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中東イスラム世界に表れる桜の情感と平和な国=日本への憧れ
中東イスラム世界で桜と言えば、日本のソメイヨシノよりも白いさくらんぼの花がイメージされるだろう。さくらんぼはバラ科サクラ族に属して、果実を結ぶ。日本では山形の佐藤錦などのさくらんぼが有名だが、さくらんぼの原産地とされるトルコのギレスン市と、さくらんぼの生産が盛んな山形県の寒河江(さがえ)市は1988年にさくらんぼ姉妹都市として提携を始めた。
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2022年の国際連合食糧農業機関(FAO)の統計によれば、イスラム世界ではさくらんぼの生産が盛んな国は、さくらんぼ発祥の国トルコ、ウズベキスタン、イラン、シリアの順となる。中でもトルコは656、041トンと2位のチリのおよそ45万トンを大きく引き離し、断トツ1位だ。さくらんぼは、そのソースが中東の肉料理やデザートで使われ、シリア料理に羊肉と牛肉の肉団子をサクランボのソースで煮込こんだものがあるなど、中東料理では好まれる食材だ。
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「桜桃の味」(アッバス・キアロスタミ監督作品、1997年)で自殺願望がある主人公にアゼリー人(トルコ系民族)の老人は次のように語る。
「あんたの目が見ている世界は本当の世界と違う。見方を変えれば世界が変わる。幸せな目で見れば、幸せな世界が見えるよ。・・・人生は汽車のようなもの、前へ前へ、ただ走っていく。そして最後に終着駅に着く。そこが死の国だ。死はひとつの解決法だが、旅の途中で実行したらだめだよ。希望はないのか?朝起きたとき、空を見たくはないかね?夜明けの太陽を見たいとは思わないかね?赤と黄に染まった夕焼け空をもう1度見たくないか?月はどうだ?星空をみたくないか?・・・あの世から見に来たいほど美しい世界なのにあんたはあの世に行きたいのか。もう1度泉の水を飲みたくはないかね?泉の水で顔を洗いたくないのかね?桜桃の味を忘れてしまうのか?」(IMAGICA・DVDの字幕を加筆)
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このセリフからも桜桃(さくらんぼ)の味が中東の人々の間で親しまれていることがわかる。中東の人々から見て桜は日本の平和の象徴でもあるようだ。レバノン生まれの石黒マリーローズさんの『レバノン杉と桜 ―日本人に平和と心の豊かさを問い直すレバノン女性の視点』(広済堂出版、1991年)には「桜は平和と繁栄の国・日本の象徴であり、レバノン杉は、内戦で傷つき、いまだに外国軍隊が駐留して将来への不安と困窮に暮らすレバノンの運命を象徴しているかのようである。」と書かれてある。この本が出された1991年は、1975年に始まった泥沼のレバノン内戦が終わった直後のことで、レバノンの人にとっては日本の平和は羨望とも感じられた。
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下は岡田恵美子・北原圭一・鈴木珠里編『イランを知るための65章』(明石書店・2004年)の中にある東京外国語大学から招聘を受けたイラン人のザフラー・ターヘリー氏の「日本点描 -イラン人研究者の日本人観」(鈴木珠里訳)という文章の中の一部である。日本の平和の情景はイラン・イラク戦争を経たイラン人にとっても貴重なものに思えた。
「故郷が長い歴史の中で騒乱と攻撃に晒され、異民族たちに何度も踏みつけられてきた地に生まれたこの一人のイラン人にとっては、穏やかな大海に護られ、幸運にも近隣諸国の騒乱からほど遠かったこの国をイメージするのはたやすいことではなかった。
心地よい秋の季節雨があたりを徐々に色づかせていく頃、私は東京にやって来た。いたる所に、驚くほど多くの、しかし穏やかさがある人びとの波の中で、常に安全が伴う生活を送り始めた私はこう感じた。たとえ、春に桜の花が咲かずとも、また熱い温泉の命の水が湧き出ずとも、私はこの国に魅力を感じることができるだろう、と。来日して一年が過ぎる今でもなお、街のあらゆる方向にたゆとう人びとの波は、私にとって一番の驚きである。」
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社会が安定して平和でなければ桜の花を慈しむこともできない。桜の花のイメージが日本と重なるのは、日本が平和国家として戦後歩んできた歴史と大いに関係するものだ。
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