体を確かめたくなり、声のする方へ、林の中を歩いていくと、パタリと声が止んだ。
「止んじゃった・・・・」
 夜の林の暗闇にシンと静寂が広がり、目に見えない存在がうごめいている不気味な気配を感じた。一人でいることが急に怖くなってきた。
「皆んなのところへ戻ろう」
 法帆は早足で集会所へ戻った。


   十七
 
 翌朝、いつもの朝と同じように木の下で目覚めた。爽やかな朝、清々しい目覚め。水場で顔を洗い、子供たちと果実を摘むのを手伝い、集会所へ戻ってくると今日は何だか様子が違っていた。物静かな土着民たちが大勢集まってざわついていた。
ーー何だろう。
 皆んなが集まる輪の中を覗き込むと、その中心にマメがいた。マメは敏感に法帆の視線に気づき視線を合わせた。
「何か起きましたか」
 法帆の方から声をかけた。
「今朝、海岸線を歩いていたら、珍しい鳥の羽を見つけました」
 マメはそう言って穏やかな笑みを見せた。
「珍しい鳥の羽ですか」
「ええ、これです」
 マメは大人たちの手にあった鳥の羽根を指さした。白っぽい羽だった。土着民たちはその羽根を一人ひとり手に取り真剣な表情で見つめ順番に回していた。法帆の手にもその羽が慎重な手つきで手渡された。
「きれいな羽ですね」
 法帆は恍惚として眺めた。長さは二十センチほど、細く柔らかい毛並み、全体的に色は白銀色をしているが、角度によって赤や青や緑の輝くような斑点が見える。鼻を近づけると金木犀のような高貴な香りがほのかにした。
「この羽の大きさからして、躰の大きな鳥ですね」
 法帆は羽をマメに手渡しながら言った。
「大きな鳥かどうかわかりません」
「どういうことですか」
「珍しい鳥と言いましたが、実はこれは神の鳥なんです。実物を見た者は誰もいません。その羽がなぜか落ちていたんです」
「だから皆んな興味津々なんですね」
「とても縁起がいいものです。これは無くさないよう、風に飛ばされない安全な場所に大切に保管しておかねばなりません」
「そうですか・・・・」
 法帆は相槌を打ちながら昨晩のことを思い出していた。
「実は昨晩、海岸線の林で不思議な鳥の鳴き声を聞きましたーー」
 法帆は、昨晩聞いた鳥の鳴き声のこと、声のした場所などをマメに細かく説明した。他の土着民たちも会話が聞き取れるのか、真剣に耳を傾けている。
「フフフーー」マメは柔らかな笑みを見せた。「その鳥の羽かも知れませんね。多分その鳥の羽でしょう」
「じゃあ、ぼくが聞いたのは神の鳥の声ですか」
「そうでしょう。よかったですね」
「ハハハ」
 法帆はあまりの嬉しさに笑いがこみ上げてきた。土着民たちも法帆の表情を見て一緒になって笑いだした。
「神の鳥だったかあ・・・・」
 法帆はもう一度羽を手に取り、じっくりと隅々まで興奮気味に眺めた。この羽を手にすると不思議と体が熱くなるのを感じた。
     ※
 それから数日経ち、日中、大山が砂浜で海を眺めながらボンヤリしていると、海上に船が通りかかるのを発見した。その船は遠くにあり、どんな種類の船なのか判別できなかったが、大山は飛び上がるように立ち上がって波打ち際に駆け寄り、「おーい!」と気が狂わんばかりの大声で叫んだ。
「おーい! おーい!」
 大山は必死で何度も叫び、両腕を大きく振り回し、ピョンピョン飛び跳ねた。こんなところに船が通りかかるなんて一生に一度の大チャンス。このチャンスを逃したらこの地で骨を埋めなくてはならない。
 船に大山の念が届いたのか、進行方向を変えて島に向かってやってきた。
「よしっ、来た! こっちだ、こっちだ」
 近づいてくる船は小さな木製のオンボロ漁船だった。それでもエンジンがついている漁船である。甲板には漁船員の三人が立って、海岸線で手を振る大山を警戒心を含んだ目で観察していた。漁船員はアジア系の顔つきでTシャツに短パン姿、土着民と違い現代的な風貌をしている。彼らは海岸線近くまで寄ってきたが船から降りてこようとはしなかった。なんせ大山は服を来ておらず、腰蓑をつけた半裸体である。一見して文明人、日本人だとは絶対わからない。
「ハロー・ハロー。プリーズ・プリーズ、ヘルプ・ミー」
 大山は大きなゼスチャーを加えて必死で話しかけた。
