イスラエル公文書館資料が語る「ナチス・ドイツと協力していたシオニストたち」
5月に公開されたイスラエル国立公文書館の資料によって、シオニストの民兵組織がイギリスの委任統治当局と戦うために、ナチス・ドイツと同盟しようとしていたことが明らかになった。イスラエルのリベラル系「ハアレツ」紙は、シオニスト民兵組織のナチスとの「暗黒の章」と形容している。いうまでもなく、ナチス・ドイツは第二次世界大戦中に600万人のユダヤ人を虐殺するというホロコーストを行った当事者である。
ネタニヤフ首相などのイスラエルの歴史修正主義者たちは、パレスチナの宗教指導者のアミーン・アル・フセイニーがヒトラーにユダヤ人を虐殺するよう提案したと主張している。「ヒトラーはユダヤ人を絶滅することを望んでいなかった。ユダヤ人を追放したかっただけだ。かりにユダヤ人を追放すれば、彼らはすべてパレスチナにやって来るとフセイニーはヒトラーに言った。」とネタニヤフ首相は2015年の世界シオニスト会議で発言している。ヒトラーは確かにフセイニーに会ったが、それはユダヤ人に関する「最終的解決」のプロセスがすでに始まった後だったとバルイラン大学(イスラエル・ラマト・ガンにある大学)ホロコースト研究所所長ダン・ミッチマン教授は述べている。
公文書館が明らかにしたのは、1942年のシオニストの民兵組織「レヒ」のメンバーだったエフレイム・ゼトラーに対するハガーナ(同様にシオニストの軍事組織)の戦士たちによる尋問記録だ。この記録によれば、ゼトラーは「イスラエル王国創設を支援するならば、ドイツと協力する用意があると述べている。1943年の時点で、シオニスの武装組織の最大の敵はイギリスであり、ロンドンにテロリストの細胞を送ろうとしていた。イギリスのクレメント・アトリー首相はシオニストのテロリストの暗殺の標的だった。
「ハアレツ」紙によれば、ゼトラーの尋問はユダヤ人に対する「最終的解決=絶滅」を決定したナチス・ドイツのヴァンゼー会議の2週間後に行われている。レヒはドイツ側に立って参戦する用意があることを明らかにし、その国家観はナチス・ドイツと同様に全体主義による政治の運営を考えていた。「ハアレツ」は、シオニストがナチス・ドイツと連携しようとしていたのは、理解不能であり、イスラエルの恥ずべき歴史だと述べている。
レヒは後に「シュテルン・ギャング」として知られる組織で、1948年にデイル・ヤースィンというアラブの村で虐殺事件を起こしている。この事件について科学者のアインシュタインは、「ニューヨーク・タイムズ」紙に意見広告を出し、レヒなど虐殺を行った組織のことを「ファシスト」と形容し、ナチス・ドイツがユダヤ人に対してことと同様なことを、これらの極右組織は行ったと非難した。アインシュタインは、ユダヤ人が国境をもたずにアラブ人と共存していくのが本来のユダヤ教のあり方であり、ユダヤ教の教えが狭量なナショナリズムによって損なわれていくことを懸念した。
「シュテルン・ギャング」は、パレスチナのイギリス委任統治当局に対するテロ活動をひたすら行い、イギリスよりもナチス・ドイツに親近感をもち、ナチスにユダヤ人のパレスチナへの移住を促すよう働きかけを行っていた。創設者のアブラハム・シュテルン(1907~1942年)は、ユダヤ人至上の世界観をもつ民族主義的、また自らの考えを絶対とする全体主義的原理でパレスチナにユダヤ人国家を創設することを考えていた。
イギリスの委任統治当局は「テロリスト」のシュテルンに懸賞金をかけ、シュテルンはスーツケースの中に寝袋を入れ、テルアビブの隠れ家から隠れ家を渡り歩いたが、1942年2月12日、イギリスの治安部隊によってアパートで殺害された。過激な傾向をもっていたシュテルンではあったが、イスラエルではシュテルンの記念日が設けられ、また1978年には彼の肖像画の切手も発行されるなど国民的な英雄とされている。
現在のイスラエルはシュテルン・ギャングのような極右勢力が内閣を構成し、パレスチナ人・アラブ人をパレスチナから追放する民族浄化の考えをもっている。その点ではナチス・ドイツがヨーロッパからユダヤ人を追放しようとしたことと本質的には何ら相違がない。ナチス・ドイツはヨーロッパにユダヤ人がいない状態を「人種的健全」と考えたが、イスラエルの極右もエレツ・イスラエル(現在のイスラエルにヨルダン川西岸を加えた地域)にパレスチナ人がいない状態をつくり出すことを考えている。戦後の国際社会はナチス的なものを乗り越えることを考えたが、ナチスのイデオロギーはイスラエルで脈々と生きているようだ。