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ムシの多いレストラン(短編小説)

 男は三十三歳、独身。大手IT企業に勤めるシステムエンジニアである。金曜日のこの日、いつもより早い時間の午後六時半に仕事を終わらせた。会社のロッカーでクリーニングしたばかりのYシャツとジャケットに着替え、脇の下に香水をシュッとひと吹きさせた。鏡に向かって髪も念入りに整え、顔の脂をあぶらとりフィルムできれい拭き取った。
 今晩七時にレストランの予約が入っていた。そのレストランは、最高のジビエ料理を提供する名店として食通たちの間ではよく知られたレストランだった。グルメサイトでの評価も高く、予約が取れないレストランとしても有名である。男は予約してからちょうど一年も待たされ、今晩ついにそのレストランへ行けることになったのだ。
 レストランはドレスコードもあり、ヨレた身なりでは店に入れてくれない。男はそういった客を選別するところも味を担保していると評価していた。客を選ばず闇雲に集客を謀るレストランは碌な店がない。利益率を上げるため、原価の安い粗悪な材料を使っていたり、料理人は学生アルバイトか、不法入国外国人にマニュアルで作らせている。きちんとした店は客もそれなりのマナーを必要とするものである。
 レストランはわかりにくい場所にあった。繁華な通りから裏通りに入って奥へ進み、街灯もまばらな薄暗い路地にあった。
「ここかあ・・・・」
 男はレストランの建物の前で立ち止まってその外観を眺めた。レンガ造りの欧州風の建物で、重厚感のある黒い扉の両脇に古めかしい白熱灯がオレンジの光でほのかに照らしている。何ともいい感じである。この隠れ家のような場所にたどり着いたというだけで、秘密のグルメを味わえる選ばれた客としての誇らしさを感じた。
「とりあえず・・・・」
 スマホを取り出し、フェースブック用の写真を自撮りも含めて数枚撮った。
「さて、いざ出陣ーー」
 ドアの金属製の取っ手を握りドアを開けようとしたときだった。
ーーパタパタ、パタパタ
 目の前を大きな蛾が飛んできた。
「ギャーッ!」
 思わず叫び声をあげ上体をかがめてしゃがみこんだ。男は虫が大の苦手だった。しゃがみこんだ姿勢で頭を抱え、そのままドアからゆっくり距離をとり、蛾がどこにいるかこわごわ頭を上げて確認した。蛾は白熱灯の脇に張り付いている。
「何で蛾がいるんだよ、気持ち悪い。蛾の鱗粉で肌が荒れたらどうするんだ、まったく・・・・」
 男は不快と恐怖が入り混じった気持ちだった。蛾が飛び回らないようできるだけ静かに動き、そっとドアを開けた。
ーーカラカラ、カラカラ
 ドアを開けるとドア鈴のくぐもったような金属音が鳴った。できることなら音など鳴らさないで欲しい。蛾が驚いて飛び回ったら大変だ。蛾が動かないことを確認し、すみやかに店に入ってサッとドアを閉めた。
ーーよかった。入ってこなかった・・・・。
 男はフーと息を吐いた。店内はエアコンが効いていて気持ちがいい。蛾を見て興奮したためか首筋とおでこから汗が滲み出ていた。ハンカチで汗を拭った。
「いらっしゃいませ」
 若いウェーターが、ーー白いシャツ、黒いズボン、腰に巻いた黒いエプロン姿のウェーターが、落ち着いた声で出迎えた。
「お一人様ですか?」
「え、ええ」
 男は少々挙動不審気味にこたえた。ウェーターは、恐怖の余韻が残る男の表情にまったく頓着しない様子で、淡々とした業務口調で席まで案内してくれた。
「フー・・・・」
 男は椅子に腰を下ろしもう一度深く息をついた。レストランに入店する前にこんなハプニングがあるなんてまったく想定していなかった。とんだ災難だった。運ばれてきた冷たい氷水をゴクリゴクリと喉に通し、冷たいおしぼりで顔と首筋の汗をもう一度拭った。
「やれやれ・・・・」
