アラブから愛された日本人たち
12月2日、岸田首相はイスラエルのガザ攻撃で経済状況が厳しいと見られるヨルダンに対して1億ドルの支援を行うことをアブドラ国王に約束した。ヨルダンには230万人余りのパレスチナ難民が生活するが、日本経済も決して楽ではないものの、日本からの支援が難民たちの生活改善につながることになればと思う。
日本は20世紀初頭にロシア帝国主義と戦い、またアメリカなど欧米の中東政策と一線を画し、ヨーロッパ帝国主義とは異なってアラブ政治に軍事的に介入しない姿勢などで、ヨルダンのようなアラブ世界からの信頼を歴史的に得てきた。
日露戦争での日本兵の戦いぶりを描いた桜井忠温(ただよし:1879~1965年)の『肉弾』は、アラビア語に翻訳された最初の日本の小説であり、訳したのはエジプトの退役軍人で、日本に在住していたアフマド・ファドリーだった。(1909年に翻訳)
この小説はアラビア語だけでなく、英訳をはじめ世界16カ国語に翻訳された。戦争の悲惨な極限状態にあって戦友や部下を気遣い、また郷里の家族に想いを馳せる兵士たちの姿を描く。「肉弾」は戦場における人間愛や、平和への憧憬、戦争への憎悪が語られる。
元松山市考古館長の大野慶一氏は桜井忠温氏のことを松山が生んだ「反戦・非戦の人 陸の桜井忠温・海の水野広徳」と形容している。アラブ世界で広く読まれたのは、ロシアというヨーロッパ列強に立ち向かって日本兵の戦う姿が当時のヨーロッパ帝国主義に苦しめられたアラブ人たちの自らの姿と重なるからだろう。
サウジアラビア王家は、1950年代初頭ヨーロッパ植民地主義支配とは無縁の日本の山下太郎(1889~1967年)のバイタリティーと誠実な人柄に注目した。山下は日本の経済発展には石油は欠かせることができないと考え、ペルシャ湾とその周辺の油田開発のため、サウジ王族と直接交渉して、ペルシャ湾の中立地帯における開発利権を得た。山下には石油輸入を100%アメリカに依存する日本の姿が健全ではないと映っていた。アラブ人は人と出会った瞬間にその人物の器を判断するともいわれている。それまではメジャー(資本力と政治力で石油の探鉱〔採掘〕、生産、輸送、精製、販売までの全段階を垂直統合で行い、シェアの大部分を寡占する石油系巨大企業複合体)とサウジアラビアなど産油国の利益は50%ずつの折半であったが、山下太郎は取り分を44%に引き下げるなどメジャーの意向を度外視しても石油開発権を得るという姿勢を明らかにしていった。
1960年1月31日、ペルシャ湾の海底油田第1号の試掘に成功し、カフジ油田と名づけられた。さらに海底油田の開発が進められた。1970年には日本の輸入総量の10%を、アラビア石油が占めるまでになった。山下はまた「日本サウディアラビア協会」をも立ち上げ、両国関係の緊密化にも努力した。
日本の建設会社の水野組は1967年6月5日、第三次中東戦争でイスラエルがエジプトに奇襲をしかけた日、イスラエルとエジプトの戦闘機が空中戦を行っている最中、「行っても爆弾、引き返しても爆弾なら、入札に行こう!」という社長の水野哲太郎の一言で、スエズ運河庁の入札に臨んだが、運河庁に到着すると、担当官たちはすでに退避していた。エジプト人ですら避難する中で、入札会場に現れた日本人の勇敢さにエジプト人たちは驚き、500億円のプロジェクトを水野組は落札した。この逸話も第三次中東戦争の惨めな敗戦にエジプト人が打ちひしがれる中で、エジプトでは広く、長く伝説的に語り継がれることになった。
日本はPLO(パレスチナ解放機構)に早くから代表権を認め、欧米に先んじてPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長を迎え入れるなど、その立場に理解を示し、欧米とは明らかに異なる政策をとっていった。田中角栄政権時代には、パレスチナ人の民族自決権を認め、イスラエルの全占領地からの撤退を明確に訴えた。
2016年2月に他界したアラブで著名なエジプト人ジャーナリストのモハメッド・ヘイカルは「日本とアラブ世界の間にはプラトニック・ラブとも言うべき感情がある」とも述べた。また日本ムスリム協会理事の水谷周氏は「アラブ・ムスリムから見れば、長い間日本は友好的でかわいい兄弟のような存在であったということは、広く知られている。『ヤーバーン・クワイエサ(日本は善良だ)。』という言葉は、お世辞ではなく道行く市民や大学仲間たちから普通に耳にする声であった。(中略)」と語っている。
日本、あるいは日本人たちは、欧米やロシアとは異なるアラブ人の心の琴線に触れるふるまいでアラブ世界の信頼をいっそう勝ち得て、それが日本人の安全を高めたり、日本に経済的恩恵をもたらしたりするなど、日本、あるいは日本人全体の資産となっていくに違いない。