「ユー・ステー・ヒア」
 一人の漁船員が英語で返してきた。相手も片言の英語が話せるようだ。
「ノーノー、マイ・ホーム・ジャパン。プリーズ・ヘルプ・ミー」
「ユア・ジャパン?」
「イエス。ファット・ユア・カントリー?」
「インドネシア」
「グッド、グッド。テイク・ミー・ユア・カントリー・トゥギャザー、オケー?」
「ホアイ?」
「マイ・ボート・・・・」ここで大山は転覆事故と言いたかったが英語がわからなかった。かりにその単語を知っていたとしても彼らには通じないだろう。「えーと、マイ・ボート、ブレイク、ミッシング」
 知っている単語をつなぎ合わせ、ゼスチャーを交えて表現した。
「アイ・スィー。オーケー」
 彼らは大山のおかれている苦境を理解したようで、漁船は波打ち際まで近づいてきた。
「オー、サンキュー」
 大山は、砂浜に降りてきた漁船員たちにペコペコ頭を下げて握手を求めた。漁船員たちは大山の興奮した様子を見て呆れたように笑って握手に応じた。
「ユー・ゴー・ナウ?」
「ジャスト・モーメント・プリーズ。アイ・チェンジ・ウェアー。アンド、コール・マイフレンド。テン・ミニッツ、ウェート、オーケー?」
「オーケー」
 大山はまず海岸線の林を見回し、大声で叫んだ。
「ノッポ! ノッポ!」
 いないようだ。いつもはこの辺りにいるはずなのに。集会所へ向かって駆け出した。林を抜けていく道々でも「ノッポ、ノッポ」と叫びながら走った。
 集会所に着くと、そこには土着民たちのいつもと変わりないのんびりとした風景があった。そんな中、大山は一人汗だらけになり必死の形相で叫んだ。
「ノッポ!、ノッポ!」
 返事がない。土着民たちは大山の様子を不思議そうに眺めている。
「ノッポ、どこだ、畜生! 彼らが行ってしまうだろ!」  
 大山は洞窟に入って、折り畳んで蔵っていた作業着に着替え、シューズを履いた。洞窟から出てくると、法帆がちょうど林の方からのっそりと歩いてきた。
「ノッポ、大変だ!」
 大山は叫ぶように言った。
「どうしたんですか」
「どうしたも、こうしたもない。助けが来た。インドネシアの船がやってきた。今、彼らは海岸で待っている。すぐに着替えろ。日本へ帰れるぞ!」
 大山は半狂乱になっていた。
「は、はい」
「急げ、ノッポ」
 大山は法帆の腕を引っ張った。 
「ちょっと、待ってください。ぼくも着替えます。それと尺八が洞窟に置いてあります」
「わかった、わかった。俺は先に行って彼らを引き止めておくから急いで来い。彼らの気持ちが変わったら大変だ。じゃあーー」
「は、はい」
 この前まで病に伏していた大山にそんな力がどこに潜んでいたのか、脱兎のごとく俊敏に駆け出していった。
「日本に帰れるのか・・・・」
 法帆は突然のことで気持ちの整理がつかず混乱した。しかし混乱した意識とは裏腹、無意識が体を自動操縦するかのように、この島にやってきたときの服装、Tシャツとスウェットパンツに着替えて尺八を握りしめた。
 洞窟から出ると、マメを含め大勢の土着民たちが集会所に集まっていた。
「マメさん、どうやら私は突然帰ることになったようです」
 法帆は他人事のように言った。
「そのようですね」
 マメはにっこり微笑んだ。
「ハアー、そうなんですか・・・・」
 法帆は目を伏せ、持っていた尺八を固く握りしめた。
「帰るのかあ・・・・」
 顔を上げ、集まった土着民たちを見回して言った。
「今まで本当にありがとうございました。皆さんがいなかったらここで生きていられませんでした」
 深々と頭を下げた。集まった土着民たちもやさしく微笑んだ。
「マメさんーー」法帆は跪いてマメに視線を合わせ、しばらく沈黙した。「あのう、ぼくたちは皆さんにいろんなものを与えていただきお世話になりました。でも皆さんに何もお返しができません。だから、あのう、これは、ぼくが命の次に大切にしているものです。どうか、受け取ってください」
 法帆はマメにしずしずと尺八を差し出した。
「はい」
 マメはそれを慎重な手つきで受け取った。尺八を手にすると、「ちょっと待ってください」と言って洞窟へ入っていき、すぐに戻ってきた。
「これを受け取ってください」
 マメは先日拾った鳥の羽を法帆に渡した。