 冷静さを取り戻し、ゆっくりと周りを見渡した。店内は予想以上に広く、壁には原色を使ったシンプルな抽象画が数枚飾られている。電飾の光は明るすぎないよう配慮され、テーブルの一つ一つにはグラスに入れられたキャンドルが灯されている。真っ白いテーブルクロスは清潔で気持ちがいい。他のテーブルは『孤独なグルメ』といわんばかりの味にうるさそうな中年男性の一人客ばかりで埋まっていた。この店は注文を取りにこないはずだ。グルメサイトで仕入れた情報だが、すべての料理は料理人のお任せである。最高の料理人がその日に仕入れた新鮮な材料を最適に調理する。その極上の料理を客はただひたすら味わうばかりである。
 男は、もうすぐ運ばれてくるであろう料理を想像して頬を緩ませた。
「あ、そうだーー」
 スマホを取り出し、白いテーブルクロスに煌々と揺れるキャンドルライトの写真を撮った。これもフェースブック用である。
「いい感じで写真が撮れたぞ」
 撮った写真を確認しているときだった。
「ん・・・・」
 白いテーブルの上に一匹の蝿がとまった。黒くて丸々と太った蝿だった。男は、いま自分は悪い夢を見ているのではないかと目を何度もしばたたかせた。しかし蝿は幻ではなく現実である。蝿は悠長に手をゴシゴシと擦り合わせウォーミングアップに余念がない。擦り合わせている蝿の手の平から有害なバイ菌が白いテーブルクロスに落ちる様子が脳内でイメージされ、いたたまれない気持ちになった。
「シッーー」
 男は手首のスナップを利かすようにして蝿を追い払った。
「ゴホッ」
 小さく咳をつき、グラスの冷たい水を一口、口に含んだ。
ーー幻だ、幻だ。 
 男は目を閉じてしばらく黙想した。現実をどうしても受け入れたくない。そっと目を開けると、やはり白いテーブルの上に黒い蝿が手をスリスリしている。しかも今度は一匹ではなく二匹である。
ーー蛾の次は、蝿か・・・・。
 エアコンの風が冷たく感じてきた。おれは蝿がいるところで飯を喰わなければいけないのか・・・・。そんなことを考えていると男の鼻の頭に蝿がとまった。
「ヒッ!」
 手の指先でサッと追い払った。男は蝿の触れた鼻筋をすぐにおしぼりで何度も拭き取った。気のせいか、蝿のバイ菌のせいか知らないが、鼻の頭が何だかムズ痒い。しかし蝿は容赦なく執拗にテーブル周辺を飛び回り、しかも三匹に増えている。これは堪らない。食中毒にでもなったら店はどう責任とってくれるんだ。ウェーターを呼ぼうとキョロキョロと店内を見渡したが、こんなときに限ってウェーターの姿はない。
「チッ・・・・」
 舌打ちをした。楽しみにしていたレストラン、名店だと聞いていたレストランがこの様か。期待値が高かっただけにそのショックも大きく腹立たしい。蝿はさらに仲間を呼び寄せ、白いテーブルに大小五匹の蝿たちが意気揚々としている。一体、何匹いるんだ? 憎しみを込めて大きく腕を振って蝿を追い払ったら、すぐさま逆襲を受けた。顔や頭や耳の上、体中の至る所に馴れ馴れしくとまってくる。体につかないようひっきりなしにタコ踊りをしつづけなければいけなくなった。
「何てこった・・・・」
 男はスマホを取り出しツイッターに書き込みをした。
『某有名レストラン、店内蝿だらけ!』
 証拠写真も押さえておこうと思ったが、蝿の動きが素早いのと小さすぎるということもあってうまく撮れない。
「お待たせいたしましたーー」ウェーターが料理を運んできた。「七種の季節の野菜を使った蒸し物ででございます。白胡麻のソースでお召し上がりください」
 前菜の小鉢がテーブルに並べられた。
「ウェーターさんーー」男は威厳を込めた低い声で言った。「蝿がたくさんいて困ってるんだ。どうにかできないかね?」
「は、はい・・・・」
 ウェーターは困惑した表情を浮かべた。共感能力の乏しい男のようで、こちらの困った気持ちがほとんど伝わらないように見える。ウェーターはしばらくテーブルの前にポカンと立ち蝿を待ち構えたが、こんなときに限って蝿は一匹もやってこなかった。
