![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/156821234/rectangle_large_type_2_70e31fe719c3a04380be217104c212ba.jpeg?width=1200)
市民と交流しないエマニュエル大使と、レバノンの混乱をもたらすイスラエルの軍事侵攻
米国のエマニュエル大使がドジャースの大谷選手やカブスの鈴木誠也選手らのサイン入りユニフォームを退任する岸田前首相に贈ったというニュースがあった。エマニュエル大使にまつわるニュースは、大谷選手と面会したとか、政治家とゴルフをしたとか、政治家や有名人との交流に関するものばかりで、一般市民との交流に関するものはほとんどない。イスラエルとの二重国籍をもつエマニュエル大使は、8月の長崎平和祈念式典を、イスラエルの招待がないと言ってボイコットした。父親はイスラエルの極右軍事組織「イルグン」のメンバーだった人物で、大使自身も湾岸戦争の時にイスラエル国防軍に民間ボランティアとして参加したことがあるからその「イスラエル愛」は相当なものだ。
![](https://assets.st-note.com/img/1728111107-x7ts6aJrc3XjbSUl1024Puq8.jpg?width=1200)
米国の外交関係者が一般市民と交流しないのは、日本だけに限ったことではない。中東ではイラクやアフガン戦争を行ったり、イスラエルを一方的に支持したりする米国の大使館員たちは市井で人々との交流活動を行うことなどない。また、中東諸国の米国大使館はどこも要塞のような造りとなっていて、東京の米国大使館のように道路に建物が近接するような国はない。
米国が支援するイスラエルは、レバノンへの地上侵攻を開始した。1982年にイスラエルがレバノンに侵攻したことが、その後のレバノン情勢を悪化させ、ヒズボラの誕生を招き、イスラエルは自らの手でイスラエルに牙を剥くフランケンシュタインのような「モンスター」(=ヒズボラ)を生むことになった。
![](https://assets.st-note.com/img/1728111162-bpT316sBKQEjPXIMS5zxOGqg.png?width=1200)
現在、イスラエルのレバノン侵攻の目的は、レバノン南部を流れるリタニ川の北にヒズボラを押し出し、ヒズボラの脅威を減じることによって、ヒズボラの攻撃から逃れるイスラエル北部のおよそ6万人の避難民を自宅に帰還させることだ。それはネタニヤフ首相の公約でもある。
1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻は、イスラエルの地上侵攻は何千人ものレバノン人の犠牲をもたらし、レバノンの政治・社会を混乱に陥れ、ヒズボラを誕生させたが、それと同様な介入をまたイスラエルは行うようになった。
1948年のイスラエル国家の成立は、75万人ものパレスチナ難民を生んだが、レバノンにも多数の難民が逃げ込んだ。1970年代にはパレスチナの武装抵抗組織は、レバノンからの攻撃を行ったが、そのメンバーの数は2万人以上とも見積もられている。1982年6月、4万人以上のイスラエル軍が戦車とともにレバノンに侵入した。イスラエル空軍は、ベカー高原、ベイルート、またベイルートのパレスチナ難民キャンプを空爆した。
2カ月間ベイルートは包囲され、水と電気が遮断され、激しい空爆と基本的ニーズへのアクセスが断たれた結果、およそ19、000人のレバノン人、シリア人、パレスチナ人の民間人と戦闘員が殺害された。
レバノン当局は米国、フランス、イタリア、イギリスに支援を求め、これらの国は多国籍の平和維持部隊を派遣した。1982年8月までにPLOはベイルートからの撤退を余儀なくされ、北アフリカのチュニジアなどに避難した。
![](https://assets.st-note.com/img/1728111196-5q14mfcikbWoZ9vKuY0lXxFp.jpg?width=1200)
1982年9月14日にレバノンの次期大統領で、キリスト教徒のバーシル・ジュマイエルが爆殺されると、キリスト教ファランジスト(親イスラエルのクリスチャンの組織)の民兵はサブラ、シャティーラのパレスチナ難民キャンプで虐殺を行い、2、000人以上が犠牲になった。この事件についてはイスラエルも後に調査委員会を起ち上げ、イスラエルが間接的に虐殺に責任があると結論づけている。
多くのレバノン人とパレスチナ人は多国籍軍が失敗であり、特に米国はレバノンでの虐殺と、破壊の「共犯者」であると見なすようになった。1982年以降、80人以上の欧米人がヒズボラに誘拐され、拷問を受けたり、拘留中に亡くなったりした。
1983年10月23日、ベイルートの米軍の兵舎を標的にする自爆攻撃があり、米兵241人が死亡し、その直後にフランス軍兵舎で同様の自爆攻撃があって58人のフランス軍落下傘部隊の兵士が死亡した。「イスラム聖戦」という組織が攻撃声明を出したが、そのメンバーの一部はヒズボラの創設者たちだった。
イスラエル軍は82年8月にベイルートから撤退したが、2000年5月までレバノン南部の占領を継続した。イスラエル軍の占領の継続とともに、人々のヒズボラに対する支持は増大していった。ヒズボラはイスラエル軍が2000年にレバノン南部から撤退すると、シェバア農場(イスラエル・レバノン・シリアの間にある係争地、イスラエルが実効支配する)、ゴラン高原、パレスチナ占領地の解放を訴えることになる。2006年にヒズボラは初めてイスラエル領に入り、3人のイスラエル軍兵士を殺害し、2人の兵士を誘拐した。その報復としてイスラエル軍は空、海、陸上からレバノンを攻撃したが、その結果、1100人のレバノン市民が犠牲となり、120人のイスラエル軍兵士が死亡した。
![](https://assets.st-note.com/img/1728111234-VtoJ1nqBEIUy2feQGZN8rAbW.jpg?width=1200)
その後、昨年10月7日まで、イスラエルとレバノンの関係は平穏だったが、ガザでのパレスチナ人の被害が増大するにつれて、ヒズボラはハマスとの連帯を訴え、イスラエルをロケット弾やミサイルなどで攻撃するようになった。9月にイスラエル軍がポケベルを使った攻撃を行うと、ヒズボラのイスラエルへの攻撃はいっそう激しくなった。イスラエル軍の地上侵攻は1982年の侵攻と同じく、レバノン社会に対する壊滅的な打撃と、レバノン人のイスラエルへの根深い憎悪を生み出し、結局はイスラエルの利益にならないように見える。