澤地久枝さんが満洲での体験から得た「戦争は自国民を切り捨てる」
毎年8月になると、先の大戦への反省が語られるが、日本の戦争だけでなく、世界の紛争にも想いを馳せて、悲惨な戦いが起こらないようにするにはどうすればよいのか、日本人には何ができるのか考える機会もなればと思っている。ガザで多くの市民の犠牲を伴う戦争が行われている今年は特にその想いが強い。
17日オンエアされたTBS「報道特集」は、「戦争を語り継ぐ言葉の力」と題するコーナーで作家の澤地久枝さんのインタビューが紹介されていた。澤地さんは2021年12月の日米開戦80年特集の東京新聞の記事で「戦争って遠くの出来事じゃない。日常的なことなんですよ。食べるものがなくなり、愛している人が殺される。それに耐えられますか? そう尋ねると、皆『嫌だ』と言いますね。」と語っている。(東京新聞「日米開戦から80年」)現在のガザでは食べものもなく、愛する家族が容易に殺される事態となっているが、日本がガザのような状態にならない、戦争をしない国であり続けるには澤地さんが言うように、「戦争は絶対に嫌だ」という感情の共有が何よりも求められているように思う。
満洲で少女時代を暮らしていた澤地さんは「軍国少女」で、特攻出撃前の隊員たちの「ゆきます」という声をラジオで聞いて、自分も死ななければならないと思うほど、時代の空気に一人の女の子は影響されていた。
ソ連が満洲に攻めてくる前、澤地さんの通っていた学校は野戦病院になり、澤地さんもおむすびを作って患者たちに配っていた。日本が敗戦すると、日本語を話すようになっていた中国の子どもたちは「日本は負けた」と口々に言うようになり、日章旗に代わって青天白日旗が掲げられるようになった。
それから満洲で1年余り難民生活を送るようになるが、衛生状態も悪く発疹チフスなどで多くの日本人が亡くなっていった。国が間違えれば一番責任を問われなくてもよい人びとにそのしわ寄せがくると澤地さんは語る。
澤地さんは進駐してきたソ連軍に恐怖を覚えたことがある。「終戦直後のある日のこと、二人のソ連の将校が家に押し入ってくると、私にサーベルを突きつけたのです。必死で抵抗し、一時は将校たちを追い払いましたが、しばらくするとまた戻ってきた。私は物置に隠れたのですが、彼らは力づくでその扉を開けようとする。「もう助からない」と思いました。その男たちを必死に制止したのは、私の母でした。」と述べている。1972年にモスクワの空港でソ連兵を見た時に体が凍りつくような想いをしたという。
(澤地久枝『14歳<フォーティーン>』集英社新書)
反戦への想いを膨らませるようになったのは、学生時代に観た映画「きけ、わだつみのこえ」だった。戦争に行きたくない人たちが死んでいくことに大きな衝撃を受けた。2015年の安保法制にも強く反対した。「アベ政治を許さない」という言葉には私たちが怒っている、許せないと思っているすべての想いが込められていると国会前で語っていた。
今また沖縄では、自衛隊の増強が進められているが、「政治はなんでまた沖縄の人たちを見殺しにするようなことをやるんですかね。沖縄がやられるということは日本全体がやられるということなんです。不法な政治は人間の暮らしなんか考えていない。」と語っていた。
イスラエルのネタニヤフ首相が自己の権力保持のために、ガザの4万人もの人々をいとも簡単に殺害するところを見れば、澤地さんの言うことには説得力がある。また「政治はどんなに簡単に自国民を切り捨て、振り向きもしないことは自分の体験からもよくわかっている」と話していたが、防衛費倍増、反撃能力、武器輸出解禁によって、日本が戦争に近づいたということは間違いない。これらを推進した岸田首相が戦争で犠牲になる国民のことを真剣に考えているとは思えないし、戦争は自衛隊に任せるという発想を安易にもっているように見える。しかし、戦争になれば、澤地さんが言うようにミサイルは日本全土に飛来し、沖縄だけの戦争に留まらない。
澤地さんは若い世代と戦争について対話することが大事と考え、「若い世代も想像力を支えにして、日本の体験の極限にまで近づいてほしい」と書いている。(「若いあなたへ」『それでも私は戦争に反対します』平凡社、2004年)若い世代に日本人がかつて直面した戦争の実相を知る努力を求めているが、昨年10月7日以来のイスラエルのガザ攻撃の悲惨な実相に日本の若い世代も日々ニュースやSNSなどを通じて触れることによって、ガザ戦争に反対する運動に多くの若い人たちが参加し、中には若い人たちが主体となって運動を展開していることに日本の若い世代にも「戦争は嫌だ」という想いが定着するようになったと感じている。
アルバムの表紙の画像は「国会前で行った政権批判の集会で参加者に向かって呼びかける作家の澤地久枝さん(右)=東京都千代田区で2021年4月、西夏生さん撮影」