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欧米の武器・爆弾でパレスチナ人を弾圧するイスラエルは国家をもつ権利や資格はない ―ジェイムズ・ボールドウィン(公民権活動家・作家)

 アメリカの作家で、公民権活動家のジェイムズ・ボールドウィン(1924~87年)は、アメリカの人種的緊張から逃れるために、1948年にパリに居住するようになり、処女作『山にのぼりて告げよ(Go Tell It on the Mountain)』を1952年に書き上げた。1961年には自らのルーツを探求するために、セネガルなどフランスの植民地支配が行われた西アフリカ諸国を訪問したが、旧約聖書への関心からイスラエルも訪問した。西アフリカで自らのアイデンティティーを求めたボールドウィンは、祖国がなかったユダヤ人が祖先の地に創設したイスラエルに当初は好感をもった。

 イスラエルは、1950年代終わり、新たに独立したアフリカ諸国との外交関係を積極的に構築しようとしていたが、それもアフリカにルーツをもつボールドウィンがイスラエルを肯定的に見る背景となった。イスラエルはゴルダ・メイア外相を中心に非同盟諸国に参加する意図をもっていた。周辺のアラブ諸国と敵対するイスラエルは非アラブの国々、トルコやイラン、またアフリカ諸国と良好な関係を築こうとしていた。1965年夏には、ボールドウィンは、アメリカ・イスラエル文化財団と米国務省の共催によって、彼の戯曲「アーメン・コーナー」の上演もイスラエルで行われた。

 しかし、彼のイスラエル観は、劇的に変化することになる。それは1967年の第三次中東戦争でイスラエルがパレスチナ人の故地をさらに占領し、大量の難民を発生させたことと関連する。1970年代初めには明確に自らを反シオニストと形容するようになった。欧米諸国は中東地域を操作、支配するためにイスラエル国家を創り出した。欧米の爆弾や銃を用いて3000年の後にここには自分たちの故地があったなどと主張する権利はイスラエルにはないというのが、ボールドウィンの考えであった。

福岡で。10月22日。

 1970年代初頭、イスラエルがアパルトヘイトの南アフリカに接近するようになると、イスラエルとアフリカ諸国の関係が悪化し、アメリカの黒人とユダヤ人の関係もいっそう良好ではなくなった。ボールドウィンにとって、ヨーロッパ白人世界の贖罪の意味で認められたイスラエル国家は、アラブ人たちに自らと同様な権利をもたせないために受け入れがたいとボールドウィンは考えた。

 ボールドウィンにとって、ヨーロッパ白人世界の贖罪の意味で認められたイスラエルは、アラブ人たちに自らと同等の権利をもたせない、受け入れがたい国家だとボールドウィンは考えた。傲慢にも「中東」などという言葉をつくり出したヨーロッパが公平にパレスチナ人を扱わない限りこの地域には平和がやって来ないとボールドウィンは確信した。「中東(Middle East)」という言葉はヨーロッパから見て「中間の東」という意味である。

 抑圧されたアフリカ系アメリカ人の権利を訴えるボールドウィンには、同様に権利を剥奪されたパレスチナ人たちに対する共感や同情が自ずと備わることになったが、アメリカで強調されてきたアメリカでの人種差別が、イスラエル・ネタニヤフ政権によってアパルトヘイト状態に置かれるパレスチナ人たちの境遇と本質的に同じであることをボールドウィンの主張は教えている。

 ナチス・ドイツのヒトラーは、第三帝国と称して神聖ローマ帝国領の復活を実現し、オーストリア併合を行い、領土拡張主義をとったが、神聖ローマ帝国は1806年まで継続した国家であり、ダノン大使が引き合いに出した3000年前という歴史よりはるかに近い過去だ。ヒトラーは「民族自決主義」をもち出して、ドイツ民族の子孫と考えられる人々すべてを統一しようとした。そして、ドイツがポーランドや他のスラブ系民族の国や地域を軍事的に征服して、経済的に自存できる、軍事的にも動じない十分な領土を獲得することを目指した。この領域においてはドイツ民族が「主の民族(Herrenvolk)」であり、従属する人々を下に見るヒエラルキーのトップに位置する。そして彼らを無慈悲に、効果的に搾取する。

 イスラエルは現在ヨルダン川西岸の水源をコントロールし、その経済発展や維持に役立て、またヨルダン川西岸のパレスチナ人の土地を収奪して、入植地を拡大する。ガザに対しては経済封鎖を行い、パレスチナ人たちへの物資の移動を必要以上に制限して、実質的な占領下に置き、彼らを政治的にも経済的にも従属させている。主の民族と従属する民族の関係、ナチズムとシオニズムはよく似通うイデオロギーだ。


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