本来のアラブの「誇り」とは破壊ではなく、平等社会の建設にあった
アラビア半島南部の国イエメンはサウジアラビアなどの空爆を受け、社会的安定とはほど遠い状態にある。イラク戦争が始まった頃、NHKの「視点・論点」で元イエメン大使の秋山進氏が「アラブの誇りとナショナリズム」というテーマで話をしていた。
その話の中で秋山氏は、アラブ世界は列強の一つの大国ロシアを破り、米国の原爆投下を克服して焦土から復興した日本がその技術と繁栄を石油に依存していることを熟知し、その挙動を熱い目で見守っていると語り、「民族がひとたびいきることを欲するならば、扉は必ず開けそれに応えてくれるであろう」というアラブの詩人の言葉をアラビア語で、板書しながら話をした。この番組のビデオを講義の中で紹介したら、アラビア文字をすらすら書く大使の様子に学生たちからどよめきが起こったことを覚えている。
秋山元大使からは9・11の同時多発テロの頃、共同通信の配信記事で、米国は自らがテロに遭う要因を自省できていないという文章を書いたところ、賛同されるハガキを寄越されたのがご縁で知り合った。当時は外務省を退職され、奥様の実家の岡山市で暮らしておられたが、岡山でイスラムに関して話をする機会があった時に面会に来られ、「ここでは質問が出ないでしょうから私が質問しますよ」と言われ、私の話が終わった後にフロアから質問がなかったら、秋山元大使が手を挙げられて「どうして大英博物館やルーブル美術館には中東に関する展示物があるのでしょう」と発言された。秋山元大使には、平易な質問で、講演に参加した人たちに中東と欧米の関わりを理解してほしいという配慮があったと思う。
秋山元大使は「最初イエメンのサナアを訪れた時、空から見たサナアの夜景は、香港が100万ドルならば1ドルという感じでした。人は貧しいほど情がいいんですよ。」とも語っておられていた。アメリカの中東政策に無批判に追随する日本外交を強く憂慮されていた。
日本はイエメンに水道施設、母子保健、教育などの分野で協力し、イエメン王国時代の1938年にアル・フセイン・ヤヒヤ・ビン・ハムード・アル・ディーン・フセイン皇太子が日本を訪れ昭和天皇に拝謁し、また1960年には今上天皇ご夫妻がイランからエチオピアに訪問される途中にアデン(当時はイギリス領)に立ち寄られ、イギリス総督公邸で一泊されるなど皇室外交も展開された。
サウジアラビアはイエメンを逐われたハーディ政権の復活を意図し、イエメンへの軍事介入を行ってきた。それにUAE,クウェート、バーレーン、カタール、さらには域外のモロッコまで参戦するようになった。
しかし、本来「アラブの誇り」とは、イスラムで重視する「協議(シューラ)」や「合意(イジュマー)」による政治的安定と経済的繁栄でなかったか。アラブ・イスラム世界の拡大は、その支配者たちが破壊者ではなく、建設者であり、階級社会でないイスラムの教義にアラブが進出した地域の人々が引きつけられた要素が大きい。「過激派の台頭」、国家が戦争主体として他のアラブ諸国に軍事介入することはアラブが自ら「扉を閉ざしている」かのようだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?