「あれ、おかしいなあ・・・・。席についてからずっと蝿が何匹もいたんだが」
 男はいいわけがましく言った。
「ごゆっくりお召し上がりください」
 ウェーターはマニュアル通りの慇懃な言葉の内に「変な言いがかりはつけないでくださいね」という批難を暗に含ませ立ち去っていった。
「何だい、畜生・・・・」
 これでは俺がタチの悪いクレーマーのようだ。本当に蝿がたくさんいたのに・・・・。男は落ち着いた気持ちになれなかったが、目の前に置かれた小鉢の料理を機械的に箸をつけた。
「ん!」
 さすが予約の取れない人気店だけあって味はなかなかである。頬が一瞬緩んだそのとき、また小鉢の縁に蝿がとまった。
「汚い!」
 料理の上だけはとまらせてはならないと瞬時に追い払った。しかし、その一匹はほんの序章に過ぎず、ウェーターが来たときはまったく姿を消した蝿だったが、なだれ込むように集まりだした。テーブルの上を、料理の上を、または肌に直接、蝿たちは我が物顔でとまってくる。蝿を払うのに忙しく料理を食べているどころではない。ましてや料理の味などどうやって味わえというのだ。
ーー他の客はどうしてるんだ?
 周りの客たちを眺めたが誰も蝿を気にする素振りを見せていない。悠々と食事を楽しんでいる。
ーー何だ、俺だけか? なんで俺のところにばかり蝿が来るんだ?
「メインのジビエの炭火焼きでございます。二種類のスパイシーソースでお召し上がりください」
 ウェーターがやってきたので改めて苦情を言った。
「蝿がね、さっきも言ったが、蝿がヒドいんだよーー」男は殊更大きな声で言った。「どうにかしてくれよ!」
 ウエーターは表情を変えずに「は、はい」と困ったように頷くだけである。そのとき、料理の大皿に蝿がとまってきた。
「だろ?」
 男はウェーターの目を覗き込んで言った。蝿は次から次へとテーブルを飛び回り、料理の皿やテーブルの上にやってきた。さすがにウェーターもうろたえた出した。
「で、でも、どうにかしろと言われましても、食事の席で殺虫剤は使えませんし・・・・」
 二人でテーブルの上を払いつづけたが、捕まえるわけでも殺すわけでもないので数が減るわけではない。
「わかった、わかった、もういいよ。料理が冷めるから」
 男はウェーターを立ち去らせた。
ーージビエ料理は蝿にとって最高のご馳走なのだろう。蝿は嗅覚がいいから特別な匂いを感じるのかもしれない。欲と本能に任せてしか生きられない愚かな虫ケラに、モラルや規律を求めてもしょうがない。虫ケラとは何とも困った存在だ。地上の生きるゴミだ。確かにこのレストランは料理の味はまあまあだが、蝿がこんなにいちゃあ話にならない。減点も減点、ウェブの評価コメントにボロクソ書いてやろう。
 男は片手で蝿を払いながら料理を食べ、蝿のいない僅かな隙を突いてツイッターに書き込みをした。
『蝿の大群にカラまれて食事どころではない。某有名ジビエレストラン、最悪中の最悪、マイナス百点!』
 次にスープが運ばれてきた。
「骨付き肉と内蔵を香辛料と一緒に三日煮込んだスープでございます。熱いのでご注意してお召し上がりください」
 男は心からの不快感を表現するためウェーターには一瞥もくれてやらず、腕組みをして眉をしかめ遠くの一点をじっと睨みつけた。湯気を上げた熱々のスープが男のテーブルに置かれている。濃厚そうなスープに具が山盛り入っていて、香ばしい香りが漂ってくる。
ーーこれはなかなかウマそうだ。
 スープに手を伸ばそうとしたとき、皿の縁に大型の蝿がとまった。
「おいっ!」
 男は急いで蝿を払った。が、その瞬間、思わぬ悲劇が起きた。飛び立ったはずの蝿がスープの中に落下したのだ。どうやらスープから立ち上る湯気の熱さに耐えきれず、スープ上空で卒倒したようだった。
「あっ!」
 男は咄嗟に蝿を指で摘んでテーブルの上に投げた。黒い蝿は熱いスープに茹でられて即死、白いテーブルにベッチャリとなって横たわっている。
ーーあっ、俺は素手で蝿を触ってしまった・・・・。
