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ネタニヤフはなぜタカ派になったのか? ―アラブに対する猜疑心が彼を頑なにした

 15年余りイスラエルの首相職にあるベンヤミン・ネタニヤフの右翼・タカ派的考えの形成には彼の家庭的影響が大きい。彼の父親のベンシオン・ネタニヤフ(1910~2012年)は歴史家で、米国のコーネル大学などの教授を務めたが、イスラエル国家創設のためのロビー活動を米国で行い、その著述で修正シオニズムのイデオロギーの正当性を訴え続けた。修正シオニズムは、ウラジミール・ジャボチンスキー(1880~1940年)によって創始されたイデオロギーで、現在のイスラエル、パレスチナ、さらにはヨルダンまでもユダヤ人国家が支配することを主張し、1947年の国連パレスチナ分割決議にもパレスチナ全域をユダヤ人が支配するという修正シオニズムの考えに背くとして反対した。

 ベンシオンの父親のネイサン・ミレイコフスキー(1879~1935年)はポーランドのラビで、シオニストの活動家だった。ミレイコフスキー一家は、1920年にパレスチナに移住し、スラブ語のミレイコフスキーという姓をヘブライ語のネタニヤフに変えた。当時、東欧からのユダヤ人移民(アシュケナジム)はヨーロッパ風の名前をヘブライ語名に変えることが一般的になっていた。ベンシオンは、父親のネイサンとは異なって世俗的なシオニストで、アラブ人との交渉による平和は不可能と訴え、入植の拡大をずっと支持し続けたが、こうした考えが息子のベンヤミンにも影響を及ぼすことになった。

ベンシオン・ネタニヤフ https://en.wikipedia.org/wiki/Benzion_Netanyahu

 ベンシオンは、1944年にツィラ・シーガルと結婚し、ヨナタン(1946~76年)、ベンヤミン(1949年生まれ)、イド(1952年生まれ)の3人の息子をもった。長男のヨナタンはイスラエル軍の特殊部隊「サイェレット・マトカル」の司令官としてパレスチナ・コマンドにハイジャックされたイスラエル航空(エル・アル)旅客機のウガンダ・エンテベ空港での救出作戦を指揮した。この作戦では106人のイスラエル人人質のうち102人が救出されたが、ヨナタンは救出作戦を担ったイスラエル軍の唯一の戦死者となった。ヨナタンはベンヤミンにとっては特別な存在だった。ベンヤミンにとってヨナタンは大きな存在で、彼がパレスチナ人との戦闘の中で亡くなったことも、彼のパレスチナ人に対する見方を決定づけることになった。

 ベンシオンは戦闘的な修正シオニズム思想の信奉者だった。ウラジミール・ジャボチンスキーは1923年にパレスチナのユダヤ人はアラブ人との間に強力な「鉄の壁」を築き、アラブ人に対して武力で優越し、防御に優れたユダヤ人国家創設を説いたが、そうしたアラブ人との対決姿勢をベンシオンは支持し、イギリス支配と宥和的なシオニストたちを批判するようになった。ベンシオンは1940年にジャボチンスキーの秘書の助手となるために米国に渡ったが、ジャボチンスキーが間もなく亡くなったために、米国のタカ派のシオニスト組織の事務局長となり、イスラエル建国の年である1948年までその職にあった。米国の修正シオニズム運動の指導者の一人となり、また米国の国会議員たちがシオニズムを支持するようにロビー活動を熱心に行った。

 ベンシオンは1949年に独立間もないイスラエルに戻ると、アラブ人に対する強硬な見解を次々と発表するようになり、イスラエル国内のアラブ人は我々の絶滅を図るだろうと主張したり、アラブ人のイスラエル・パレスチナからの追放を明確に訴えたりした。アラブ人の本性は紛争を行うことにあり、アラブ人には妥協という観念がなく、イスラエルの本来的な敵であることを熱心に説いて回った。

 ベンシオンは彼の主著である『151世紀スペインにおけるスペイン異端審問の起源(The Origins of the Spanish Inquisition in fifteenth century Spain)の中でスペインのユダヤ人は自ら主体的にキリスト教徒になったと主張する。1481年に異端尋問が開始されるまでにごく少数しかユダヤ人はイベリア半島に存在しなかったとベンシオンは解釈した。しかし、同化はスペインのユダヤ人を救うことにはならなかったとベンシオンは考えた。スペインでは1802年にも300年以上も前の「ユダヤ教徒追放令」が繰り返され、ユダヤ人の子孫された者の商店や宝石工房が襲撃され、略奪されるという事件も発生するほどユダヤ人に対する人種的差別観や弾圧が続いていた。

 19世紀、20世紀にキリスト教に改宗したユダヤ人たちもナチスのホロコーストを免れることがなかった。これらの歴史を見て、ベンシオンや息子のベンヤミンには、味方のいないユダヤ人はユダヤ人の手によって守らなければならないという確信が生まれていった。自身の考えを父親のように曲げることがないベンヤミンは、イラン核合意などイランとの妥協や合意もまったく信用できないという世界観をもち続けている。

表紙の画像はパリの反テロ行進に参加するネタニヤフ
2015年1月
https://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/middleeast/israel/11339483/Benjamin-Netanyahu-ridiculed-over-appearance-at-Paris-solidarity-march.html

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