パレスチナの人々は彼らの故郷を決して忘れない
― 平和であるためにつくられ、一度も平和を見ていない土地に平和を ―マフムード・ダルウィーシュ〔パレスチナの民族詩人〕)
昨年10月7日、ハマスの兵士がイスラエル領に進入しながら、「これは我々の土地だ」と叫んだことは、彼らの体につけられたカメラの映像からも聞くことができた。ガザのハマスの指導者ヤヒヤ・シンワル(原音だとヤフヤー・スィンワール、1962年生まれ)は、イスラエル兵殺害などの活動に従事していたという理由で、1988年から2011年までイスラエルの刑務所に収監されていたが、それでも彼はパレスチナ人の帰還などパレスチナの大義を放棄することなく、イスラエルとの闘争にいっそうエネルギーを傾注するようになった。
1956年4月30日、イスラエル国防軍の隻眼の参謀長モシェ・ダヤンは、ガザ境界近くに造られた新しいキブツ、ナハル・オズに、ガザ地区に住むパレスチナ人によって殺害された治安要員のロイ・ロトバーグ(享年21歳)の葬儀に出席した。
イスラエル建国をもたらした第一次中東戦争でおよそ数万人のパレスチナ人たちがガザに流入することになった。イスラエル建国後、ガザからは第一次中東戦争によってできた境界を越えて、パレスチナ人たちがナハル・オズの農地の収穫物を奪う行為が行われていたが、ロトバーグはそうしたパレスチナ人たちの侵入や窃盗の行為を見張る任務に就いていた。彼は、56年4月29日に農地を馬に乗ってパトロールしている間に撃たれて亡くなった。イスラエル人がパレスチナ人たちの憤りの強さをあらためて感じる事件だった。イスラエル建国によって現在のイスラエル南部に住んでいたパレスチナ人たちはガザ地区に難民として流入し、彼らが以前住んでいた土地はイスラエルのものになっていた。
ロトバーグの葬儀で、ダヤンは、故郷に帰還したいというパレスチナ人の心情に対する理解を表すスピーチを行い、イスラエルがパレスチナ人や彼らの父祖が住んでいた土地や村を、イスラエルの財産に変えてきたことに言及している。ダヤンはパレスチナ人たちが第一次中東戦争で自らの土地を追われることになったナクバ(大災厄)を忘れることなく、故郷に戻りたいという願望を失わないことを理解し、彼らの民族的希求が暴力的行為になることを予想し、それへの備えを十分に行うことをロトバーグの葬儀で訴えた。
23年10月7日、ダヤンの忠告を忘れたかのように、イスラエルはハマスの侵入を許してしまった。ハマスによる奇襲攻撃を立案したのは、冒頭で述べたヤフヤー・シンワルというアル・マジュダル村(ガザに近い現在のイスラエル南部のアシュケロン)から難民として流出した家族出身のガザ地区の最高幹部だった。ハマスはおよそ30のポイントからイスラエルに侵入し、イスラエルの町、20のキブツ、音楽コンサートなどを攻撃し、1200人の市民を殺害して、200人を人質にとった。侵入したハマスの兵士たちは武装も洗練され、よく訓練を受け、組織化され、パレスチナ人たちの故郷に帰還したいという願望も強く表していた。
10月7日はイスラエルの歴史において最も悲劇的な一日をなった。ハマスを阻止できなかったイスラエル軍は、圧倒的な軍事力を用いてガザに報復していった。しかし、ネタニヤフ首相などイスラエル政府指導部には軍事力以外の方法・手段でガザに対応する構想はまったくない。ハマスがイスラエルにもつ敵意の背景にも考えをめぐらすこともなく、またハマスを排除することをネタニヤフ首相は唱え続けたが、ハマスがいなくなった後のガザの政治・社会をどうするかについての考えを示すこともなかった。軍事力一辺倒ではハマスを打倒することはできない。軍事力で一般市民の犠牲が出れば、イスラエルに対して暴力的報復を行うことを考える若い世代は必ず現れるが、ネタニヤフ首相をはじめてイスラエル政府の指導部には長期的視点に立ってパレスチナ人の暴力を抑制する発想に乏しい。
ガザの人々は2018年3月から19年12月までイスラエル領への帰還のための大行進を行ったが、イスラエル国民がパレスチナ・アラブ人たちと平和に暮らすには、ガザの人々の帰還の希求を実現することを含めて、共存のための知恵をパレスチナ・アラブの人々と共有しなければならない。ネタニヤフ首相らがつくり出したパレスチナ人との緊張、対立、戦争状態はイスラエル人の安全にとってマイナスに作用し、昨年10月7日のような悲劇を繰り返すことになりかねない。
表紙の画像はモシェ・ダヤン
ウィキペディアより