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国連の「パレスチナ人民連帯国際デー」と日本、パレスチナとの「連帯」の意
11月29日は国連が1977年に定めた「パレスチナ人民連帯国際デー」だった。1977年にはイスラエルが支配する占領地のヨルダン川西岸はわずかに3%以下だったが、現在では43%余りを支配する。
1967年の第三次中東戦争でアラブ諸国に圧倒的勝利を収めて、パレスチナを占領したイスラエルはパレスチナ独立国家を認めず、ヨルダン川西岸や東エルサレムの占領地にイスラエル人の入植地を拡大させている。国際法に違反する行為だ。
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2017年の「パレスチナ人民連帯国際デー」で日本の河野太郎外務大臣は、「日本は、パレスチナの人々が、悲願である国家建設に向けて一歩一歩前進していけるよう、今後も支援していきます。当事者同士が対話をし、和平に向けた前向きな一歩を踏み出し、最終的な解決を実現するために、日本は、信頼醸成の取組を通じて、その環境作りに引き続き貢献していきます。 いつかできる限り早期に、パレスチナがイスラエルと共に平和に発展していくことを願って。」と述べた。
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参議院議員であった山口淑子氏がレバノン・ベイルートのジューススタンドでジュースを注文すると、店の男性が「日本人だろう?日本は素晴らしい。ラジオ、テープレコーダーなんでもできる工業国だ。そしてカミカゼ、ミカド、カラテ、ジュウドウ、強い国だ。テルアビブでイスラエルをバッバッバーとやっつけた。」と語ったというエピソードが山口氏の著書の中で紹介されている。日本はパレスチナ問題で公正な立場をとっているという思いが、パレスチナをはじめ国際社会で共有されることが望ましい。
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イスラエル・パレスチナの二国家共存の障害となるようなイスラエルの措置について日本政府は非難の声を上げ続けている。
2021年イスラエルがヨルダン川西岸や東エルサレムにおける約1300棟の入植地住宅建設の入札を公示し、続いて27日に約3,000棟の入植地住宅の建設を承認すると、日本の外務省は、10月28日に報道官声明を出し、「入植活動は国際法違反であり、『二国家解決』の実現を損なうものです。我が国を含む国際社会の再三の呼びかけにもかかわらず、イスラエル政府が入植活動を継続していることについて、日本政府として強い遺憾の意を表明します。
我が国は、イスラエル政府に対し、イスラエル・パレスチナ間の信頼構築や地域の緊張緩和及び安定化に向けた努力の必要性を強調し、上記の入札公示及び住宅建設計画承認の撤回並びに入植活動の完全凍結を強く求めます。」と明確にイスラエルに呼びかけた。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/page3_003145.html
南アフリカ初の黒人大統領となったネルソン・マンデラは1997年の「パレスチナ人民連帯国際デー」でパレスチナ人が平和、繁栄、静穏、安全を享受するのは、差別がなくなった時で、パレスチナの民族自決と国家樹立を要求する世界的な声を上げていこうと訴えた。
「連帯こそ解放の手段」と唱えたのは、タンザニアの初代大統領ジュリウス・ニエレレ(1922~1999年)だった。ニエレレの特筆すべき活動は、アフリカの植民地主義からの解放を唱え、パン=アフリカ運動を推進し、南アフリカ、ローデシア(現ジンバブエ)、南西アフリカ(現ナミビア)の人種差別撤廃の運動を激しく繰り広げたことだった。彼はタンザニアをはじめアフリカの人権問題に関心を寄せ、人間の尊厳、抑圧された人々の解放、不正義・不平等の是正を唱えた。彼の大統領時代のタンザニアは経済的には国家予算の3分の1を国際的支援が占めるほど貧しかったものの、政治的には安定し、アフリカの中では最も識字率が高い国で、顕著な経済的不平等もなかった。
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正義や平等に重大な関心を寄せたニエレレは、パレスチナ問題にも注意を払い、「パレスチナ解放機構(PLO)」の活動家たちも受け入れるようになり、1973年にイスラエルとの外交関係を断絶した後で、PLOの大使館を首都ダルエスサラームに置くことをアフリカ諸国の中で最初に認めた。彼は雑誌インタビューの中で、「我々の世代は我々自身の国の民族解放闘争の世代だが、パレスチナの状態はまったく異なり、もっとひどい。パレスチナ人は国を剥奪され、自分たちの土地のない人々だからこそタンザニアをはじめ全世界からの支持に値する」と説いた。(African Arguments、19年3月13日)
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