宗教の宥和と包容の精神を訴える「岩のドーム碑文」と国際社会に支援を求めるガザの子供たち
エルサレムにある「岩のドーム」は、イスラム最古の建築物とされ、ビザンツ帝国やローマの聖堂や墓廟から影響を受けた。7世紀末にウマイヤ朝の軍隊がエルサレムに到達した時、ユダヤ教のソロモンの神殿は荒廃していてこの場所にウマイヤ朝のカリフ・アブドゥル・マリクは当時世界で最も魅力的で、壮麗な建造物であった「岩のドーム」を建てた。「岩のドーム」の碑文の内容は神への賛美、神の唯一性、神の慈愛で構成され、「啓典の民」であるユダヤ人、クリスチャン、ムスリムの宥和や包容を訴えている。
欧米の教会などで頻繁に見られるステンドグラスは、「岩のドーム」をはじめとしてイスラム建築では7世紀から見られ、テンプル騎士団(1119年にエルサレムで設立され、中世ヨーロッパで12世紀から14世紀まで活動した騎士修道会)は、最初の十字軍後に、ステンドグラスを含めた「岩のドーム」の建築様式をヨーロッパにもち帰り、それがヨーロッパで流行していくことになった。「岩のドーム」の建築様式はイスラム世界とヨーロッパの架け橋ともなり、フランスのノートルダム大聖堂、またアメリカ・ニューヨークのセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂などのゴシック様式は、エルサレムの「岩のドーム」などの建築を参考にしたものだ。
「岩のドーム」の碑文のように、イスラム支配のエルサレムなどパレスチナでは、イスラムとキリスト教とユダヤ教は長く共存してきた。エルサレムでムスリムとクリスチャンが最初に遭遇したのは、637年にエルサレムに進出した第2代正統カリフ・ウマル・イブン・ハッターブ(592~644年)とエルサレムの総主教ソフロニオス(日本正教会では「イェルサリムの総主教聖ソフロニイ」と表記、560~638年)との出会いだった。ソフロニオスは、ウマルと出会い、イスラムとの協調、協力を約束した。ウマルは聖墳墓教会に入って礼拝をしようというソフロニオスの提案を断り、教会の外で礼拝を行ったことが伝えられている。内部で礼拝を行えば、そこに後世のムスリムがモスクを建てかねないという配慮がウマルにはあったという。
ウマルとソフロニオスの誓いは現在まで継続し、パレスチナではイスラムとキリスト教の共存は現在まで継続している。十字軍の侵攻はあったものの、アラブのムスリム、クリスチャンにとって信仰する神はアラビア語の「アッラー」で共通している。イスラエルに最も先鋭な闘争を行ってきた「パレスチナ解放人民戦線(PFLP)」の指導者もクリスチャンのジョージ・ハバシュで、パレスチナ和平交渉団のスポークスマンだったハナン・アシュラウィもクリスチャンだ。パレスチナではムスリムもクリスチャンも、パレスチナ人の民族自決権を獲得する運動に共に協力して従事してきた。
「岩のドーム」の碑文の精神とは異なるように、イスラエルの排他的ナショナリズムはパレスチナの人々をガザから排除するように、昨年10月7日以来、大規模な攻撃を継続し、2万4000人のガザのムスリムやクリスチャンが犠牲になった。2021年6月30日にガザの子供たちがガザ港に集まり、瓶の中に紙に書いたメッセージを入れて、瓶を地中海に投げ入れ、彼らを支援するように国際社会に訴えた。そこには15年にわたる経済封鎖が解かれるように、子供たちが空爆の犠牲にならないように、またガザを自由に出入りできますようになどという彼らの切なる思いがつづられていた。
パレスチナを実効支配し、占領を継続しているイスラエルには、冒頭の「岩のドーム」の碑文に書かれてあるような宗教の共存の精神を尊重することが強く求められている。
「主、主、憐れみ深く慈悲深い神、怒りが遅く、揺るぎない愛と忠実さに満ちている」(『出エジプト記』34章6節、「祈って速く、慈悲深く公正であるのは良いことです。」 (トビト記12章8節)、これらのユダヤの教えも本質的には「岩のドーム」の碑文と同じことを訴えている。