「え・・・・」法帆は絶句した。「これは貴重なものじゃないですか。そんなものをぼくに・・・・」
「ええ、これはあなたが持つべきものです」
「そうですか・・・・」
 法帆は鳥の羽を手にすると緊張して小さく手が震えた。
「船が待っているようだから、急いで行ってください」
「はい」
 マメは法帆の背中に軽く手を触れた。集まった土着民たちも一人ひとり、法帆の背中に軽く触れてきた。これは彼らの文化にある愛情表現なのだろうと思った。触れられると、言葉で言い表さなくとも彼らの親愛なる気持ちが胸に伝わってきた。
「お世話になりました。ありがとうございました」 
 最後に法帆は頭を下げ、足早に歩き出した。しばらく歩いてもう一度振り返ると、もう土着民たちはバラバラに解散していたが、マメだけはこちらをじっと見つめていた。法帆は立ち止まり、羽を両手に挟んだ状態で合掌し、もう一度深々と頭を下げた。
ーーこれで一生のお別れなのか・・・・。
 法帆は振り返り猛烈な勢いで走った。
ーーこの島から本当に出るのか? いや、出るべきなのか? 自分は日本に帰って何をするんだ? 何ができるんだ? でもこの島にいても・・・・。
 法帆の脳裏にいろんな迷いが生じた。それでも海岸に向かって足が自動的に進んでいく。
ーー本当にこれでいいのか? 引き返すこともできるが・・・・。でも、先生に・・・・。
 菊乃先生の姿が鮮明に浮かんだ。
「こっち、こっち、ノッポ!」
 林から海岸線に出ると、大山が手を振って叫んできた。
「ーーナイス・トゥ・ミー・チュー」
 法帆は船に近づき、船員たちと握手をした。
「帰れるぞ、ハハハハ」
 大山は興奮して赤らめた顔で狂気的な笑みを見せ、船に乗り込んだ。法帆もその後につづいた。
 船のエンジンが始動すると、船は海岸線から少しずつ動き出し、あっという間に緑の島の全体像が見える距離まで離れた。海岸線には誰一人見送りはいなかった。
「さようなら」
 法帆は小さく呟いた。
 船はスピードを上げ、島は徐々に小さくなっていった。法帆は島が完全に見えなくなると、自分の身体の一部が失くなってしまったような空虚な気持ちになった。そして、あの島には一生行くことはないだろうという確信めいた予感がした。


   十八

 漁船にはほとんど風を遮るものはなく強風が吹きつけてきた。法帆は、胸のポケットに入れた鳥の羽が飛ばされないか、しきりに手を当て気にしていた。時折、ポケットから羽を出して手にとったが、汗がついて汚れたり毛が抜ける恐れがあるので、すぐにポケットに戻した。
「あれーー」大山が声をかけてきた。「ノッポ、お前、大事な尺八は?」
「尺八は・・・・、実は、マメさんに別れの挨拶をしたとき、島に寄贈してきました。彼らは命の恩人ですし、あの尺八はあの島にいるべきな気がしまして」
「そうか、あんなに大事にしていた尺八を・・・・」
 大山は感慨深げに言った。
「で、さっきから手にしてるそれは何だ?」
「これは・・・・」
 法帆は鳥の羽を大山にあまり見せたくなかった。なぜなら見せると必ず触ってくる気がする。この高貴な羽をガサツに汚い手で触られたくない。自分以外の手で触れるのはーー、法帆の頭の中にすでに明確なビジョンがあった。この羽は菊乃先生に贈呈するつもりだった。
ーー先生はどうおっしゃるだろう。神の鳥の羽である。先生から頂いた尺八は神の鳥に変わった。先生はそんな話を聞くと、きっと目を大きくされて驚かれるに違いない、フフフ。
 法帆は、先生にこの羽を渡すイメージを妄想すると、自然と笑いがこみ上げてきた。
「だから何なんだ。何が可笑しいんだ?」
 大山は、ニヤニヤしている法帆を訝しげに眺めながら言った。
「いや、何でもありませんーー」法帆は笑いを抑えた。「あ、これは、あのう・・・・、マメさんから島の思い出に、と頂きました」
 法帆は「神の鳥」という劇的な言葉を使わず、大山に興味を持たせないよう淡白な言葉を選んで言った。
「そうか、どれーー」
 大山が手を伸ばしてきた。
「いや、ダメなんです。これは島の精霊が宿る羽なので、ぼく以外の人が触ると呪われると言われています」
「そうなのか!」
