ガザの早期戦闘停止を呼びかけるウィリアム皇太子と、ユダヤ人を重用したスペインのイスラム王朝(グラナダ王国)
イギリスのウィリアム皇太子は、20日、「あまりに多くの人々が犠牲になった」として✕でガザでの早期戦闘停止を呼びかけた。
ウィリアム皇太子の父親のチャールズ国王は、1993年のオックスフォード大学イスラム研究センターのスピーチで、8世紀から15世紀に至るイスラム統治時代のスペインに触れ、イスラム・スペインがギリシアやローマ文明の知的財産を蒐集・保存し、科学、天文学、数学、法学、医学、薬学、農業、建築、進学、音楽などの分野で貢献していたことを強調している。
アルハンブラ宮殿で有名なスペインの都市グラナダには、スペインのユダヤ人の伝承では、新バビロニア王国のネブカドネザル2世(在位:紀元前605年~紀元前562年)によって追放されたユダヤ人たちが定住するようになった。711年にこの都市を支配するようになったムーア人(北アフリカのムスリム)はユダヤ人がグラナダを建設したと考えていた。後ウマイヤ朝の支配が同年に始まると、この街の守備や治安維持を担うようになったのはムスリムとユダヤ人たちだった。
スペイン南部アンダルシア州のグラナダの語源は、スペイン語の「グラナダ(ザクロ)」とか、アラビア語の「ガルナータ(見知らぬ人々の丘などの意味)」に由来するなどの説があり、グラナダはアラビア語で「ガルナータ・アル・イェフード(ユダヤ人のガルナータ)」とも呼ばれている。
イスラム統治時代のグラナダでは、ムスリム、ユダヤ人、キリスト教徒が共存して暮らしていた。
後ウマイヤ朝が倒れてスペインが小王国(タイファ)時代になると、1012年にグラナダ王国(スペイン・ズィール朝)という王朝がイスラム教徒のザーウィー・イブン・ズィーリー(Zāwī ibn Zīrī:955~1034/35年)によって創設された。この王国ではユダヤ人のシュムエル・イブン・ナグレーラ(993~1055/56年)が宰相にまで上りつめた。彼は、タルムード(ユダヤの口伝律法)学者、文法学者、文献学者、詩人、軍人、そして政治家であり、多様な才能で20年間にわたってグラナダ王国を支えた。彼はユダヤ教とイスラムの知識を深め、またユダヤ人としてはめずらしくアラビア語書道に習熟していった。シュムエルはグラナダ王国の外交と軍事の最高責任者となり、ムスリムの軍隊を指揮した歴史的にも稀有なユダヤ人だった。タルムードの学者としても優れ、あらゆる分野での学問を奨励した人物でもあった。アラブ人とユダヤ人、双方から尊敬を集めた。
グラナダのヌエバ広場には、ユダヤ人の翻訳家、哲学者、詩人のジュダ・ベン・サウル・イブン・ティボン(1120~1190年)の像がある。彼は、1190年にグラナダに生まれ、父親から医学を学び、28歳の時に、アラビア語の翻訳事業が盛んだったトレドに移住してきた。
彼の著作のほとんどは古典アラビア語によるもので、アンダルシアの学術図書はアラビア語からラテン語やヘブライ語に翻訳された。彼は医学の知識をカイロやコルドバの後ウマイヤ朝から得て、医学や天文学の知識が豊富ではなかったヨーロッパに紹介した。また、ティボンは、ムスリムとギリシア人の哲学を学び、アラビア語によって残されたユダヤ人によるさまざまな古典哲学研究の成果をヨーロッパの人々に伝えることを可能にした。さらに、翻訳を円滑に行うためにヘブライ語の言葉を創り出してもいる。
多様性の伝統があるグラナダで育ったスペインの詩人ガルシア・ロルカは、1931年にインタビューの中で、グラナダで育ったことが迫害された人々に対する同情や理解を自分にもたらしたと語った。ジプシー、黒人、ユダヤ、ムーア(イベリア半島や北アフリカのムスリム)、これらの抑圧された人々は自分自身の中にいるとロルカは述べている。ロルカはペルシア詩人オマル・ハイヤームやハーフェズにも強い影響を受け、19歳の時の最初の出版物は『オマル・ハイヤーム批評』であり、「アブドゥッラー(アラビア語の原義では〔神の子〕)というペンネームを使っている。