丹下健三の広島平和記念公園 ―戦争の記憶が遠ざかる時、戦争が私たちに近づきます
12日放送の「新美の巨人たち(しん・びのきょじんたち)」(テレビ東京)は丹下健三が設計した広島平和記念公園を取り上げていた。案内役(Art Traveler)は広島市出身の女優・戸田菜穂で、歯科医だった祖父は被爆者の救命治療に従事した経験がある。
平和記念公園には3回ほど行ったことがあるが、南は平和大通りから北は原爆ドームまでの敷地が一直線になっていることには気づかなかった。これを丹下は「平和の軸線」として平和への想い、平和への闘いがここから広がることを意図していた。
丹下健三は旧制広島高校で学び、高校時代にフランスの建築家ル・コルビュジェに影響を受けた。そのピロティという建築様式は1階を柱で持ち上げ、人々が自由に行きかう空間を考案したものだった。原爆資料館本館はこのピロティの造りとなっていて、大地から立ち上がるような形をしている。放射能や原爆の被害に遭いながらもまた地面から生えてくる生き物のように本館は考案された。
丹下は、1945年8月6日に父が亡くなったという知らせを受け、広島に原爆が投下された時には今治に向かう鉄道の中にいたが同じ日、今治は空襲を受け、母が亡くなった。広島は丹下が大いなる因縁を感じたところでもあった。
「無垢の犠牲者を 父や母や妻や子にもつ 広島の人びとの願いに対してなにか慰霊し祈念するための施設をささやかなものであるにしろ もちたいと感じたのである。」―丹下健三
当初、慰霊碑はイサム・ノグチがデザインしていた地下からアーチ、湧き上がるような死者の無念、生きたいという思いを形にすることが構想された。しかし、なぜアメリカ人に依頼するのかという批判が起こって、丹下健三が設計することになり、野ざらしになっていた犠牲者を風雨から守りたいという思いから埴輪型の慰霊碑になった。
「平和は訪れて来るものではなく、闘いとらなければならないものである。平和は自然からも神からも与へられるものではなく、人々が実践的に創り出してゆくものである。平和を記念するための施設も平和を創り出すといふ建設な意味をもつものでなければならない。」
平和の軸線をさらに北に伸ばして原爆ドームの先にスタジアムや体育館、図書館や子供のための施設をつくる平和の都市構想があったが、現在その幻の構想が実現し始めている。平和をつくるのは子どもたちやスポーツだという考えが丹下にはあり、その子どものための図書館やファミリープール、総合体育館、サッカースタジアムなどが建設されている。
番組の最後ナレーションで「戦争の記憶が遠ざかる時、戦争が私たちに近づきます。決して忘れてはならないと誓う場所、広島平和記念公園。全人類の記憶に刻まれる平和の形。」と語られる。
この言葉は、紛争や、核抑止に訴える世界の指導者たちに聞かせたいものだ。特に戦後80年近く経つ日本では麻生太郎氏の「戦う覚悟はあるか」という発言もあるように、忘却の危機が迫っている。日本国憲法前文には「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、・・・」とあり、9条には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とある。この憲法の精神が広がり、記憶が継承されるところが広島平和記念公園だ。