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「子供の十字軍」とカティンの森の悲劇
「子供の十字軍」は、ドイツの詩人・劇作家ベルトルト・ブレヒトの作品で将来の平和を求めてポーランドから行進を開始する子供たちが遭遇する出来事がつづられている。日本語の訳を行った長谷川四郎氏(1909~87年)はソ連に抑留されて強制労働に従事した経験をもっていた。
「子供の十字軍」 ベルトルト・ブレヒト 長谷川四郎/訳
ポーランドに、一九三九年
むごたらしい戦争があり
多くの町、多くの村を
焼野原にした。
妹は兄を軍にうばわれ
妻は夫をうしなった
火と瓦礫のあいだ
子供はもう両親を
見ることなかった。
連絡絶えたポーランド
手紙はこない、報せもない
けれど東の国々に
ひろまる奇妙な一つの話。
雪のふる東の町で
ひとはうわさした
子供の十字軍が
ポーランドに始まったと。
隊伍をくんで街道を下る
腹のへった子供たち
かれらは仲間に加えた
廃墟にたたずむ子供たちを。
戦争から逃げたかった
悪い夢からにげたかった
いつの日か入りたかった
平和のある土地へ。
ポーランドはヨーロッパの大国のせめぎ合いの中で消滅と再生を繰り返した。ポーランドは、ウィーン体制下で成立した「ポーランド立憲王国」において、ロシアの皇帝が国王を兼ね、次第にロシア化政策が進められた。これに対して、1830年11月にポーランド人による反乱が始まり、翌年4月末にポーランドの独立を宣言したが、同年9月にロシアによって首都ワルシャワが軍事制圧されて、独立運動は壊滅した。ショパンはロシア軍のワルシャワ占領に衝撃を受けて有名な楽曲「革命」を作った。
1939年にドイツがポーランドに侵攻すると、ソ連も東からポーランドに攻め入り、ドイツとともに分割してしまった。アンジェイ・ワイダ監督の『カティンの森』は、1940年4月頃にソ連軍によって大量に殺害されたポーランド軍将校の家族の姿を軸に戦争の悲劇を描いている。ソ連はこの虐殺をドイツによるものとしていたが、ポーランドにはソ連による虐殺という疑念が根強くあり、1987年にソ連ゴルバチョフ政権は虐殺の真相を明らかにすることを約束し、ポーランド側がソ連の関与を裏付ける資料を公表した。1992年にロシア政府は、スターリンが虐殺の指示を下した文書を明らかにした。
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『カティンの森』は、ヨーロッパの隣国のせめぎ合いにあって国家消滅を繰り返したポーランドの悲劇をあらためて感じさせる作品だ。ソ連軍の占領を受けると、ソ連の手先となって虐殺の真相の追究を阻むポーランド人も描かれている。ワイダ監督は、第二次世界大戦後のソ連による抑圧的支配の実相をカティンの森事件を通じて明らかにしたかったに違いない。ワイダ監督は「真実は隠せない。昔のことを記録に残すのはわれわれの義務だ」と記憶の風化を防ぐことが、悲劇を再び起こさないために必要だと説き、「歴史」を映像で残そうとした。
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ワイダ監督は東日本大震災の際に、「日本の友人たちへ」という文章を寄せ、「こうした経験を積み重ねて、日本人は強くなった。理解を超えた自然の力は、民族の運命であり、民族の生活の一部だという事実を、何世紀にもわたり日本人は受け入れてきた。今度のような悲劇や苦難を乗り越えて日本民族は生き続け、国を再建していくでしょう」と書いたが、それは祖国ポーランドの経験を踏まえてのものだった。ワイダ監督が生きていれば、同様なメッセージをロシアの侵攻を受ける現在のウクライナに送ったかもしれない。
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