ジェノサイドを許さない ―ナチスのホロコーストに由来し、平和を訴える長崎四種のバラ
イスラエル軍が26日にガザ地区ラファで行った空爆で少なくとも45人が死亡した。イスラエル軍は国際司法裁判所(ICJ)攻撃停止命令を出した後も攻撃を継続しているが、犠牲者の大多数は民間人で、武器をもたない民間人を多数殺害することはジェノサイド(大量虐殺)としか言いようがない。
2011年4月12日にナガサキピースミュージアムの西側・三角芝生スペースに「平和のバラ園」が設けられた。植えられている品種は、「アンネのバラ」「プレイpray(祈り)」「セント・コルベ」「ピース」の四つで、そのうち三つはナチスドイツのユダヤ人ジェノサイド(=ホロコースト)の歴史に由来するものだ。それほどナチスのホロコーストは人類史に強い衝撃を与えたはずだが、イスラエルはこのバラの名前の由来やジェノサイドの歴史を顧みることがないように、ガザ市民に対する虐殺を続けている。
「アンネのバラ」は、言うまでもなく『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクにちなむ品種だ。アンネの父親のオットー・フランク(1889~1980年)は、1933年にユダヤ人排斥を唱えるナチス政権が成立すると、銀行業を営んでいたドイツ・フランクフルトからオランダのアーヘン、それからアムステルダムに移住した。一家が住んでいたフランクフルトはユダヤ人の金融業者が多く、ナチスの憎悪の対象となった。一家を必死に救おうとしたオットーは、1938年から41年にかけて米国か、キューバへ移住を試みたが、米国はオットーの難民申請を認めることがなかった。ついにフランク一家の移住は認められず、1944年8月にナチスにアムステルダムの隠れ家が暴かれ、家族は強制収容所に送られ、アンネ・フランクは還らぬ人となった。
「プレイ」もまたアンネ・フランクからモチーフを得た品種で、「アンネのバラ」の作者のベルギーの園芸家ヒッポリテ・デルフォルヘによって作り出された。
「セント・コルベ」は「プレイ」が変異して生まれた品種で、熊本市のバラ愛好家・高木寛氏宅のバラ園で見つかった。「セント・コルベ」はアウシュビッツ強制収容所で亡くなったポーランド人のマクシミリアノ・マリア・コルベ神父(1894~1941年)にちなむものだ。コルベ神父はナチスに批判的な出版活動を行ったという理由で1941年2月にゲシュタポによって逮捕された。アウシュビッツに送られ、同年7月、脱走者が出たことへの見せしめのための餓死刑が10人に言い渡されたが、妻子がいると叫んだポーランド軍下士官の身代わりに自らなって餓死室の中で食事や水も与えられない中で餓死した。
コルベ神父を殺害したナチズムだが、アメリカのユダヤ人作家レニ・ブレンナー(1937年生まれ)は、『独裁者たちの時代のシオニズム』(芝健介訳・法政大学出版局)の中でナチズムもイスラエル建国の理念であるシオニズムも、ナショナリズムを共通項として血と土地、そして武力による領土の獲得を重視することを指摘している。
「ピース」は、第二次世界大戦中の1945年4月末にカリフォルニア州パサデナで開催された「太平洋バラ協会展」に新種として出品されたが、その直後の5月8日にドイツが降伏して欧州戦線が終わり、「ピース」と名づけられた。「ピース」はその後も1951年のサンフランシスコ対日講和条約調印の会場に飾られるなどまさに平和のシンボルとなった。
広島市の外科医の原田東岷さん(1912~99年)は、被爆によるケロイド治療や原爆治療法の制定に尽力し、広島の平和運動に中心的役割を果たした。医師を引退した1974年に庭いじりを始め、10本のバラの苗木を植え、その年は8本までが花を咲かせた。バラを育て、バラと対話するうちに、バラには平和を訴える力があると思い始めた。そう思わせたのは「ピース」だった。
「平和がなければバラは美しく咲かず、美しいバラを嘆美する心がなければ平和がない」―原田東岷
表紙の画像は神代植物公園で撮ったバラ「ピース」