日本の馬術のメダル獲得とイスラム世界で尊ばれた馬 ―ガザの共存とウズベキスタンの親日
総合馬術最終種目の障害飛越で団体の日本は銅メダルを獲得した。馬術の日本勢のメダルは、1932年ロサンゼルス大会で金メダルを獲得した西竹一中尉(1902~1945年)以来のことだった。西中尉(最終階級は大佐)の名前はロサンゼルスのオリンピック・スタジアムに刻まれていたが、馬術で優秀な成績を収めるのは欧米では名誉のことで、硫黄島での戦いの時も米軍は西の助命を考え、投降をしきりに呼びかけたが、応ずることはなかった。
中東イスラム世界でも馬は尊ばれ、特に馬の機動力はイスラム世界の拡大に貢献した。
イスラムの預言者ムハンマドの馬へ愛着には特筆すべきものがあり、15頭の馬を所有したと言われている(24頭説もあるが)。馬は俊足で、機動力にすぐれ、人間に従順で、また強靭でもあった。7世紀におけるアラブ・イスラム世界の急速な拡大を支えたのはラクダとともに馬であった。アラブ馬は小さいながらも優美な体型をしていて、血をよく伝え、サラブレッドの母体ともなった。
イスラムでは賭けは禁じだが、賭けのない競馬も戦士の訓練のためによく行われた。
アラブ文学においても馬は高い地位を占め、またムスリムの中には馬は神の乗用として供された宗教的起源をもつとも信ずる者たちもいる。
アラブ世界では天才的青年は「ムフル(muhr)=子馬」に、また才色兼備の女性は「ファラサ(farasa)=雌馬」にたとえられる。
現在、イスラエルが攻撃を続けるガザでも競馬場があり、イスラム、クリスチャン、ユダヤ教徒が共存して暮らしていた。
10世紀、歴史家たちはガザには大規模なモスクがあり、ワインヤードなど農地に囲まれた美しい街であったと記し、キリスト教もアシュケロン(現在のイスラエル南部の都市)のクリスチャンの教区に組み込まれて活動していた。しかし、11世紀の終わりになると、十字軍がやって来て、ガザを2世紀にわたって支配した。ただ、エルサレムとは違ってここではムスリム、十字軍、ユダヤ人は共生していた。マムルーク朝(1250~1517年)支配の14世紀になると、ガザでは競馬場、マドラサ、モスク、ハーン(隊商宿)の建設が続々と見られるようになり、三つの宗教が共存しながら大いに繁栄した。
西竹一の父親、西徳二郎(1847~1912年)は明治時代、日露戦争の前に中央アジアを踏査したが、彼にも馬にまつわるエピソードがある。
西徳二郎は薩摩藩士の家に生まれた。藩校造士館で武道や和漢用の学問を身につけ、薩英戦争(1863年)や戊辰戦争(1868~69年)に従軍した。
1870年にペテルブルグ大学に留学し、法政学を専攻しながら、ロシアの国情を調査するようになった。1876年にパリで外交官生活を開始し、1878年にペテルブルグ在勤に転じ、そこで臨時代理公使となる。その間、美術、音楽、舞踏、馬術などに親しみ、社交界でも活躍した。
西は、1880年にタシケント、サマルカンド、ブハラ、アルマトゥイなど中央アジア各地を訪問し、現地の事情を調査した。現在のウズベキスタンを構成するブハラ・アミール国では、統治者であるアミール・ムザッファルに謁見し、馬1頭と衣類3着を与えられた。西はアミール国の要職がペルシャ人たちによって占められていることを報告している。「ペルシャ人はウズベク人よりも開けかつ怜悧なるをもって、この地方において諸業に従事し生計を営むは、その本国においてするよりも易し」と書き記した。西はブハラでペルシャ(イラン)系宰相のムハンマディ・ビーとも交流し、馬具を贈呈され、馬1頭を買えるほどの11ルーブル紙幣を与えられ、そのことへの礼状をペテルブルグに帰還後にムハンマディ・ビーに送った。西は、現在でもある中央アジアにおける良好な対日感情の端緒をつくった人物ともいえるかもしれない。
ウズベキスタンは、柔道女子52キロ級で東京五輪金メダルの阿部詩などに勝って金メダルに輝いたケルディヨロワ選手の国、ウズベキスタン勢では柔道初の金メダルだったが、ウズベキスタンでは柔道発祥の国、日本への親近感がいっそう増すことだろう。
表紙の画像は馬術で銅メダルを獲得した4人
https://www.yomiuri.co.jp/olympic/2024/20240729-OYT1T50299/
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