ウクライナ・ロシアの激戦地ドネツク市はかつて「百万本のバラの都市」と呼ばれていた
ウクライナ東部のドネツク州は激戦の舞台となっている。そのドネツク州の州都のドネツク市は、1970年にユネスコから世界一美しい工業都市として「百万本のバラの都市」というタイトルが与えられた。http://vasa-project.com/video/grom/ 人口はおよそ100万人の都市で、一人の住民が一本のバラをもつといわれるほど美しい花が咲き乱れる丘陵地帯や果樹園に囲まれ、総合大学、工業などの単科大学、郷土館、美術館など教育・文化施設も多かった。しかし、2014年にロシアがクリミア半島を併合した頃から政府軍と親ロシア派の分離主義者たちの戦闘が街の平安を奪い、破壊が進行していった。
ドネツク市は、元々はオレクサンドロフカとして知られたコサックの街で、ウェールズ出身の実業家ジョン・ヒューズ(1814~1889年)が開発したところだった。ヒューズは、アレクサンダーⅡ世がウクライナ南東部の石炭産業と製鉄業の開発を呼びかけたことに応じて、ウェールズから技術者や熟練工を連れてオレサンドロフカに乗り込み、製鉄所を建設した。
ヒューズの創設した工場は1913年までにロシアの製鉄所の74%までを生産するほど発展した。ヒューズは病院や、教会、学校など市の社会、文化、教育インフラを整備し、その功績によって、オレクサンドロフカは「ユゾフカ」と改称された。「ユゾフ」は「ヒューズ」のスラブ語の発音だった。1917年までユゾフカは人口67、000人の街に発展していった。ユゾフカは1961年にドネツクに改称されたが、ヒューズの功績が称えられて、彼の邸宅は保存され、この都市の中心にはヒューズの銅像が建てられている。1917年のロシア革命でウェールズ人たちは本国に帰国したが、ドネツクのサッカークラブ「シャフタール・ドネツク」はウェールズ人たちが創設したものである。
プーチン大統領は、親ロシアの分離主義勢力が活動するドネツク州などの国家承認を行ったが、駐英ウクライナ大使がヒューズの生誕200年を2014年に記念する行事をウェールズで催すなど、ドネツクはウクライナの土地として強く意識されている。ロシアはドネツクに侵攻して、ロシアはウクライナの領土保全や独立を奪っていった。
バラは平和のシンボルと言ってもよい花で、黄色のバラには「友情」「平和」「友愛」などの花言葉がある。2011年4月、ナガサキピースミュージアムの西側・三角芝生スペースに「平和のバラ園」が設置され、そこには「アンネのバラ」「プレイ(祈り)」「セント・コルベ」「ピース」という平和にゆかりのある種類のバラが植えられている。「アンネのバラ」はベルギーの園芸家のヒッポリテ・デルフォルヘ氏がつくり、アンネ・フランクさんの父親オットー・フランク氏に悲劇が繰り返されないようにという願いを込めて贈ったものだ。「プレイ(祈り)」もヒッポリテ・デルフォルヘ氏によってつくられたが、文字通り平和への祈りの想いが込められた。「セント・コルベ」は「プレイ」の枝変わりしたもので、長崎で布教活動を行い、アウシュビッツ強制収容所で亡くなったポーランド人、マクシミリアノ・マリア・コルベ神父を記念する。「ピース」は1945年、第二次世界大戦が終結したことを記念して名付けられた品種で、サンフランシスコ講和会議や国連発足の会議にも飾られた平和のシンボルともいえるバラだ。
た
ただじっと座って 待つことが忍耐なのではない
それは先を見通す力、全体像を描く力だ
棘をみながら薔薇の花を感じ
夜の闇の中で陽の光を感じる
愛の人には忍耐がある
彼は知っているから
月が満ちるには 時が必要なことを
(「詩 ルーミー Poetry of Rumi」のフェイスブック・ページより)
この詩のように、ウクライナの主権がしばらくの忍耐を経て恢復され、またドネツクで人々が心穏やかにバラを鑑賞できる日が来ることを、ウクライナをはじめ世界の多くの人々祈り願っている。