■「迷路のまち」散策小話(小豆島編)
●小豆島土庄町はどのぐらい迷路だったか
瀬戸内海に浮かぶ小豆島に「迷路のまち」がある。
そのことは、迷路と町、路地などのキーワードで検索すればすぐに出てくるので知っていた。一度行きたいと思いながらなかなか機会に恵まれなかったのだが、このたび関西に用事ができたついでに足をのばして散策してくることができた。そのときの話をしてみたい。
土庄町にある「迷路のまち」を自称するゾーンは、厳密に言えば、小豆島ではなく小豆島に隣接する前島にある。小豆島と前島は地図上でもほぼ一体化しているため、ふたつ合わせて小豆島と認識されることが多いようだが、実際にはこのふたつの島は世界一狭い海峡として知られる土渕海峡で隔てられている。
土渕海峡は狭いところで幅10メートル程度しかないそうだ。見た目は海というより用水路のようである。いくつもの橋がかかっていて往来自由なので、興味がない人はそこに水面があったことさえ忘れてしまいそう。
「迷路のまち」はまさにその土渕海峡の前島側にあった。
迷路とされているゾーンはそれほど広くはなく、長さにして500メートル強、幅は250メートルぐらいの範囲に収まっている。
地図で見る限りでは、さほど道が錯綜しているようには見えず、これまでに訪ねた横須賀や雑賀崎と比べて、迷路度合いは低い感じがする。
当日、現地のガイドを頼むこともできたのだけれど、新型コロナの感染拡大時に東京からやってきている身としては気が引けた。体調もよく何の自覚症状もないとはいえ、知らずに感染していないとも限らない。なのでひとりで散策することにした。
迷うには予備知識もないほうがいい。ゾーンの中央、土庄本町のバス停付近からいきなり歩きはじめた。
幹線道路である土庄福田線(県道26号線)沿いに妖怪美術館のショップを見つけ、そこで「迷路のまちMAP」をもらう。「迷路のまちの本屋さん」が企画・発行した見どころなどを盛り込んだイラストMAPである。
妖怪美術館とは、迷路のまち内に点在する妖怪アートの美術館で、妖怪画家の柳生忠平氏が館長を勤めているとのこと。小豆島は妖怪で有名な島なのだろうか。そのあたりはよく知らないが、こうし施設が紛れ込んでいるところに、この迷路の魅力をさらに増幅させていこうという意気込みが感じられた。
MAPを見ても、迷路ゾーンはそれほど広くないようだったが、さっそく気になる表記を見つけた。《このカーブミラーの道に入ると、方向感覚が分からなくなるめいろーど》と書いてある。
すぐそばなので行ってみる。
パッと見たところ、それほど幻惑される感じはしないが、路地に入ってすぐにいい感じの分かれ道があって、歩くほどにだんだんと迷宮感が増していった。
たしかに迷路である。
平坦な土地なのに、なぜこんなに路地が折れ曲がっているのかわからない。
この先には「咳をしても一人」で有名な自由律俳句の俳人尾崎放哉の記念館があるというのも面白い。放哉はかつてこのあたりに住んでいたらしい。迷路のような路地をどう感じていたか知らないが、俳句と迷路には通じるものがある気がする。それは何かと問われるとうまい言葉が浮かばないけれども、強いて言うならその場所その場所の情感とでもいうような何かだろうか。迷路の味わいはその場所の持つ力に依る部分が大きいのである。
町の見どころは尾崎放哉記念館だけではない。小豆島の巡礼札所でもある西光寺も路地のなかに隠れるようにしてあり、家々の屋根越しの赤い五重塔が見え隠れしていた。
これがいいアクセントになっていて、町に不思議な安心感をもたらしているように思えた。
ちなみに、さきほど妖怪美術館のショップでMAPをもらった際、店員さんが教えてくれたのだが、迷路のまちには三叉路が60ヶ所以上もあるそうだ。
たしかにいい感じの三叉路がいくつかあった。エッジの切れた建物と、この先には何があるのだろうという空想を掻きたてるような三叉路は、いい迷路の必要条件とも言える。
