ヨーロッパ植民地主義者の姿勢を引き継ぐイスラエルのガザ攻撃
18日、ラテン・エルサレム総大司教区座は、イスラエル軍兵士が母娘二人を狙撃し、殺害したガザ地区の聖家族教会で撮影した写真をフェイスブックにアップした。この教会にはガザ地区住民数百人が避難を行っている。イスラエル軍は19日までにガザ最大のシファ病院で26人を殺害し、さらにガザ地区ではアルジャジーラのカメラマンなど100人近くのジャーナリストたちがハマスの攻撃があった10月7日以降に殺害され、アルジャジーラは国際刑事裁判所(ICC)に捜査を要求する。
ハマスの奇襲後のガザ地区に対するイスラエル軍の徹底的で、大規模な攻撃はヨーロッパ植民地主義者のメンタリティーや姿勢を引き継ぐものだ。
1879年1月、アフリカ南部のズールー王国のイサンドルワナの戦いでズールー軍はイギリス軍の正規軍兵士約800人とアフリカ人予備兵約500人を殺害した。これはイギリスのプライドを大いに傷つけ、先住民の抵抗がイギリスの他の植民地に波及することを恐れたイギリスは同年7月のズールー王国の首都ウルンディの戦いでズールー軍に完勝し、ズールー族1万人が殺害され、ウルンディの町は徹底的に焼打ち、破壊された。
同様にエチオピアに侵攻したイタリアは1896年のアドワの戦いでイタリア軍は12万人のエチオピア軍の前に敗北し、1万1000人ぐらいが戦死した。イタリアでは強い報復の声が上がったが、アドワでの敗北に復讐したのはファシストのムッソリーニ時代で、1935年に約7万人のエチオピア人が殺害された。
イギリスの植民地主義者のセシル・ローズは1870年に南アフリカに渡り、ダイヤモンド鉱採掘に従事して巨万の富を得て、トランスヴァール(現南アフリカの北部)の金鉱を独占した。彼は、1890年にイギリス・ケープ植民地政府の首相となった。ヨーロッパ諸国がアフリカでの植民地獲得に躍起となった「アフリカ分割」の時代に、ローズはイギリスのアフリカ縦断政策を推進し、エジプト・カイロとケープタウンを結ぶ地域の獲得にエネルギーを傾注していった。
ローズは、1889年には東インド会社をモデルに貿易会社であると同時に統治・警察権をもつイギリス・南アフリカ会社を設立し、中央アフリカ進出を目指し、1894年にンデベレ人やショナ人の居住地域を征服して植民地としたが、イギリス本国の4倍の面積をもつその植民地は彼の名前にちなんでローデシアと名づけられた。1895年にトランスヴァール共和国を併合しようとしたが、失敗してケープ植民地首相を辞任することを余儀なくされた。
あまり知られていないが、セシル・ローズの植民地主義の方策は、パレスチナにユダヤ人の国家をつくろうとするシオニズム運動のイデオローグであるテオドール・ヘルツル(1860~1904年)にも大きな影響を及ぼした。ヘルツルは、ローズにシオニズムへの理解を求め、1902年、ローズの晩年に手紙を送っている。ヘルツルは、ローズが経営していた南アフリカ会社のように、パレスチナにユダヤ人会社を設け、貿易・通商活動を行い、国家経営の基盤にしようとした。ヘルツルが構想するパレスチナには、アラブ人地主や貧しい小作農たちが農業活動を行ってきた。ユダヤ人国家においては先住の小作農たちを排除し、彼らに代わりの職を与え、秘密の仲介者を使って地主たちから土地を購入し、ユダヤ人国家に必要な土地を獲得していくことをヘルツルは考えた。
ヘルツルの考えはイギリス植民地主義に影響を受け、それが先住の人々を排除・征服していったように、ユダヤ人ナショナリズムを背景にする新たな国家建設は先住のパレスチナのアラブ人との軋轢を生み出していった。ローズによるローデシア建設やトランスヴァール共和国侵入のように、暴力の行使をも伴っていった。ローズが中心となって築いたイギリス植民地主義がアパルトヘイトをもたらしたように、ヘルツルのイデオロギーによってつくられたイスラエルは21世紀になってヨルダン川西岸に分離壁を設けたり、ガザ地区を経済封鎖したりしてアパルトヘイトを固定化しようとしている。
南アフリカはアパルトヘイトを克服し、世界ではBLMの運動が注目され、オックスフォード大学のセシル・ローズ像の撤去も叫ばれた。イスラエル・ネタニヤフ政権が植民地主義者の姿勢を強く見せ、ガザでの殺戮や破壊を進める中で、国際社会は世界史の負の遺産からパレスチナ問題をあらためて見直し、それがいかに不合理なものか、考えを及ぼすことがあってもよいだろう。