オスマン帝国の発展に貢献したスペイン・ポルトガルから追放されたユダヤ人たち
イスラエルはパレスチナ人たちを警戒や排除の対象としているが、イスラム世界では、ヨーロッパのユダヤ人差別・迫害とは異なって、ユダヤ人をその社会に円滑に受け入れてきた。
たとえばユダヤ人たちのオスマン帝国の社会・経済発展への貢献には特筆すべきものがあり、15世紀の終わりから16世紀はじめにかけてユダヤ人がスペインやポルトガルから追放されると、オスマン帝国はユダヤ人たちの能力を国の利益として役立てようとした。
オスマン帝国の第8代スルタン、バヤズィト2世(在位1481~1512年)は、ユダヤ人たちを貿易、商業、金融、徴税担当官などの分野で活動させることを考えた。オスマン帝国はユダヤ人たちが税を納める限りは、彼らの信仰に干渉することもなく、強制改宗させることもなかった。
スペインでは、1469年にアラゴン王国のフェルナンド王子とカスティリャ王国のイサベラ王女が結婚し、フェルナンドがアラゴン王に即位した1479年に両国は合邦して、スペイン王国が成立し、二人は「カトリック両王」と呼ばれるようになる。また1492年にグラナダを拠点とするイスラムのナスル朝が滅ぼされてレコンキスタ(国土回復)が完成すると、ユダヤ人たちはキリスト教に改宗するか、スペインを離れるかが求められた。
バヤズィト2世は船舶をスペインに送って、ユダヤ人に救援の手を差し伸べたが、自らはユダヤ人を受け入れることによって国力を強化し、他方フェルディナンド2世は国の弱体化をもたらしたと述べた。イベリア半島から逃れたユダヤ人たちは主にサロニカ(現在のギリシアのテッサロニキ)、イスタンブール、イズミルに居住するようになった。オスマン帝国全盛のスレイマン1世(在位1520~66年)の時代、イスタンブールの人口が50万人であった時、オスマン帝国のユダヤ人の数は4万人で、サロニカは当時世界で最もユダヤ人人口が多い都市であった。帝国の繁栄は、ユダヤ人に活躍の場をいっそう与えることになり、ヨーロッパ諸都市との交易でも商業活動に習熟したユダヤ人たちは重要な役割を担った。
オスマン帝国がスペインから受け入れた著名なユダヤ人ファミリーにアモン家があり、ナスル朝のスルタン・ムハンマド12世に仕えたアイザック・アモンはスルタンの侍医だった。その親戚のジョゼフ・アモン、その息子のモーゼス・アモンは1492年にスペインを離れ、イスタンブールに移り住んだ。バヤズィト2世はアイザックを侍医と政治顧問として迎え入れた。モーゼスもまたバヤズィト2世の息子セリム1世、またスレイマン1世の侍医、顧問、外交官として活躍した。モーゼスはイェシーバー(タルムードを学ぶ場所)に経済支援を与え、またユダヤ人学者たちの翻訳活動に資金を提供するなど、イスラムのオスマン帝国の中にあっても、ユダヤ教の宗教活動を公然と支えた。
オスマン帝国のユダヤ人たちは、ヨーロッパにあった反セム主義とは無縁で、自由に生活することができた。19世紀のヨーロッパではユダヤ人たちは、ゲットーと呼ばれる居住区に押し込められ、財産の所有も認められなかったが、オスマン帝国では、独自の教育を受け、出版活動を行い、新聞を出すこともできた。
アジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがるオスマン帝国の下で通商活動が活発に行われ、ここでもユダヤ人たちは活躍した。富裕なユダヤ人たちは、帝国政府関係者にも、資金の貸付を行うこともあった。
イスラエルは、ユダヤ人の歴史として、ヨーロッパで迫害されたことを強調しがちだが、イスラム世界ではムスリムたちと共存していた過去を思い起こす必要があろう。国の発展のためにはパレスチナ人の商業的才能、知識や知恵、技術も必要なはずだ。子供たちをも抑圧するようでは、真の意味でのパレスチナ和平はやって来ない。
アイキャッチ画像はスペインから追い出されるユダヤ人たち
https://epicworldhistory.blogspot.com/2012/06/expulsion-of-jews-from-spain-1492-and.html?fbclid=IwAR0SV_K5P349h09ffQ4Bp8s5PUnJisusPjB2GwA4k8T5k-u4jQT_bpEw7cw