そして私がなるほどと膝を打ったのは、そうやって三叉路の数をまるで迷路の錯綜具合を示す指標のように使っていることだ。
私は、迷路がどのぐらい本格的で個性的で魅惑的であるかを、どうすれば客観的に評価できるか、そのアイデアが浮かばないで困っていたのだが、三叉路や五叉路のような奇数、もしくは六叉路以上に多数分岐する辻をいくつ含んでいるかで、定数的に評価することが可能になるのかもしれない。
誰が数えてみようと思ったのかしらないが、なかなかのアイデアだと思ったのである。
●高低差もないのになぜ迷路になったのか
ところで私には根本的な疑問がある。
この町は西光寺が少し小高い丘になっている以外はほぼ平らであり、一般に迷路状の路地が高低差のある土地に生まれやすいことを考えると、なぜここが迷路になったのかわからないのだ。
以前横須賀を案内してくれたドンツキ協会の齋藤さんが、町が迷路化しやすい条件として、漁港、温泉、鉱山の存在を挙げていた。それはつまり平地の少ない港や山間の温泉や鉱山に町を作ろうとすると、高低差があるために土地の利用が制限され、その制約によって街路がまっすぐに引けないからである。高低差は迷路化の大きな条件のひとつなのだ。
だが、この迷路のまちにはほとんど高低差がない。
なぜこの町は迷路になったのか。
町を紹介するホームページやネット上の記事、パンフレットなどを参照すると、海賊から町を守るためという説や、戦のためという説、もしくは強い風が吹き抜けないようにするためといった説があったが、地元でも結論は出ていないようだ。
土渕海峡の対岸に町立中央図書館があったので資料を探してみたのだが、はっきりと理由がわかる資料を見つけることができなかった。司書の方に尋ねても、迷路のまちの成り立ちはよくわかっていないんです、との答えである。
海賊から守るためという説はなんだか腑に落ちない。私は歴史学者でも民俗学者でもないので間違っているかもしれないが、瀬戸内海といえばかつては海賊の庭であり、海賊に対抗しながら村が存続できたとは思えないからだ。それより、むしろ海賊側だったのではなかろうか。だとすれば敵対する海賊との抗争から町を守るための迷路化だったのか。だが、もしそうならばもう少し山に入ったほうがいい気がする。背後に急峻な山があるのだから迎え撃つにはそのほうが有利ではあるまいか。
海賊ではなく南北朝時代の戦乱に備えたという説もある。渓谷美で知られる寒霞渓の奥、険阻山には、かつて南朝方の佐々木信胤が星ケ城を構え、これを北朝方の細川師氏が攻略した。その際、細川勢の侵攻に備えて佐々木側がこのような迷路状の路地を作って備えたというのだが、それにしては小さな集落であり、守るべき城からもずいぶん遠い。ここだけ迷路にしてもしょうがない気がする。重要拠点だったのだろうか。
強い海風を避けるためというのもどうだろう。それならばまず防風林を置くとか、能登半島で見られる「間垣」のようなものを作るとか、もっと効果的な方法がある気がする。
どれも私の素人考えだから、本当はこのなかに答えがあるのかもしれないけれど、地元でもはっきりしないということは、どれも決め手に欠けるのだろう。
帰宅して写真を眺めていると、中央に溝のある路地がずいぶん多いことに気づいた。普通は道路の側溝に使われるようなコンクリートの蓋が路地の中央を延々と走っているのだ。どうやら暗渠になっているらしい。
ということはここでは暗渠も迷路になっているにちがいない。排水溝には勾配が必要だから、この暗渠の迷路を作るのはなかなか大変だったんじゃないかとそんなことを考えた。
最後に、迷路のまちの道を例によって図にしてみる(地図やストリートビューでは私道と公道の区別がつかないので、この図では物理的に繋がっていれば道としている)。
雑賀崎や横須賀などの超絶迷路には及ばないものの、のんびり散策するにはいい迷路だったのである。