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日本・トルコ国交樹立100周年と、日本を評価してきたトルコはガザ住民に深く同情する

 第一次世界大戦で中央同盟側についてオスマン帝国が敗れ、トルコ共和国が成立したのは1923年、その翌年に日本がローザンヌ条約を批准し、発効したことによって、日本とトルコ共和国の外交関係が始まった。今年は国交樹立100年で、全日空の羽田~イスタンブール線の就航や秋篠宮夫妻のトルコ訪問なども計画されている。

 トルコと日本の外交関係は、オスマン帝国時代からすでにあり、1887年日本の皇族である小松宮彰仁親王は、1889年(明治22年)にトルコを訪問した。ヨーロッパ列強の植民地主義的進出に苦しんでいたオスマン帝国皇帝アブドゥルハミトⅡ世は、アジアで台頭する日本に共感を覚え、日本との平等条約締結を考え、また小松宮彰仁親王殿下のトルコ訪問に対する返礼などの目的で、エミン・オスマン海軍少将を団長とする親善使節団を日本に派遣した。使節団一行は東京に3カ月滞在中、官民を挙げての歓迎を受け、1890年九月一五日、横浜港を出港、帰国の途に着いた。翌9月16日、エルトゥールル号は串本町大島樫野崎沖を航海していたが、台風に遭遇して、岩礁に激突して、オスマン少将以下587が死亡、生存者わずかに69人だった。

トルコ軍楽隊 表参道 https://www.youtube.com/watch?v=pB7lTEI4rxI


 この遭難に対して当時の大島島民は生存者の救助、介護、また殉難者の遺体捜索、引き上げを行い、日本全国からも多くの義捐金や物資が事故の生存者に対して贈られた。生存者たちは神戸の病院に送られて治療を受け、比叡、金剛の戦艦で1891年月にオスマン帝国に帰国した。現在でも和歌山県串本町では、エルトゥールル号の犠牲者たちを追悼する行事が5年ごとに行われている。

 トルコは、オスマン帝国時代にロシア帝国主義の進出に苦しめられた。日本が1904年から05年にかけての日露戦争に勝利すると、トルコの人々を奮い立たせることになった。トルコなどイスラム世界では「被抑圧者」の「抑圧者」の勝利とも受け止められ、トルコの作家で、婦人解放運動を担い、ナショナリストでもあったハリデ・エディプ・アドゥヴァル(1884~1944年)は、日本の勝利に感銘し、1906年に生まれた次男を、ハサン・ビクメトツラー・トーゴー(東郷)と名付けた。「東郷」とは日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利した東郷平八郎連合艦隊司令長官のことだ。

イスタンブールの東郷通り


 トルコの詩人メフメト・アーキフ(1783~193年)は、日本人について、「日本人とはいかなる民族か、尋ねてみるがいい。驚きのあまり、私は彼らを十分描ききることなどできはしない。ただ、これだけは申し上げよう―そこにあるのは明白なる(イスラムの)教え。寛大なる魂が行きわたり、ただその形が仏陀になっただけのこと。出かけてゆき、イスラムの純粋さを日本人に見るがいい。かの背丈小さき、偉大なる民族に属する人々を今日こそは。」と書いています。(杉田英明『日本人の中東発見―逆遠近法のなかの比較文化史』東京大学出版会、1995/96)

イラン・イラク戦争中トルコ航空がイランのテヘランに残った邦人を救ってくれた https://ameblo.jp/kak-dela/entry-12125982396.html