 大山は島での恐怖体験によほどトラウマが残っているらしく、その場でデッチ上げた話なのに極端に怯えた表情になって手をさっと引っ込めた。
ーーやれやれ。
 しかしインドネシア人の漁船員たちも、法帆の手にする一本の鳥の羽のことが気になり、「それは何だ」と訊いてきた。彼らにも触られたくなかったので、「お守りだ」と言おうとしたが、その英単語がわからず口ごもった。
「ええ、ええ・・・・、ディス、イズ、オマモリ」
「オマモリ?」
「ええ、ええ・・・・」
 すると大山が横から、合掌して祈るゼスチャーをしながら言った。
「イッツ、ゴッド、アイテム」
「オーケー、ゴッド、アイテム」
 漁船員たちは理解したようだった。大山はマグロ漁船で多くのインドネシア人を雇ってきた経験から、どう言えば相手に通じるか会話のツボをわきまえているようだった。
     ※
 法帆と大山はインドネシアの小さな漁村の島からジャカルタの日本大使館に送られ、身元調査や漁船の事故の経緯などの長い聞き取り調査の後、日本へ送還されることになった。二人はもちろんパスポートもなくお金もなく、さらには死者が出ている漁船事故だったので事件性も疑われ、手続きや調査は簡単なものではなかった。
「何か疲れたなあ」
 大山は飛行機の座席に身をもたれかかりながら憔悴した様子で言った。
「ええ」
 法帆も最小限の言葉を出すのが精一杯だった。小さな漁村の島からジャカルタに着いて、とにかく目まぐるしかった。自然に則った原始生活からベルトコンベアに乗せられているような近代生活への急転換。島では「今」という時間しかなく、自分の感覚の赴くまま時を贅沢に消費していたが、文明国では「未来」と「過去」という時間観念が重くのしかかり、意味ある行動で計画的に時を過ごさなくてはならない。便利であり、快適であり、清潔であり、効率的ではあるが、感謝という気持ちはどこかの陰に身を隠し、不安という気持ちは行く手を阻む壁のように大きく立ちはだかってきた。
「日本に帰ったら何を尋問されるんだろう・・・・」
 大山の口からは弱気な言葉と溜息しか出てこなかった。船の最高責任者であった大山は徹底的に責任追求されることが明確に予測された。
「地獄から脱出できたと思ったら、天国に行けるわけではなかったんだな。地獄の後の地獄か、ハアー」
「でも、どういうことなんでしょう。島に一年もいたなんて」
 法帆は今だに信じられなかった。時計もカレンダーもない中で生活し、その期間は一ヶ月ほど、長くとも数ヶ月だと思っていたが、実際は船が遭難してから一年も経っていた。
「そうなんだよなあ。一年って変な気がするなあ。それに大使館の奴ら、『土着民との交流』をどうしてこんなに疑うんだろう。こんなことなら、漁船員に発見された時、彼らに島の土着民たちをきちんと紹介しておくべきだったなあ」
「そうですねえ。我々は嘘つきか、狂人扱いですから」
 大使館員に調査を受けているとき、文明に接したことのない土着民との生活の話はまったく信じてもらえなかった。救出してくれた漁船員たちに連絡をとっても、あの島には人は住んでいないと言っているらしかった。
     ※
 飛行機は成田空港に到着し、二人は空港から様々な手続きを経て出るくると、家族との再会という感動的な一幕もあったが、休む間もなくすぐにマスコミの記者会見会場に連れて行かれ、激しくフラッシュを浴びせられ、矢継ぎ早に質問を受けた。なんせ行方不明になったマグロ漁船の乗組員が一年ぶりに帰ってきたのである。
 記者の質問は、インドネシアの大使館で受けたものと同類のものだったが、話のテンポの速さ、緊迫した雰囲気ーー、そんな中で二人は自分が何を話しているのか自分でもよくわからない状態になった。「奇跡の生還」ということより、死者が出た刑事事件という方が重く取り上げられ、犯罪者であることが前提で取材するマスコミもいた。島での生活もやはり半信半疑でしか理解してもらえず、混乱気味になった大山は、島で行われたダンスだと言って体をくねらせてそれを披露すると、会場のマスコミ陣は呆れたように冷笑し目を伏せた。
 記者会見が終わると、二人はそのまま病院に連れて行かれ検査入院させられた。危険な病原菌を持っている恐れがあるとの名目らしかった。法帆は島では健康的に暮らしていたが、帰国してからストレスで下痢になり、入院するにはちょうどよかった。
