鈴木史朗市長は「反セム主義者」ではない ―的外れな世界的な反ユダヤ主義団体の批判
世界の反ユダヤ主義を監視する米ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」は長崎市がイスラエルを招待しないことについて日本で反ユダヤ主義が広がっていることを懸念する声明を出していた。
7月31日付の声明は、長崎市を強く非難し、ヴィーゼンタール・センターのエーブラハム・クーパー副所長は、イスラエルを招待しない鈴木史朗市長の判断は、「道徳に反する」もので、ハマスの攻撃で犠牲になった1200人のイスラエル人を侮辱し、テロリストを奨励するものだと述べている。長崎市の決定は日本と、米国、またユダヤ人の信頼を損なったと述べた。
鈴木市長の判断がハマスの攻撃の犠牲になった1200人の人々を侮辱するものでないことは明らかだ。イスラエルや、イスラエルを擁護する人々は、イスラエルが非難されると、必ず「反セム(ユダヤ)主義」という言葉を用いて、イスラエルを批判する人々を攻撃してきた。最近では、ガザ即時停戦を求めたり、米国の大学が軍需産業からの撤退を求める米国の大学生たちの運動も「反セム主義」と決めつけられたり、パレスチナとの連帯を表明する女優のエマ・ワトソンを「反セム主義者」と形容されたりした。
そもそも日本にはヨーロッパとは違って、ユダヤ人差別の意識や行動などほとんど存在しない。ユダヤ系団体による鈴木市長への批判は「反セム主義」という言葉に甘えているうようで、ひどく的外れだ。現在欧米で反セム主義が高まっているとすれば、その原因をつくっているのはイスラエルの非人道的なガザ攻撃だ。鈴木市長がイスラエルの招待を躊躇したのは、国際刑事裁判所の主任検察官がネタニヤフ首相やガラント国防相の逮捕状を請求したようなイスラエルによる戦争犯罪にあったことは明らかだ。
カナダの著名なジャーナリストのナオミ・クラインは、ネタニヤフ首相のリクード(ネタニヤフ首相の政党)型のシオニズムは人種主義的で、ジェノサイドをも平然と行う極右戦闘の「宗教シオニズム(イスラエルの極右政党)」や「ユダヤの力(同様に極右政党)」と同盟し、多くの進歩的、左派の活動家にとって忌まわしいイメージを作り出し、右派であろうと、左派であろうと、あまり知識のない人びとにはユダヤ教と、無慈悲な超国家主義(極右的シオニズム)との混同をもたらし、反セム主義に火を点けるようになっている、と述べている。
「消えぬ怒り 消えぬケロイド 原爆忌」 ―下村ひろし
下村ひろし氏は長崎の開業医で、被爆者の医療活動に傾注した。
長崎に原爆を投下した主体である国の米国のエマニュエル大使は長崎平和祈念式典をイスラエルが招待されていないという理由で欠席する。彼にとって、被爆の犠牲者の慰霊よりも、イスラエルとの同盟関係のほうが重要のようだ。
米国人作家のスーザン・サザードさんは、米国が日本の66の都市を空爆し、668、000人の市民を殺害し、長崎では1945年の末までに原爆で74,000人の男女・子どもが亡くなったが、そのうち軍関係者はわずかに150人であったことを指摘し、これは現在では「テロリズム」と呼ぶべきものではないかと語っているが、同様にイスラエルがガザで4万人の人々を殺害したことは「テロリズム」と呼ぶべきものだ。エマニュエル大使には米国やイスラエルの「テロリズム」によるテロリズムの犠牲者たちに哀悼の意を表してほいいものだ。
Barry Lewisの“Kazuo Ishiguro”という評伝の中には、ヒロシマは原爆の悲劇と同義語で、エノラ・ゲイは広く知られているが、長崎に原爆を投下した爆撃機の名前はどれほど世界に知られているだろうかと書かれている。ヒロシマは原爆文学の中に描かれているが、ナガサキは原爆文学の描写の中にあまりなく、その意味でも長崎の被爆は世界でもっと知られる必要がある。
長崎の被爆で背中に大きなケロイドを負った谷口稜曄(すみてる)さんは「過去の苦しみなど忘れ去られつつあるようにみえます。私はその忘却を恐れます。忘却が新しい原爆肯定へと流れていくことを恐れます。」と述べた。サザードさんは、長崎の被爆者たちの困難をつぶさに観察して同情し、それを世界に訴え、米国の核軍拡に反対の声を上げてきた。
核爆弾を投下された日本政府は、欧米諸国やユダヤ系団体の長崎市しへの批判に反論すべきではないか。こんな論争で長崎が忘却されるのは到底納得できない。イスラエルのガザ攻撃やそれをかばう欧米諸国、また反ユダヤ主義団体の的外れの批判によって、被爆した長崎の人々の苦しみが忘却されることを懸念せざるを得ない。