 1917年にロシア革命が発生すると、赤軍側に加担することを恐れられたオスマン帝国(トルコ)の捕虜たちは帝政ロシアによってさらにシベリアに抑留されたが、シベリアに出兵した日本軍はトルコ人捕虜たちを平明丸でイスタンブールに護送することを計画した。平明丸に乗船していた千村中佐は、捕虜たちに対して「諸君、我々は今、この喜びを互いに分かち合っている。家族はあなた方の帰りを今か今かと待ち構えていることだろう。 世界の支配者は東洋から西洋へと移った。トルコ人と日本人はその支配をヨーロッパから取り返す任務がある。しかし、あなた方は我々よりもより努力が必要だろう。なぜならあなた方は我々よりもヨーロッパに近いからだ。未来を共に夢見よう。あなた方の長い旅路に平安あれ。」と語ったという。

http://blog.turkistan.moo.jp/?day=20060322

 
 1933年9月18日に東京で行われた広田弘毅外相とトルコの代理大使との会談で広田外相は、トルコ側に日本、トルコの友好関係を次のように形容し、「世界を照らしているものが二つあります。一つは月です。もう一つは太陽です。一方はトルコを、もう一方は日本を象徴しています。この二つは必ず将来の世界を照らします。私はトルコ政府と強い友好関係を築くべく、最大限の努力をします。」と述べた。

 日本とトルコは地震の被害が多いという共通点もある。トルコのエルドアン首相(当時)は、東日本大震災の際にトルコの救助隊に「死ぬまで日本に残って救助を続けろ」と檄を飛ばしたという。そのぐらいの気構えで救助に臨めということだったのだろうが、トルコの救助隊は外国のチームの中では日本に最も遅くまで残って支援を行っていた。

 2011年10月、トルコ東部で発生した大地震の際に救援にかけつけ、余震の犠牲となったNPO法人「難民を助ける会」の宮崎淳さんの銅像がトルコの黒海に臨むゾングルダク県コズル市の「ミヤザキ公園」に2013年夏に建てられた。

トルコで2011年に地震被災地の支援活動中に死亡したNPO職員宮崎淳さん=当時(41)=の遺志を伝えようと、名前を冠した日本庭園「アツシ・ミヤザキ・パルク(公園)」が西部イスタンブール郊外のサルエル市に完成し、2013年10月5日、開園式典が行われた。宮崎さんの胸像も除幕された。https://worldflags.jp/blog/10435/


 宮崎さんが亡くなった際にトルコのギュル大統領は「私たちトルコ国民は、自己犠牲の精神を決して忘れません。被災地・バンにおける献身的な活動を通じて、私たちの心の中に長く記憶されることでしょう」という内容の書簡を天皇陛下に送り、宮崎さんへの弔意を示した。

 トルコのエルドアン大統領は、イスラエルのガザ戦争について厳しい姿勢を見せ、24年7月30日にもイスラエルのガザ攻撃はまるでテロリスト国家のふるまいだと発言した。エルドアン大統領は、イスラエルは、この地域(中東)で侵略、虐殺、土地の占領で安全保障を考える唯一の国だとも述べた。トルコは24年5月にイスラエルとの貿易を禁止する厳しい措置をとったが、米国のNATO同盟国でもあるトルコがイスラエルに厳格な姿勢をとり、イスラエルの食料やエネルギー事情にも影響を及ぼすことはイスラエルにとっては深刻な意味をもつことだろう。常にムスリム同胞のガザ住民のことを気遣って様々な支援をガザに対して行い、イスラエルにも圧力をかけてきたトルコは、中東地域の大国でもあり、日本がパレスチナ問題に関する協議を行う相手としても欠かせない国であるはずだ。

トルコのエルドアン大統領はイスラエルを「テロ国家」と呼ぶ https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=jyHCxV_gKiI


 日本は米国のような欧米諸国だけでなく、トルコのような地域大国とも中東問題について協議を行うべきだろう。地域の問題については、地域の人々の意思を考慮し、尊重すべきことは言うまでもない。パレスチナなど現地の人々の意思を無視したバルフォア宣言や国連パレスチナ分割決議、イラク戦争などが中東地域の混乱を招いてきた。中東問題について日本が寄り添うべきは欧米諸国ではなく、パレスチナをはじめ中東の現地の人々の心情であるはずだ。

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