イスラエルに核兵器を保有させたアメリカの「二重基準」と、日本はその「二重基準」に従う?
イスラエルは、イランをはじめイスラエルと対立する国の核開発には容赦ない姿勢を見せてきた。イランへの報復で、イスラエルがイランの核関連施設を攻撃するという可能性も指摘されているが、このイスラエルの姿勢は1980年代のイラクの核へのそれに類型を見るようだ。
イスラエルは、サダム・フセイン政権下のイラクが核兵器開発の疑惑をもたれると、1981年にイラクの首都バグダード近郊のオシラク原子炉を空爆して破壊してしまった。 イラクと、イラクに原子炉を輸出したフランスは、イラクの核が平和利用であると主張していたが、イスラエルはイラクが核兵器製造に近いと訴え続けた。イスラエルの情報機関モサドは、イラクの核開発を挫くための極秘の作戦を行っていた。
モサドは、1980年6月に、イラクの核開発を指導していたエジプト人のヤフヤー・アル・マシャド(1932年生まれ)をパリのホテルの一室で殺害した。イラクの核物理学者であったアブドゥル・ラスールも1983年にパリで昼食をしている間に毒を注入されて死亡した。
さらに、モサドのエージェントが1979年4月にはフランスのトゥールーズでイラクに向けて輸出されようしていた原子炉に爆弾をしかけ、その60%を破壊した。
2018年7月9日に発売となったダン・ラヴィヴとヨッスィ・メルマンの共著による『ハルマゲドンに対抗するスパイたち:イスラエルによる極秘戦争の内幕("Spies Against Armageddon: Inside Israel's Secret Wars")』には、モサドが少なくとも4人のイランの核科学者を殺害したと書かれている。
ジョン・F・ケネディが大統領に就任する直前の1961年1月19日、前任のアイゼンハワー大統領と会談する機会があったが、ケネディがどこの国が次の核保有国になるかと尋ねたところ、アイゼンハワー政権のクリスチャン・ハーター国務長官は「イスラエルとインド」と即座に答えたという。
ケネディ大統領は核兵器の拡散について強い懸念を抱いていた。ケネディは、10年か、20年後に世界の20カ国から30カ国が核兵器を保有するという「核の無秩序状態」になることを恐れ、イスラエルの核兵器開発を断念させる意図をもった。かりにイスラエルが核開発を継続すれば、アメリカはイスラエルの安全保障に責任をもたないという圧力をケネディはイスラエルにかけた。ケネディは、アメリカが2年に一度ディモナの核関連施設を査察するという提案を行ったが、しかしこれは実現せずにケネディ政権は彼の暗殺によって終焉することになった。
イスラエルの核の不透明性を維持する政策は、イスラエルとアメリカの核不拡散の政策が衝突しないようにする意図をもって行われるようになっていた。1966年、NPT(核不拡散)体制が完成しつつある頃、イスラエルはすでに核爆発をさせる能力をもっていたが、その実験を行うことはなかった。
この核の「不透明性」政策によってイスラエルは、核兵器の開発を制約なしに行うことになった。イスラエルは、アラブ諸国による核兵器保有を容認せず、既述の通り1981年6月、イラクのオシラク原子炉を爆撃して破壊した。
現在、イスラエルは90発前後の核弾頭を保有していると見られている。国際社会はイスラエルにNPTに加盟させるなど、核兵器に関する国際協力に応じさせることによって、イスラエルの核の脅威を減じさせることができるが、イスラエルには一向に応じる姿勢がない。アメリカはイスラエルの核については黙認し、イスラエルのNPT参加を促すこともなかった。今回のイランのイスラエル攻撃を受けてEUはイラン制裁を検討することになったが、イスラエルのイラン大使館攻撃については何の批判もなかった。日本の上川外相はイランのみを非難し、イスラエルには自制を促した。またも主体性のない外交で、欧米の「二重基準」が過激派のテロの動機となってきたことを考えると、欧米追随の岸田政権の姿勢は日本国民を危険に陥れる可能性がある。
ケネディは下のような言葉を残したが、現在進行中のイスラエルをめぐる中東・国際社会の危機は人間の理知と精神によって解決したいものだとあらためて思わざるを得ない。
「我々の問題は
人間によって作られたものだ。
それゆえ、人間によって解決できる。
人間の理知と精神は、
解決不可能と思われることも
しばしば解決してきた。
これからもまたそうできると
私は信じている。」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?