 男は冷静であれば絶対に触らないであろう蝿を思わず触ってしまったのだ。しかも熱さで指がヒリヒリと火傷気味である。
ーーなんてこった。ち、畜生・・・・。料理に蝿が入るなんて。もう我慢ならない。
「ウェーター!」
 男はマナーも何も考えず立ち上がって大声を出した。他の客たちは男の方を見たがもうそんなこと知ったこっちゃない。ウェーターは表情を変えずスタスタとやってきた。
「どうかなされましたか」
 その感情のこもっていない薄っぺらな態度にさらに苛立ちは募った。
「どうかなされましたか? あのねえ、蝿がね、スープに入ってきたんだよ。これ、この黒い蝿ーー」テーブルの上の死んだ蝿を指さした。「この店の衛生管理はどうなってるんだ?」
「は、はあ」
 やる気のない曖昧な返事が返ってきた。
「は、はあ、じゃねえんだよ」
「すぐにお取替え致します」
 ウェーターはスープの皿と、他の料理の空いた皿を持ち去っていった。しかしテーブルの上には蝿の死骸が転がったままである。
「これも片付けろっていうんだ」
 男は眉間に皺を寄せながら、ティッシュに蝿の死骸を包んで足元にポイと捨てた。お手拭きで蝿を触った指先を念入りに拭いていると、強い怒りがどんどんと湧き起こってきた。
「高い金を払って『蝿入りのスープ』とは聞いて呆れるわ」
 このまま出ていこうかと思ったが、
ーーいやその前に、蝿の死骸をツイッターにアップしてやろう。あっ、捨ててしまった。
 足元に転がっているティッシュのゴミを恨めしく見つめた。
ーーもう一度蝿をテーブルに乗せて写真を撮ろうか・・・・・。いや、待てよ。そんなグロ画像をアップすると炎上するかもしれないぞ。それに、あの汚い蝿の死骸をまた見るのは嫌だし。ここは我慢だ・・・・。
 男は深呼吸をして気持ちを落ち着けた。
「フー・・・・」
 そのときだった。前方の窓際の空いた席に一人の若い女性が座るのが目に入った。このレストランの客は中年男ばかりだと思っていたが若い女性も来るようだ。彼女は帽子とマスクで顔を隠しているが、長い茶色みがかったやわらかそうな髪の毛、白くスラリとした首筋、なんとなく美人のオーラを漂わしている。男の意識は蝿からスッとその女性に移った。
 女性は目深に被った帽子とマスクを徐ろに外した。
「Aピョン・・・・」
 男は視線が釘付けになった。なんとアイドルグループHAEのメンバーで一番人気のセンターの女性だった。男はHAEオタクで、しかもAピョンのことは一番の推奨女子、握手会で何度も握手をしたことがある。
「お取替えのスープでございます」
 ウェーターがスープを持ってきた。
「ああ、ああ」
 男はウェーターがきたことなどどうでもよく気のない返事をした。
ーーこんなところでAピョンに会えるなんて。何という奇縁、何という幸運。もしかして、これは、おれと彼女の宿命的出会いなのか・・・・・。
 男は熱いスープをズルズル音を立ててススリ込みながら、Aピョンの一挙一動見逃すまいと穴が開くほど見つめた。スープの後にも幾種類か料理が運ばれてきたがそれどころではない。もう何を食べているのかもわからない。蝿のことなど頭の隅にも浮かんでこない。
ーーAピョンは一人で来たんだろうか。もしかして彼氏と・・・・。いや、彼氏などいてたまるか。Aピョンは他のアイドルと違っ清純なのだ。じゃあ、マネージャーとか友達とかと一緒じゃないのか。人気者が一人で外食なんて危ないじゃないか。あ、そういえば、Aピョンはラジオで美味しいものには目がないってよく話していたっけ。こんな通好みのレストランに一人でフラリとやってくるほどグルメだったのか。彼女がラジオで話していたことは嘘じゃなかった。やはり心から正直な娘なんだ。記念に一緒に写真を撮ってもらえないかなあ。さすがに食事中に行ったら迷惑だろうから、食事が終わって彼女が立ち上がった瞬間にお願いしてみよう。スゴイことになったぞ・・・・。