 三日間入院し、退院となった。大山は法帆と最後に別れる際、
「まだまだ落ち着ける状態にはならないが、仕事を始めたらまた一緒にやろうな」
 芝居っ気のある笑みを浮かべ握手を求めてきた。
ーー島で稀有な体験をともにし、別れの言葉は社交辞令か。マグロ漁船であれだけノロマだの役立たずだのと散々罵倒してきて、「また一緒にやろう」はないだろう。
 法帆は大山の気持ちの裏が読み取れ白々しい気持ちがしたが、曖昧な笑みを浮かべて握手に応じた。しかし考えてみれば、それ以外に別れの言葉といっても適当なものがないのかもしれない。
 両親には「しばらく東京にいるから先に帰って」と言っておいたので、病院を出ると一人、自由になれた。手元には、幾ばくかの金銭と小さなインドネシア製の巾着袋しかない。スマホは出航する前に解約していたので持っていない。スマホの契約やら、失ったカードの再発行やら、新しい生活が始まる前にやらなければならないことが諸々あったが、そんなことはどうだってよかった。
ーー菊乃先生。
 とにかく、すぐに先生に会いたかった。遭難した漁船員が奇跡的に帰還したというニュースは聞いていらっしゃるだろうか。自分はしぶとく生きて帰ってきた。手にしている小さな巾着袋は、救出してくれた漁船員にもらったもので、鳥の羽が入っている。村に着いた時、「お守りの鳥の羽を入れる袋が欲しい」と言ったら、彼らの家族が手作りの巾着袋をくれた。これで鳥の羽を安全に持ち運びできると、どこへ行くときもこの巾着袋を肌身離さず持ち歩いていた。
 最寄りの駅を降りて、馴染みある町を足早に歩いた。歩き慣れた町。一年前とまったく変わっていない。目をつぶっても先生の家にたどり着ける。
 スーパーの前を通り過ぎた時、平日なのにシャッターが閉まり、寂れた建物になっているのが目に入った。足を止めた。
ーーツブれたのか。
 資本主義の厳しい競争社会、資金の乏しい小さなスーパーは生存が難しい。諸行無常である。
 フッと一呼吸し再び歩き出した。ここからまっすぐ進んで、角の八百屋を曲がり、住宅街に入っていく。
ーー最初、なんて挨拶したらいいだろう。「先生、帰ってきました」「ご無沙汰しています」「恥ずかしながら帰って参りました」
 いろんな挨拶の言葉をイメージすると頬が緩んだ。頬が緩むどころか、なぜだかポロポロと涙がこぼれてきた。
「もうすぐだーー」
 涙を手で拭いながら見覚えのある家の前を通り過ぎたが、先生の家には着かなかった。
「ーーあれ」
 立ち止まって振り返った。行き過ぎていた。興奮していて通り過ぎてしまったのか。踵を返して足早に戻ったが、また先生の家を行き過ぎてしまった。
「どういうこと・・・・」
 そのとき体が急速に冷たくなった。足を引きずるようにゆっくりゆっくり歩き、先生の家の前で立ち止まった。
「・・・・・・・」
 家は無くなっていた。先生の家は更地になってロープが張られていた。法帆は更地の前で突っ立ったまま動けなくなった。
「平垣があって、庭には畑と樹木があって、縁側から座敷が見えて・・・・・」
 それらは何も無くなっていた。
 法帆はロープをまたぎ越し更地の中に入った。更地の真ん中に立ち、精神を鎮めようと何度も深呼吸をした。心が動揺しすぎてうまく呼吸ができない。
ーー先生はどこへ・・・・。
 法帆はがっくりと跪き、倒れ伏すようにように大地に額をつけた。座敷でいつも鳴らされていた尺八の音はもう聞こえない。庭の木に度々やってきた小鳥の鳴き声もない。通りを走り抜ける車のエンジン音が無機質に響くのみ。
 法帆はハッと思い出したように上体を起こし、巾着から鳥の羽を取り出し、それを額に当て目を瞑った。
ーー先生・・・・。
 そのとき、バサッと背後から音がしたのでギクリとして目を開け、ゆっくりと振り返った。一羽のカラスが至近距離にいて、丸い目で不思議そうに法帆を眺めていた。

       (了)2018年作                    
 


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