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「次の質問どうぞ」の大臣が考えたロヒンギャ難民支援策と、政変のバングラデシュの親日
自民党の河野太郎衆議院議員は26日、総裁選への出馬を表明し、「収支報告書を訂正して終わらせるのではなく、不記載となった金額を返還することでけじめとする」と述べた。これでは金を返せばすべてを水に流すとも聞こえるようで、これがけじめになるのかと思ってしまう。
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「高き地位にある人にとって盾となるものは知識と正義である」 -サーディー(イランの詩人:1210頃~92年頃)
「国の法律によって自分の身の安全を保ち、無事に一家の生計を立てていながら、利益だけは受けて、私欲のためとなればすぐに法を破るというのは、なんと筋道の通らない話ではありませんか。」 -福沢諭吉
自民党の裏金問題ではこうした古今東西の言葉を思い出してしまうようだ。2019年7月末に河野太郎外相は、ミャンマーでアウンサンスーチー国家顧問兼外相と会談し、日本がロヒンギャ難民問題についておよそ25億円の財政支援を行い、帰還した難民用の住宅整備計画を進めることになった。これに対して、スーチー氏は謝意を表明し、帰還の実現を果たしたいと述べたが、これは日本で暮らすロヒンギャ難民たちは冷ややかに見られていた。ミャンマーを離れたロヒンギャ難民はミャンマーへの帰国をまったく望んでいないからだ。スーチー氏もロヒンギャの人々の救済には関心がなく、ロヒンギャ問題の窓口としては不適当な人物だった。
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ロヒンギャ難民の人々がミャンマーに帰国しても政府軍や仏教過激派などの暴力的襲撃を受けることになる。河野外相の提案はミャンマーの現実を見ていないかのようだった。
ロヒンギャ難民の問題は日本では忘れられたかのようだが、ミャンマーからバングラデシュに逃れるロヒンギャ難民の数は増えている。2021年にミャンマーでクーデターが発生し、内戦で混乱すると、バングラデシュに逃れるロヒンギャ難民は増加した。多民族のミャンマー西部のラカイン州では、ロヒンギャ族は政府軍とともに、反政府武装勢力のアラカン軍の襲撃まで受けるようになった。また、ロヒンギャの若い男子は強制的に徴兵されてもいる。
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バングラデシュに逃れても、難民に対する財政支援はハシナ政権の下で減るようになっていた。バングラデシュでは、ハシナ政権のアワミリーグの支配が学生など若い世代の民主化要求運動によってあっけなく崩壊した。ハシナ政権は貧富の格差の拡大、ネポティズム、また政争などで評判が悪かった。300人以上の犠牲者を出す抗議運動の高揚でハシナ首相は国外に逃亡した。
ロヒンギャの問題はイギリス帝国主義が19世紀にミャンマーに進出すると、インド帝国ベンガル地方のムスリムたちをミャンマーのラカイン州へ移住させた。20世紀の初めまでにイギリスがラカイン州に送り込んだムスリムの数は元々住んでいた人口の倍あった。第二次世界大戦でロヒンギャはイギリス軍に、仏教徒は日本軍にそれぞれ協力した。イギリスは戦後州行政の重要なポストにロヒンギャの人々をつけることになったが、一部のロヒンギャもイギリスが彼らに自治を認めたと考えるようになった。
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しかし、1948年にミャンマーが独立すると、ロヒンギャはミャンマーの仏教ナショナリズムの台頭とともに、次第に市民権を失うことになる。1982年の国籍法でもロヒンギャには市民権が与えられることはなかった。1989年までにミャンマー政府はアラカン・ラカイン州ではロヒンギャを追放して、仏教徒を定住させる政策が行われていった。
現在、ロヒンギャの人々は教育、雇用、公衆衛生、住宅、宗教活動などの分野で様々な差別を受けている。ロヒンギャ難民が逃げ込んだバングラデシュの将来は不透明だが、暫定政権トップで、ノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏に対する信頼は厚く、新政権は格差の是正、人権規範を遵守することを訴え、そこに希望が見える。
バングラデシュは親日感情が強い国と言われている。バングラデシュは1971年にパキスタンから独立したが、最初に国家承認したのは日本だった。
バングラデシュでも、他のイスラム諸国と同じように、原爆を投下されるなど戦争で壊滅状態になりながらも、経済発展を遂げた日本に対する尊敬や驚嘆の念がある。バングラデシュでは、現在でも毎年広島・長崎の原爆の犠牲者を悼むキャンドル・サービスが行われている。
日本はバングラデシュにODAを供与してきた。日本はバングラデシュにとって最大の援助国である。バングラデシュでは1日の収入が1.90ドル以下の貧困層が全人口(1億7000万人余り)の11%余りを占める(JETRO)。しかし、近年は年間7%程度の経済成長を続け、人件費も安く、将来有望な投資先、市場として期待されるようになった。
1994年に南アジア諸国の中で日本の国連安保理常任理事国入りを真っ先に承認したのも、バングラデシュだった。
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日本貿易振興機構(JETRO)がダッカ市内の大学生を対象にして行った意識調査(日刊通商広報)では、バングラデシュにとって重要な国としてインドに次いで日本が挙げられている。その理由は日本が独立以来開発援助を供与してきた国で、さらに「友人としての感情を抱くから」だそうだ。さらに、国際協力機構(JICA)が行っている青年海外協力隊の活動も、農業技術や女性自立支援などがあり、隊員たちの真摯な活動ぶりや現地の人々との親密な交流がバングラデシュでは好感をもって見られている。
バングラデシュの政変によってロヒンギャ難民支援も不透明な状態だが、このような時こそ、日本は民主化を求める新政権の安定のための役割を果たすべきだろう。それについては質問、疑問の余地はない。
表紙の画像は【知られざる親日国】バングラデシュ 若者が解決! 日本の人材不足
https://www.youtube.com/watch?v=HmtRKD-QJ7Y