 男は、最後に運ばれてきたデザートのアイスクリームも無造作にススリ込むように食べ、Aピョンの食事風景をまばたきもせずに見つめた。
ーーああ、なんてカワイイんだ。
 Aピョンはそんな男の目線など気にもとめず静かに食事をしている。男の食べ終わって放置したアイスクリームのガラスの器には蝿が蝟集し、ガラス器が黒く見えるほどになっていた。しかし男の意識はそのことにはまったく向かわない。Aピョンのことで頭がいっぱいである。
 Aピョンは一人でコース料理を食べ終えると、ウェーターを呼んでクレジットカードで会計をした。
「今だ、チャンスだ」
 男は席を立とうと思ったが、Aピョンがスマホを耳に当て話しだしたので座り直した。
ーー電話中に話しかけたら失礼だ。あと数分の辛抱だ。
 ウェーターがカードと領収書を持って戻ってきた。Aピョンは電話を切ってカードを受け取り席を立った。
「チャンス」
 男は早足でAピョンのもとへ歩み寄った。そのとき、
「ウワッ!」
 何者かに後ろから強く押されて前のめりになって倒れた。
「何だ?!」
 店にいた客たちは、男と同様Aピョンに近づくタイミングを狙っていたようで、ドッとAピョンの周りに殺到してきたのだ。
「この虫ケラどもめ!」
 男は客たちに踏みつけられ罵声をあげた。
「ーーすみません、写真を一枚だけお願いします」
「ーーすみません、写真いいですか」
 中年男の媚びた不快な声が店内に響き渡った。そしてAピョンにスマホを向けて写真を撮り出した。店内は大混乱、ウェーターが客たちを制止ししようと声をあげた。
「おやめください。他のお客様に御迷惑をおかけしないでください」
「キャーッ!」 
 Aピョンは悲鳴をあげながら店の扉を押し開けて外に出ると、一目散に駆け出した。中年のオヤジどもは駆け出す力はないとみえ、Aピョンが店を出ると追う者は誰もいなかった。
「俺は負けんぞ」
 だが男は一人違った。意地でもAピョンと写真を撮ってやるんだ。男はオタクたちの背中をラグビー選手のタックルように押しのけながらドアを開けて店を出た。
「どっちだ。こっちか。ーーあっ、あそこにAピョンが見える」
 暗がりに小さく見えたAピョンの姿を追って、男は夜の帳の中を脱兎のごとく駆け出した。そのときだった。
ーーキキキー
 車が急ブレーキをかけた高音がひびいた。
ーードン
 男がハッと気がつくと道の真ん中に寝そべっていた。しばらく意識を失っていたようである。どうやら脇から出てきた車にぶつかったようだ。ぶつかってきた車は逃げてしまい、もうそこにはなかった。
「あ、あ、あ、救急車・・・・」
 男はポケットからスマホを取り出そうとするが、体が痛くて手を動かすことができない。
「あ、あ、あ、あーー」
 ただ呻くばかり。
 レストランから客たちが一人、二人と食事を終えて出てきた。ほとんどの客たちはスマホの画面を見ながら歩いていて、暗がりの道に横たわる男の姿には誰も気づかないようだった。気づく者もたまにいたが、そういう者は面倒を避けるため目を逸らして気づかないふりをして立ち去った。もっと酷い輩は、血を流して横たわる男の姿を写真だけ撮って立ち去っていった。
 しばらくするとレストランの電気が消え真っ暗になった。男は一人道に倒れたままである。こんな暗い路地、朝になるまで誰も通行人は来ないだろう。男は薄れゆく意識の中、手に一匹の蝿がとまるのが見えた。あれだけ嫌悪していた蝿だったが、この命の最期のとき、近寄ってくれる蝿がいじらしく愛嬌ある存在に思えた。
「お前は俺をムシしなかったね・・・・」
 男は、顔の周りを懸命に飛び回る蝿をやさしい眼差しで眺めた。

                    (了)2019年作

 


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九舎耳(くしゃに)
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