水を扱うことにかけて天才であったムスリムと、イスラム文化に憧憬をもっていたロルカ
九州を豪雨が襲って大きな被害が出たが、関東は暑い日が続いている。沙漠の民のアラブにとって、夏の暑さの下で暮らす日本人と同様に、緑や水は涼しさを与え、この上もなく貴重に思われてきた。
イスラムの聖典であるコーラン(クルアーン)には、「天国にはこんこんと湧き出る泉のほとり、緑したたる木陰で、うるわしい乙女にかしずかれ、たくさんのおいしい食物や酒や飲み物を心ゆくまで味わい、なんの気遣いもない生活を送る(平凡社『新イスラム事典』、352頁)とある。
緑とともに水も楽園のイメージと重なり、噴水もまたイスラム建築には欠くことができないものだ。イスラム世界ではモスク、浴場、病院、隊商宿(キャラバンサライ)、また個人の邸宅や宮殿に好んで噴水が設けられてきた。
「イスラム教徒は、例えば、グラナダのアルハンブラ宮殿に典型的に見られるように、水を扱うことにかけてはまことに天才的な技術者であった」-堀田善衛『スペイン断章』
「砂漠の民にとっては、水は最高の贅沢であり、二つの川の源泉近いところから,長大な導水路を山腹に作り込んで、モーターも何も無い時代にこの宮殿内と庭園との、数々の噴水がしつらえていた」。―堀田善衛「グラナダに住むことは、生涯の夢であった」(エッセイ)
イスラム建築で有名な噴水はスペイン・グラナダのアルハンブラ宮殿のもので、周辺の山岳地帯から水を取り入れ、涼やかな水を噴き上げる方式はイランに起源をもつとされる。部屋の内部にまで水盤や噴水を設置するのは、イスラム建築独特の様式であり、イスラムは「イスラムは大変寛容な政策をとり(改宗を強制しないなど)、ローマ時代の遺跡を有効に活用した。」(堀田善衛「スペインの沈黙」ちくま文庫)
時代を下って20世紀に短いながらも活躍し、グラナダで生まれたスペインの詩人フェデリコ・ガルシーア・ロルカ(1898~1936年)とってイスラム文化は憧憬の的であった。ロルカは、イスラム世界のペルシアのガザル(短い形式の抒情詩)に強い影響を受けていた。
ロルカは、ファシズムに傾倒する右翼活動家に殺害される直前に詩集を残したが、特にペルシア(イラン)の詩人オマル・ハイヤームやハーフェズへの強い傾倒が見られた。ロルカの最初の出版物は19歳の時の「オマル・ハイヤーム批評」で、グラナダ大学の芸術学部の紀要に掲載されたが、その時は「アブドゥッラー」というペンネームを使っている。「アブドゥッラー」はスペインのイスラム最後の王朝で、グラナダを首都としたナスル朝の最後の君主アブー・アブドゥッラー・ムハンマド11世(スペイン語でボアブディル)の名前からとったものだ。それほどロルカにはアンダルシアのイスラム・文化への懐旧があった。
ロルカの死後1940年に出版された詩集は『タマリット・ディーヴァン(ペルシア語で「詩集」)』というタイトルだった。タマリットはグラナダ近くにある農園・邸宅の名前でロルカは晩年好んで暮らしていた。この詩集でロルカは、彼のイスラム・スペイン(アンダルス)文化への関心や愛好を綴り、自らを「アンダルシアの詩人」と呼んでいた。1930年代のスペインにはアンダルス文化、特に文学分野の復興への広範な関心があった。ロルカは1492年のレコンキスタの完成をスペインにとっては大きな損失と形容していた。
「三つの川の小さなバラード」(ロルカ)
オリーブとオレンジのあいだ流れる
グァダルキビール雪から小麦へおちてくるグラナダの二つの流れ
おお 恋よ立ち去って帰らなかった!
ザクロ色の髯をはやした川グァダルキビールよグラナダの二つの流れ一つは涙
一つは血
おお 恋よ 空に消えた!セビリヤには帆舟でいく道がある
グラナダの水をこぐのはため息ばかりおお 恋よ立ち去って帰らなかった!
風はオレンジにざわめく高い塔 グァダルキビールダウーロとヘニールは小さな塔沼のほとりで真でいる
おお 恋よ 空に消えた!
誰が言うだろう水は泣き声の鬼火を運ぶと!おお 恋よ立ち去って帰らなかった!
アンダルシーアよ 運んでいけオレンジの花とオリーブをおまえの海へおお 恋よ空に消えた!
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