「ヒロシマは希望」 ―パレスチナの子どもたちが語る「原爆の子」
イスラエルの人質4人がガザ地区中部のヌセイラトで解放されたが、この人質奪還作戦でパレスチナ人210人が殺害された。ガザでは昨年10月7日以降、3万6000人が死亡し、そのうちの1万5000人余りが子どもたちだ。国連は7日、イスラエルを子どもの人権を侵害した国のリストに加えた。ガザ地区の人道危機は深刻になり、国連は7日、7月中旬までにガザ地区住民の半分が飢餓か死に直面するという警告を発した。ガザ地区では物資不足が極めて深刻で、破壊も前例のない規模で、また人道支援も制限されている。
にもかかわらず、ガザ攻撃を停止する気配がないイスラエルのネタニヤフ政権に対して世界でも抗議の声が高まり、アメリカのワシントンDCでは8日、ホワイトハウスを取り囲む抗議の行進が行われるなど、イスラエルの孤立はいっそう進んでいる。
毎日新聞に「『ヒロシマは希望』 パレスチナの子どもたちが語り教えてくれたこと」という記事が掲載された。(6月7日)
日本福音ルーテル広島教会(広島市)の牧師、立野泰博さん(63)は毎日、礼拝の中でガザでの即時停戦を祈っている。立野さんの呼びかけで広島市のキリスト教会連盟は「原爆に焼かれた広島の地におけるキリスト教会は現状をこれ以上黙認できない」というアピールを行った。
立野さんは2002年に金属とガラス片でできた天使のオブジェを携えて広島にやって来たヨルダン川西岸ベツレヘムの福音ルーテル・クリスマス教会のミトリ・ラヘブさんと交流するようになった。戦争をなくすためにはパレスチナとイスラエルの子どもたちが交流することが必要だというラヘブさんの話に感銘を受けた。2005年に広島市を再訪したラヘブさんは礼拝の中で「暴力を愛に変える」ことを強調し、「親族を殺されても、憎しみに負けず隣人を愛する」と説いた。
立野さんがパレスチナを訪ねて強く印象に残っているのは、パレスチナの子どもたちに教えられた「ヒロシマは希望」という言葉だった。パレスチナの子どもたちには原爆症にかかりながらも12歳で亡くなるまで千羽鶴を織り続けた佐々木禎子さんや「原爆の子」の像のエピソードも広く浸透していた。原爆を投下されながらも目覚ましい復興を遂げた広島への称賛の想いはイスラム世界では広く共有されている。
2006年にパレスチナで会った女の子は将来アフリカの子どものために活動する医師になりたいと語っていたが、その後暴動に巻き込まれてイスラエル兵の銃弾の犠牲になった。立野さんは停戦を訴えることで、パレスチナの子どもたちに彼らは決して孤独でないと訴えたいと語っている。
立野さんのエピソードに触れるにつけ、8月の平和記念式典にイスラエルを招待し、パレスチナ、ロシア、ベラルーシを招かない広島市の姿勢は日本人として恥ずかしい限りだ。
以前紹介したが、歌手の新谷のり子さんは1983年8月6日にパレスチナ難民キャンプで「原爆を許すまじ」を歌ったが、子どもたちがヒロシマ、ナガサキを知っていることに驚いた。ある生徒は「日本が原子爆弾を落とされて何十万という人が亡くなったということを聞いている。僕たちは戦争の中にずっといるけれど、でもそこまでつらい体験をしていないから幸せだよ」と話したそうだ。
「どうして君は自分の強さを誇示しようとするのか?
見よ。大木をなぎ倒す、その同じ風が
草原の草をやさしく愛撫してゆくのを。」 ―ルーミー
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