宮崎駿監督が尊敬する日本人作家が観た共存の理想 -イスラム・スペイン
宮崎駿監督の作品「君たちはどう生きるか」がゴールデングローブ賞を受賞した。
宮崎監督が最も尊敬するのは作家の堀田善衛(1918~1998年)とされ、堀田の「空の空なればこそ」の中の「汝の手に堪うることは力を尽くしてこれをなせ」という言葉を座右の銘にしているそうだ。
フランス文学者でもあった堀田善衛は、人権を唱える国のフランスが植民地を抑圧することに反対し、アルジェリア独立戦争(1954~62年)では戦争の主導的役割を担った「民族解放戦線(FLN)」に共感をもち、強く支持した。
堀田善衛は、放射能に汚染された南の島の守護神であった怪獣が文明社会に憤り、日本を襲うという映画「モスラ」の原作者でもあった。
「言論は無力であるかもしれぬ。しかし、一切人類が、『物いわぬ人』になった時は、その時は人類そのものが自殺する時であろう。・・・・・・」-堀田善衛
湾岸戦争(1991年)についても「国是(憲法)」というものを、いたずらにいじってはいけない。私は銭出すだけでいいと思うよ。経済国家だもの。銭こだけで何が悪い」(堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』朝日文庫、1997年)
その湾岸戦争の直後、サミュエル・ハンチントンは「文明の衝突論」を出し、世界の各宗教文明は対立を深めていくことを説いたが、堀田善衛はイスラム・スペインに文明の人類の共存の姿を見出した。
「イスラム王朝は、ユダヤ教徒に対しても差別しなかった。むしろ彼らを重用したのであった。だから、イスラムのスペインにあって、キリスト教徒から自発的にイスラムに改宗した人もいれば、両者の通婚も自由であった。こうして時代がうつって行くと、イスラム教徒もキリスト教徒も次第に、スペイン人としてのアイデンティティをもつようになり、両者ともに近代スペイン語の先祖であるロマンス語とアラビア語の二カ国語を話すようになり、これが複合し熟成して行って、語彙の10パーセントがアラビア語源、あるいはそれとの複合語である現行スペイン語が出来ていったのである。イスラム教徒は如何なる意味でも“外敵”ではなかった。(中略)
そうしてコルドバ、セビーリア、トレドは、ヨーロッパにおける初期ルネッサンスの、学問の中心であった。ヨーロッパの学者たちは、まずここでアラブ語に訳されたギリシャの哲学、科学などの諸学問を学んだのである。それらのアラブ語文献をラテン語に重訳することにはげんだのであった。ヨーロッパ文明の根幹をなすいくつかの説話、たとえばゲーテの『フアウスト』。シャイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」、アンゼルセンの『裸の王様』などの原型は、すべてペルシャ、アラブから出てスペイン経由でヨーロッパに入ったものであった。・・・
コルドバ、セビーリア、トレドは、全ヨーロッパにとっての、いわば徳川期の我が国にとっての長崎のようなものであった。ルネサンスはまずアラブ経由でヨーロッパにもたらされたものであった。そうしてこの仲介にあたって文化的大役を果たしたものが、スピノザの祖先がそうであったように、主としてスペイン・ユダヤ人であったということは、特筆しておかなければならぬ事実であった。イスラム・アラブ、キリスト教徒、ユダヤ教徒の三者の、この平和な協力共存は、今日から考えてみても、何か夢のようなものとして見えて来るのである。」 堀田善衛著「ゴヤⅠ スペイン・光と影」
日本では湾岸戦争で日本が金銭的支援しか行わず、それで「国際社会」から高い評価を得られなかったなどと主張する政治家、官僚、大学教員などがいたが、彼らの言う「国際社会」は「アメリカ」しか念頭になく、中東イスラム世界ではむしろアメリカの軍事行動と一体とはならかった日本を評価する声に数多く接した。
カナダのモントリオール大学教授のヤコヴ・M・ラブキン氏は「伝統的ユダヤ教徒の根底にあるのは、国家に依存しない『絶対的平和主義』であると主張する。キリスト教でも、イエスの言葉として、「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタ5:39)や「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタ5:44)などがある。本来の宗教とは、平和や安定を破壊するものではなく、むしろそれらを建設する役割を担うものだ。ガザ住民を追い払うなどの主張を行うイスラエルの極右はやはり正しくない。