チェ・ゲバラのガザから広島へ
キューバのロドリゲス外相は6月9日、イスラエルが4人の人質救出のために、ガザのヌセイラト難民キャンプに激しい空爆や砲撃を加え、274人の市民を死なせたことを強く非難し、イスラエルの日頃のパレスチナ人に対する虐殺が典型的に表れた事件だと述べた。
キューバは、1947年の国連パレスチナ分割決議案、つまりイスラエル国家の成立にも反対した国だった。キューバの反対は、法律家だったエルネスト・ディーゴ国連代表によって表明された。ディーゴはバルフォア宣言や国連の分割決議案には何の法的根拠がなく、また先住のパレスチナ人たちの権利を擁護せず、シオニストの入植者植民地主義は強制によって先住の人々の土地を奪うものであると主張した。
かつては国際法研究の立場からバルフォア宣言や国連のパレスチナ分割決議の違法性が説かれたが、国際社会にも「イスラエル国家」という既成事実に対する諦観が生まれ、パレスチナ・イスラエルという2国家によるパレスチナ問題の解決が多くの国よって唱えられている。
エルネスト・ディーゴ国連代表による国連演説は、カストロやゲバラが中心となって成立したキューバ革命(1959年1月)よりも前の時代だが、スペインの植民地主義に抵抗して独立したキューバだからイギリス帝国主義によるバルフォア宣言や、シオニストの植民地主義は許容できなかった。イスラエル国家創設に強く反対したキューバの姿勢はその民族自決主義の運動の遺産や伝統によるものだった。
キューバ革命の指導者だったチェ・ゲバラは、革命成立直後の1959年6月にガザを訪問したが、それは1955年のバンドン会議の成果を受けてのものだった。バンドン会議を推進したエジプトのナセル大統領がイギリスからスエズ運河を国有化したように、会議では非同盟運動による反帝国主義、反植民地主義、民族自決権が強調された。パレスチナ問題はイギリス帝国主義の負の遺産であり、非同盟運動が排除しようとするアメリカはパレスチナ難民をもたらしたイスラエルの強力な後ろ盾であり、アメリカの介入政策に反発していたゲバラにはパレスチナ人に対する強い共感があった。
ガザでは、「フェダーイーン(挺身者)」と呼ばれるパレスチナ人武装組織がイスラエルに対する抵抗を開始していたが、それに対して後に首相となるアリエル・シャロン率いるイスラエル軍がブレイジュ難民キャンプを襲撃して43人を殺害、またハーン・ユーニスの警察署を爆破して74人の警官が犠牲になったこともあるなど、パレスチナの武装組織とイスラエル軍の軍事衝突が継続していた。また、ガザは1956年のスエズ動乱(第二次中東戦争)でイスラエルとエジプト軍・フェダーイーンの戦場ともなり、植民地主義からの解放をうたったバンドン会議を経て、ガザなどパレスチナは植民地主義への抵抗のシンボルとして非同盟世界から強く意識されるようになっていた。
ガザを訪問したゲバラはフェダーイーンの指導者であるアブドゥッラー・アブー・スィッタ(1918~70年)やハーン・ユーニスの行政官などに会い、パレスチナ難民は自らの故地を解放する闘争を継続しなければならない、占領には抵抗しかないと説いた。当時のパレスチナ人から見ればイスラエルの領土はすべて占領地だった。ゲバラは、アル・ブレイジュ難民キャンプの人々の貧困や困難を目の当たりにして、難民を救済するには抵抗運動しかないことを強調した。
2017年にゲバラが日本から妻に送ったハガキが見つかり、「私の愛する人。今日は広島、原爆の落とされた街から送ります。原爆慰霊碑には7万8000人の死者の名前があり、合計は18万人と推定されています。平和のために断固として闘うには、この地を訪れるのが良い。抱擁を。チェ」と記されていた。通訳として同行した広島県庁職員の見口健蔵氏に「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」と英語で問いかけた。「ヒロシマを訪れてみて、戦争というものの悪、原爆の残虐さをつくづくと痛感 し、 これを使用したアメリカに憎しみを感じた」とも回想している。
現在、ゲバラがガザを訪れれば、これと同様に平和のために闘うにはガザを訪問することを勧めるかもしれない。平和記念式典にイスラエルを招待し、パレスチナを招待しない広島市の姿勢は平和のために断固闘っているように見えない。ゲバラの訪日は、キューバの革命政権が国家造りを成功させるために取り組んでいた時であり、ゲバラは日本でキューバ産の砂糖の売り込みを熱心に行ったり、トヨタ自動車や三菱重工などの工場の訪問を忙しく行ったりした。その忙しさゆえに富士登山も9合目で切り上げたというエピソードもある。
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