広島からレバノンへ ―東西文化・文明の結節点レバノンに戦争は似合わない
イスラエル軍がガザから攻撃の重点をレバノンに移す可能性が指摘されるようになった。ヒズボラのロケットやミサイルなど飛翔兵器はイスラエル、特に北部の安全保障にとって重大な脅威となっている。
レバノンはフェニキア商人の活動の拠点であったところで、国際的な貿易・商業の伝統がある。1908年(明治41年)に作られた高知商業の校歌2番にも下のような歌詞がある。
天にそびゆる喬木を
レバノン山の森に伐り
舟を造りて乗り出でし
フェニキァ人のそれのごと
パレスチナの民族詩人マフムード・ダルウィーシュ(1941~2008年)は『忘却の記憶において』で、イスラエルが包囲したレバノン・ベイルートでの戦争の惨禍を1982年の「8月6日」に焦点を当てて描き、その日にイスラエルが広島の原爆と同様に、新型の燃料気化爆弾でベイルートの12階の建物を形がないほどに吹き飛ばしたことを、日本の被爆者たちの悲劇と重ね合わせた。
「ヒロシマの問題は全世界の人々の心の奥深く突き刺さったままだ。この残虐の代価を負ったのはヒロシマの人々だが、それは全人類が負った代価だと言える」 ―パレスチナの民族詩人・マフムード・ダルウィーシュ
彼は、「8月6日」を作品の焦点に当てたが、2008年の広島の原爆記念日(8月6日)を重い心臓疾患の手術の日に選び、その直後の8月9日(長崎原爆の日)にその合併症のために亡くなった。このように、広島、長崎への原爆投下は、彼の詩作にも強いモチーフを与え、日本の被爆都市は彼の人生と縁があるものとなった。
古代地中海東岸に栄えたフェニキア商人たちは、エジプト、バビロニア、クレタの影響の下に、紀元前12世紀頃から現在のレバノンの地中海沿岸都市シドン(サイダ)・ティルス(スール)を中心としてイスパニア(スペイン)にまで進出し、杉・銅・干し魚・染料などを輸出し、琥珀・錫を輸入して地中海貿易で活躍した。
私たち日本人もローマ字として使うアルファベットもフェニキア人に始まっている。アルファベットは、紀元前2000年頃にシリア・パレスチナで発明されたセム系文字に起源をもつとされる。特にフェニキアのアルファベットは前1000年から前700年頃ギリシア人に伝えられ、ギリシア人はフェニキア文字に母音を加えて、ギリシア・アルファベットをつくり、それがラテン文字やロシア文字となっていった。
ヨーロッパで産業革命が起こると、ヨーロッパの工場で生産された製品が大量にベイルートに荷揚げされるようになった。19世紀になると、1866年にアメリカのプロテスタントがシリア・プロテスタント・カレッジ・を創設し、それがベイルート・アメリカン大学に発展していった。1881年にフランスのイエズス会は、セント・ジョセフ大学を創立した。1900年までにアラブのジャーナリズムの先駆的存在となり、アラブの文化遺産の復興運動が起こり、アラブ世界の統一を図るアラブ・ナショナリズムの先駆的運動が行われるようになった。
このように、ベイルートは中世時代においてはヨーロッパとの交易で栄え、近世、近代になると、東地中海地域でヨーロッパの知的潮流の担い手となるなど、東西文化・文明の結節点として機能したが、第二次世界大戦以降、ベイルートなどレバノンが著しい混乱に陥るのは、1982年、2006年のイスラエル侵攻だった。
表紙の画像は空爆されるレバノン南部
Israel warns Lebanon of prospect of ‘all-out war’ as U.S. seeks to de-escalate hostilities (cnbc.com)